猫のイラスト
伊豆熱川の海岸

湯ノ街ネヲンの温泉旅館物語

1968年(昭和43年)の初夏、26才のオレ(湯の街ネヲン)は、下田市の職安で紹介されるがままに、熱川温泉の旅館に就職した。陸上自衛隊の無線通信隊員から温泉旅館の番頭さんへと転身した。世の中は、カラーテレビ、クーラー、カーの三種の神器時代へと移行しつつあり、日本国中が青春時代だった…。どこもかしこも若者で溢れかえっていた。ここ熱川温泉も例外ではなかった。

熱川温泉

職安で紹介された旅館は、熱川温泉街のメインストリートに面し、立派な唐破風の玄関がある和風旅館であった。右隣りにはみやげ物店が併設されていた。

温泉街の昼時は深閑としている。オレは、3段ほどの石段の上に建つ旅館を見上げながら、こんな温泉場のこんな旅館で、蒲団敷き、風呂掃除、庭木の手入れ、そして、休日には温泉三昧、海辺で読書と…。そんな世捨て人のような人生でもいいと瞬時に思った。

が、この時のオレは、この旅館に海辺に建つ新館があることを知らなかった。前年には国道135号線のバイパスが稲取まで開通した。熱川温泉では、海岸通りが拡張され防波堤が完成し、ホテル旅館の大型化がはじまっていた。このあと温泉旅館が高度成長の波に飲み込まれ大発展するなんて、無論、知る由もかった。

まわりに人影はない。静かである。オレ一人の世界であった。

熱川温泉の由来

熱川という名の由来は、昔、この地にあたたかな川が流れていたからだという。今では湧出する温泉のほとんどが旅館などで有効利用されているが、かっては、自噴するままに川に流れ込んでいた。

熱川温泉街の中心部を流れる濁川の河口付近
熱川温泉の中心街を流れる「濁川」

伊豆熱川駅に降り立ち、目の前の噴泉塔(源泉櫓)や、眼下のあちこちからからモクモクく立ち上る湯けむりを見れば、川の流れが暖かそうなのは、あなたも感じるでしょう。ちなみに自噴する源泉の温度は、ほぼ100度です。

さて、天城山系の襞の一つに開けた熱川温泉が、まだ、伊豆の秘湯といわれていたころは静かな農村であり多くの村人たちは、日当たりのよい東向きの地形を生かして「きぬさやえんどう豆」を栽培していた。

この温暖な地で収穫される「きぬさやえんどう豆」は、いち早く市場に出荷できたので高値がついた。おかげで村人達はおおいに潤い、このさや豆を「成金豆」と呼んだ。

ここ熱川温泉は大雨が降ると、街なかを流れる清流はあっという間に恐ろしいような激流となり海に注ぎ込み、たちまちのうちに河口を黄土色に変色させてしまう。熱川の温泉街の中心を流れる川の名は、熱川ではなく濁川という。

「天城越え」というが、天城山という単独の山はない。天城山とは、天城連山(天城山脈)の総称で、伊豆半島を東と西にわけている。伊豆の山々に降った雨は、やがて、幾筋もの清流となって山ひだをかけおりる。東に流れたものは相模灘に、西側は駿河湾にそそぐ。

時代は順風

自衛隊員は、私物の歯ブラシが1本と、パンツが1枚あればなんの不自由もなく日々の業務や生活が送れた。親方日の丸で、仕事及び生活必需品を現物支給してくれたからだ。さらに、月給は7,500円であった。ラーメンが180円の時代である。思えば、温泉旅館も衣食住の心配なく生きていける世界であった。

オレは、オープンしたばかりのホテル アタガワの小さな社長室で面接をした。結論は、オレの都合がつき次第いつでも来いということで、給料は前職の2倍の15,000円を出すということであった。

このときのオレは、なんの考えもなく温泉旅館に就職たが、時代の流れというものは凄まじく、スタート時の年収が180,000円だったオレの給料は、14年後(40才)の退職時の年収は、なんと5,000,000円にもなっていた。もちろん、それなりにオレも頑張ったけど…。

ボンネットバス
伊豆半島をぐるっとめぐる定期観光バス

さて、東海バスの社史によれば、1967年(昭和42年)の3月28日には、なんと、1,400組もの新婚さんが伊豆半島をぐるっとめぐる定期観光バスに乗車したとある。ちなみに、車中での新婚さんたちのようすを聞かれたバスガイドさんたちは一様に答えたという。皆さんよく寝ていましたと…。

湯の街ネヲンは、新婚旅行ブームの真っ最中の伊豆熱川の旅館に就職したのであった。給料が、倍増したと素直に喜んでいた。

サラリーマンのいいところは、自分や同僚が貰う給料の額には敏感であるが、社長さんの儲け中身は詮索しないところである。当時の新婚さんの宿泊料金は、一人一泊二食5,000円だった。ホテル アタガワには客室が50室もあり、連日ほぼ満館であった。湯の街ネヲンの月給が15,000円であったということは、社長さんのフトコロにはどれほどのお金がころがりこんだのであろうか。

旅館生活のはじまり

9月のはじめ、オレ・湯の街ネヲンは有限会社 青雲閣、通称 ホテル アタガワの社員となった。経理係として採用されたオレの仕事は、お客さんから宿泊料や飲料代を頂くための請求書を書く「お会計」係であった。

当時は温泉旅館に泊まったり、レストランで食事をすることが贅沢な行為とされていたので、温泉旅館等は都道府県の首長から料理飲食等消費税なるものを特別徴収せよと命じられていた。これって税金を扱うことなので、しち面倒くさい計算をして公給領収書(請求書)を作成しなければならなかった。その公給領収書の記載はすべて手書きであった。さらに厄介なのは、すべての計算がソロバン一本だったのでかなり大変な作業であった。

初出勤の朝、仕事の先生である真知子先輩を待った。なんと、先生はあの時の女性であった。気位が高いわけではないが、ツンとした感じの色白の美人であった。オレ、内心でヤッター! であった。

しかし、そんな高揚感もすぐに吹っ飛んだ。朝の仕事が一段落した時に、真知子先輩が言った。「もう私、明後日から来ないから」と…。

後日、この真知子先輩が、静岡県を代表する伊豆下田の名門女子高の出身だと知った。それで、あの日の職安でのナゾが解けた気がした。

職安の歴史ある木造の階段を登った二階の求人室にあった求人票は、ほぼすべてが温泉旅館の女中さんであった。男といえば、造船所の職工ぐらいしかなかった。こりゃあダメだとあきらめて帰りかけようとしたとき、暇そうにしていた高齢の職員が声をかけてくれた。運命のひと声であった。

下田市職業安定所
下田市職業安定所

「かくかくしかじか」と求職の意思を告げると、その職員は「会計事務所が、いちげんのどこの馬の骨ともわからないヤツを採用するはずがないだろう」と、口悪くいいながら席を立ち、奥の部屋から持ってきた一枚の求人票を差し出した。

その求人票には熱川温泉の青雲閣とあった。ここの職安の管轄は下田市と賀茂郡である。市内の下田温泉をはじめとして、東伊豆には熱川、稲取温泉、西伊豆には土肥、堂ヶ島などの温泉地があり、そこには温泉旅館が星の数ほどあるのに、なぜ「ここへ行け」と言ったのか今でも疑問だ。

当時の温泉旅館は、働き手は必要であったが、人材云々というレベルにまではいっていなかった。

そういえば、ここの社長は、東北の国立大学で農業を学んだという業界では異色の人であった。いち早く人材の重要性に気がついて、いろいろと手をまわしていたのだろう。参考までに、こんな落ちこぼれのオレでも業界によっては、人材という網に引っかかるものだと知った。スッキリ!

青雲閣みやげ物店
青雲閣みやげ物店

もう一つ、真知子先輩の後日談。ここ熱川にきて初めて寒いと感じた冬の日の午後、本館の隣で、熱川橋のたもとの青雲閣みやげ物店内で七輪に手をかざし暖を取っていた真知子先輩を見つけた。退職したものと思い込んでいたオレは、うれしくなってすぐに真知子先輩のそばにいった。仕事場が違っていたのでずっとすれ違いだったのだ。メインストリートに面した北向の店内にはつめたい風が吹き抜けていた。

「先輩、寒くないですか?」

「平気だよ」といって、真知子先輩は両足を七輪の両端の乗せて「おまんたん火鉢をやっているから」といいながら、口を大きく開けて「あはははは…」と笑った。真知子先輩の明るい一面を見た湯の街ネヲンは、なぜかホッとした。

はや半年が過ぎた

東伊豆町の町花 ツワブキ
ツワブキの黄色い花

熱川の海岸沿いの切り立った崖のたもとの陽だまりに、ツワブキの黄色い花が咲くと伊豆にも冬がやってくる。伊豆大島がくっきりと見え、月明かりとイカ釣り船の漁火が幻想的な冬の季節となる。

ツワブキのつややかな葉に黄金色の花は伊豆の海岸によく似合う。

秋が深まった。湯の街ネヲンの旅館生活も三か月が過ぎようとしていた。この頃には、日常のお会計の仕事も大過なくこなせたし、会社の組織のこと、旅館業務の流れの全体もやっと把握できるようになった。

本館の青雲閣は、旅館であり、みやげ物店であり、社員寮や備品の倉庫、洗濯場を兼ねていた。ちなみに洗濯場とは、当時の旅館は浴衣、シーツ、枕カバーなどのリネンを自館で管理、洗濯していたのでその場所や設備のことをいいます。天日干しした浴衣やシーツはお日様の匂いがしバリッとしていて清潔感がありとても気持ちがよかった。

穏やかな秋の空が続くある日、湯の街ネヲンは、昼の休憩に帰る若い女中さんのスヱちゃんと一緒になった。スヱちゃんは、南伊豆町の出で色が白く笑うと目がなくなる可愛い娘で、伊豆の自然のことなどをよく知っていた。ツワブキの花のこともスヱちゃんに教えられた。大田道灌公の碑を右にみて熱川橋につづく川沿いの登り坂にさしかかると「ネヲンさん、この川の名前を知っている?」とスヱちゃんがいった。

穏やかな流れの川面を見ながら「知ってるよ、熱川だろう」と、オレは自信をもって答えた。が、スヱちゃんは「違うよ、本当は濁川っていうんだよ」と、にわかには信じられないことをいった。湯の街ネヲンが、ああ本当に濁川だと実感したのは、それからず~っとあとの大雨が降った日である。黄土色に変色し牙をむいたような激流に変わった流れを見て恐怖を感じたときであった。

どんぶり飯

どんぶり飯にたくあん
どんぶり飯

ネヲンにとって青雲閣には楽しみがあった。鼻の高い魔法使いのような顔をしたご飯炊きのおばあさんが、いつも「さあ、食べな」といって、どんぶり飯にたくわんを二切れのせて手渡してくれるからである。

調理場は昔のままで、薪で炊いたご飯はとても美味かった。白いご飯がご馳走の時代の話しである。この魔法使いのお婆さんの特技は「たくあんの油炒め」で、古いなったたくあんを菜切り包丁で薄く切り、塩抜きをし、大鍋で炒めて甘辛く味付けをしたもである。オレ、たくあんにたくあん以外の食べ方があったと知ったこの時は仰天した。

こんなとき、いつも「ネヲンさん」といって近づいてくる調理補助の女の子がいた。「私、来年は18になるの! そしたら着物を着て女中さんになるんだよ」と、嬉しそうにいっていた。

なんで一杯のどんぶり飯で…、と思う今の人達には想像もつかない世界がそこにあった。ホテル アタガワは三食まかない付きであったが、まともな食事はサバの味噌煮などの一品のおかずが確保される夕食のみで、朝、昼はあるもので済ませなさいということであったが、あるのはご飯と煮詰まったみそ汁だけだった。

最悪なのが昼めしである。食堂とは名のみで、食器の洗い場であり、飲料の保存庫であり、ご飯を炊く炊事場の片隅で、大きな配膳台が食事用のテーブルを兼ねていた。お会計係は仕事がら終わるのが遅かった。だから、昼飯はいつも一番最後である。食堂の電気をつけるとステンレスの配膳台のうえでチャバネゴキブリがウロウロとしていた。そこで、臭くなったご飯の匂いをまぎらわせるために、みそ汁をかけて一気に流し込んだ。

本来ならば涙がこぼれるようなこの話、この時の湯の街ネヲンにはこんなことさえ未知の温泉旅館生活の楽しさの一片になっていた。

水が合うという言葉があるが、温泉旅館勤めのネヲンにはお湯があったのだろう。毎日が楽しくてしかたがなかった。もしかしたら、自分自身では気がつかなかった「水商売の適性」があったのだろうか。

青雲閣の露天風呂
伊豆大島を望む大きな露天風呂

ちなみに水商売の適性者とは、芯の部分に「真面目さ」というものを持っていて、あとは分厚い「いい加減さ」を身にまとっている人である。水商売の世界では真面目さが勝った人は行き詰ってしまうし、いい加減な人は、どぶ川の澱みのはてに流されてしまう。

晩秋の風景

秋の新婚旅行シーズンが終わりに近づくと、熱川バナナワニ園に隣接する東海バスの熱川営業所に着く定期観光バスから降りる新婚さんの姿がめっきりと少なくなる。旅行シーズンの終わりを告げる晩秋の風景となる。

年も押し詰まったシーズンの最後にやって来るお客さんは、同窓会などの年配者たちだった。なんと、このグループの予約方法は宿泊可能日を問い合わせるハガキからはじまる。

宿泊料金を安くしてもらうので、旅館の都合に合わせますという配慮からである。当時のおじいちゃんやおばあちゃんたちは礼節をわきまえていた。安く泊めてもらったお礼にと、売店でたくさんのお土産を買って帰った。そこには、泊ってやるという振舞いはなかった。

今日ような何でもありの温泉旅館業界にした責任は、旅館自身か、観光施設やドライブインか、雑誌やテレビか、はたまた、お客さん自身か旅行業者たちであろうか!?

大掃除

にぎやかな大掃除がはじまる
窓ふき

世間が慌ただしさをます師走も半ば…。しかし、温泉街からお客さんの姿が消えると街じゅうはお正月を迎える準備一色となる。どの旅館の窓という窓に蒲団が干され街じゅうが蒲団で満艦飾となった。

館内では、干した布団をパンパンと小気味よくたたく音、パタパタとはたきをかける音、シュッシュと箒で掃く音、雑巾がけのキュッキュッ…などという大掃除特有の音なき音が響き渡っていた。

なんと当時は、板前さんたちも参加して一部屋に5人もの若者が群がって隅から隅まで磨きあげ全員でお客さんを迎える準備をする。本当の「おもてなしの心」があった時代の話である。

一日の作業を終えると若い従業員達は思い思いに青雲閣の寮へと戻った。この時だけは世間並みに8時間労働であたった。

露天風呂

たった15室の本館の青雲閣は、主に社員寮として使われていたが、わずか10年ほど前には、熱川温泉で3番目という規模を誇った。玄関の奥には濁川を見下ろす大きな露天風呂があった。川向こうの旅館の赤松の植え込みが趣を添えていた。

時代はおおらかであったのか露天風呂からは温泉街の中心、熱川橋がすぐそこに見えた。が、ここは橋からはやや見上げる位置にあったので、湯船のふちで立ち上がらねば裸をさらすようなことはなかった。

男女それぞれの内湯からはともに露天風呂へ出入りができた。露天風呂の出入り口には男女をわける長さ3mほどの小さな堤があり、その上は丸竹をあんだ生け垣風の花壇がしつらえてあったが、ほぼ混浴である。

シーズン中は帰寮の時間もまちまちだったしお客さんもいたので、寮生たちは、そっと浴場を利用して不謹慎なことはしなかった。

しかし、シーズンが終わったという解放感もあるこの季節、寮に戻った若者達の談話の場は風呂場であった。大型テレビが普及するずっと以前のことである。この若い男たちには、この露天風呂でおおいに楽しんだ。

男たちは露天風呂でたわいもない話題で時を過ごした。疲れを知らない若人って素晴らしい!

女風呂
女風呂から笑い声が聞こえた

ある日のある時、リーダー格の番頭さんが人差し指を口に押し付け「静かにしろ」との合図をおくりながら女風呂のほうに目配せをした。

女風呂から笑い声が聞こえたのである。リーダーは、片足で堤防に取り付きガマガエルのような格好で生け垣の隙間から女風呂を覗いた。他の若者も静かに湯をかき分けながら生け垣に取り付いた。男たちのガマガエルのようなうしろ姿は見づらかった。

「コラァー」
「コラァー」

若い男達にとってのこの興奮の劇場も、突然、幕が降りる。露天風呂に面した二階の廊下の窓が勢いよく開けられ「コラー、お前等なにしてる」と、元気な女中さんの一喝で、ザ・エンドであった。男たち湯をバシャバシャとさせながら競ってその場を離れた。

ネヲンはこの劇場には参加しなかった。品行方正だったからではない。近眼だったからである。風呂場ではメガネが湯気で曇って用をなさないので、入浴時にはメガネを部屋に置いてきていた。メガネがとても高価な時代の話である。

参考であるが、覗かれた娘たちの反応には二種類あった。「キャ~」との悲鳴とともにすぐ逃げる娘と「バカ、このスケベ」と反撃する娘である。男性天国の時代であった。これが今の時代であれば死刑に値するだろう。

もうすぐお正月

キダチアロエ
キダチアロエ

キダチアロエの花は冬季に開花する。キダチアロエは万能薬として知られ、また、霜の降りない伊豆には雑草のように繁茂し株立ちする花の群生は、冬の伊豆の風物誌にもなっている。この花が咲くとここ熱川温泉にももうすぐお正月がくる。

年が押し詰まってくると調理場は活気がつづくが、穏やかで静かであった。板前さんたちが手間ひまかけてすべてのおせち料理を手造りしているのだ。これでお正月のお客さんを迎える準備は万全となる。

ネヲンはメシ(食事)とは、すきっ腹を解消するものという時代に育ったので、栄養バランスがよくてボリューム満点の自衛隊時代の食事は、完璧で大満足であり、食事とはこうあるべきだと思っていた。

が、旅館勤めをして、板前さんが作る本物の料理をみたときは、その華やかで美しさに眼が丸くなった。自分がもっていた食事の概念が、きれいに突き崩された。そして、いつかは自分もお客さんになってこんな料理を食べてみたいと思った。本物の手作りの料理を提供していた時代の旅館の話しである。

しかし、旅館の料理に憧れを抱いたネヲンも、おせち料理にはたいして興味がわかなかった。それは、台所中をいっぱいにして母親が作ってくれたおせち料理と大差ないように思えたからだ。おせち料理に対する愛情は母親の方が勝っていると思ったからだ。

旦那さんの新年の挨拶

お正月
お正月

元日の朝6時、羽織袴姿の旦那さん(社長)を前に総勢60余名の従業員が広間に集まった。はじめて参加するネヲンが聞くところによると新年恒例の旦那さんの挨拶があるそうだ。新しい年を迎えるために新調された着物を着た若い女中さんたちと、パリッとした真新しい白衣姿の板前さんたちの姿がまぶしかった。

旦那さんの新年の挨拶は気負いのない話しぶりで、世の中の平穏と全従業員が心身ともに健やかで穏やかな正月が迎えられたことの喜びを、ニコヤカにそして簡単にのべた。

挨拶が済むと板前さん女中さんの順で、大番頭さんが注ぐお屠蘇の前へと動いた。余談だが、酒飲みはこんなときでも一番大きな杯を取ろうとする。

お屠蘇をいただいたあとは旦那さんの前で一人ずつ「おめでとうございます」と新年の挨拶をする。旦那さんは、満面の笑みを返しながら「おお…」と言葉にならない言葉を発しポチ袋をそれぞれに手渡した。素晴らしい日本の正月の風景があった。

元気な女中さん
女中さん

新年の行事がすむと、女中さんたちはポチ袋を胸元に差し込みながら足早にそれぞれの持ち場へとかけていった。初日の出を拝むお客さんたちのうごきにあわせて新しい茶器セットを持って客室のドアをたたいた。この日は縁起のいい桜茶が用意されていた。

女中さんたちはよく動きまわった。若さだけが理由ではない。旅館の従業員たちには、社会的な階級制度の意識があったわけではないが、お客さんは雲の上の存在であり、自分たちとは違う世界の人たちであると無意識のうちに思っていたからである。

女中さんたちはお客さんの気持ちを汲み取ってしごく当たり前のように先へ先へと動いた。当然、どのお客さんも女中さんの働きに見合うだけのチップをくれた。特に三が日は想像を絶する金額となった。

ずっと後になってネヲンは思った。庶民は精一杯の予算で温泉旅館に泊まるべきではないと…。

理由は、庶民は背伸びをするとチマチマしたことに文句をつけたくなるからだ。テレビや週刊誌などで知った知識をふりまわして偉そうにしていると、旅館の人たちが仕返しをするわけではないが、後味の悪い旅行になってしまう。

庶民が温泉旅館に泊まるときは、奮発して予算の三倍ぐらいの旅館を選ぶべきである。そうすれば、そこには庶民の知らない世界がある。知らない世界のことには文句のつけようがない。未知の見分は、世間も広くなるし心も豊かになる。さらにいえば、借金に追われて見境なく客を泊めようとする旅館は一刻も早く閉館すべきだある。と…。

初日の出
初日の出

ホテルの正面には伊豆大島が大きく横たわっている。6時54分、初日の出がその伊豆大島の右端から顔を出した。お客さんたちから歓声と拍手がおこった。当時の熱川の海岸線は、埋め立てが道路一本分だけだったので太古からの原風景にだいぶ近かった。

海岸線といえば…。

オレがホテルの前の防波堤で海を見ながらお客さんの到着を待っていると、いつも「何を見ているの?」といいながら南伊豆町の出身の若い女中さんの由美ちゃんが横に立つ。由美ちゃんは横に並ぶとすぐに腕を絡め腰骨に圧を感じるほど体を寄せてくる。まるで子犬のようにかわいかった。

「ネヲンちゃん、伊豆七島はどのように並んでいるか知ってる?」と、いって「音に聞こえし神津島 三宅 御蔵は八丈に近し 」と、おばあさんに教えてもらったという歌を由美ちゃんが教えてくれた。

伊豆七島は正面の大島から右へ順番に、大島 利島 新島 式根島 神津島 三宅島 御蔵島 の順で八丈島に近い。「 音に聞こえし… 」のなかには、大島 利島 新島 式根島 の島名の頭文字が読み込まれています。今では式根島を七島には数えないで、八丈島を含めて伊豆七島というのが一般的なようです。

さて、伊豆大島の三原山から上空高く噴煙がたなびく日がある。それは、ハワイのキラウェア火山やイタリアのストロンボリー火山と共に世界三大流動性火山であるからだ。

また、三原山は火口上空の雲や噴煙が火口の赤熱溶岩に映えて明るく赤く見えることがある。この火映(かえい)という現象を、地元では昔から御神火様といってあがめています。

七草がゆ

七草がゆ
七草がゆ

晴れやかで華やかだった正月三が日もあっという間に過ぎ去った。門松やしめ縄などが外され、お客さんの食膳に七草がゆが上ると、春を告げる東風(こち)が吹くまでの熱川温泉は街じゅうが閑散とする。が、閑古鳥が鳴くという静けさではない。ゆとりのあるおだやかな静けさである。温泉街のすべてのものが次に来る繁忙期に備えていた。

今でも一般的には、春と秋の行楽シーズンというが、現在の温泉旅館は土曜日がオン、平日がオフと状況になってしまったので、ネヲンの時代の温泉地のような明確な春と秋の旅行シーズンがなくなってしまった。

ということは、現在の旅館の社員たちは、年間を通じてダラダラと働かざるをえない。だから、今の温泉旅館にはいい意味での緊張感がなくなってしまった。こんなことが案外いまの温泉旅館をつまらないものにしているのではないだろうか。

冬休み

東風の波頭
春を告げる東風でしける海

松の内が明けると、旦那さんはまた全従業員を集めて休業宣言にちかい訓示をした。「やがてくる春の旅行シーズンに備え、風邪など引かないように体の手入れをしっかりして、充分な鋭気を養っておくように」といって、3月までのほぼ二ヶ月間も遊ばせてくれた。もちろん給料は全額支給である。

当時の温泉旅館にはものすごい財力があったのだ。現在では考えられない時代である。この余裕から本物のサービスが生まれたのだ。

温泉街が冬休みになると、地元の中学校を卒業し行儀見習いとして旅館勤めをはじめた娘たちは、一週間~10日単位で実家に帰った。

風呂場で洗濯
風呂場で洗濯

館内が寂しくなったが「温泉旅館勤めなんかして」と、勘当同様の宣言を受けたオレは、帰る家もなく遊びに行く先も金もなかった。故郷のおみやげを持って帰ってくる娘たちとの再会を楽しみに静かに日々を送っていた。

そして、夜が更けるとオレは一人もくもくと、ひと気のない内場の片隅で洗濯をした。小さなタイルの目地を洗濯板代わりにシャツとパンツと靴下を洗った。洗濯は少々億劫であったが苦にはならなかった。だって、洗い物はほんの少々だからだ。

熱川温泉ではじめての冬をむかえたオレは、毎日がワイシャツ姿で過ごすことができので、ここでは冬支度が不要だと思った。文字通りの常春の伊豆だと思った。が、次の年の冬は今まで通りの冬の寒さにふるえた。人間の環境適応力の素晴らしさを知ったネヲンであった。

熱川バナナワニ園は、バナナがまだ高価だった1958年(昭和33年)に開園しました。園内は温泉熱の利用により、バナナはもちろん熱帯性スイレンやオオオニバスなどの熱帯植物たちが季節を問わず咲き続けています。

また、17種類ものワ二だけではなくレッサーパンダやゾウガメ、フラミンゴやマナティも見ることが出来ます。

ワニとバナナ
ワニとバナナ

熱川バナナワニ園では、バナナがお安いといいます。はたして、そのお値段は? バナナワニ園と一語ずつゆっくりと三回くり返してみて下さい。お値段がわかりますよ!

春の旅行シーズがきた

熱川の海岸通りは天城連山の山塊が切り立つように海に落ち込んでいる。そこの住人たちは、吹き抜ける風や降りそそぐ陽光、潮の匂いや海の色、伊豆七島の島影から季節の移ろいを感じとっていた。

新婚さんは、ありがたいお客さん
新婚さん

1969年(昭和44年)3月、暦の上の春を追いかけるように、おめかしをした新婚さんたちがつぎつぎとやってた。伊豆が新婚旅行のメッカであった時代である。温泉旅館のことが少しわかってきたネヲンが、温暖な海沿いのホテル アタガワでむかえた初めての春の旅行シーズがはじまろうとしていた。

そんなとき、旦那さん(社長)がいった「新婚さんは、ありがたいお客さんだぞ!」という名言が忘れられない。

それは、今日来た新婚さんは、やがて子供を連れて泊まりに来る。さらに、孫たちを連れてやってくる、ということである。そこには、だから今、心して働け、という意味合いもあったのだろうが、みなまで言わない深謀遠慮な旦那さんであった。

4月、5月、春たけなわ、新婚さんに混じって、慰安旅行の団体さんを乗せたバスも次々にやってきた。文字通り連日が満館となった。ホテル アタガワのみならず温泉街全体が春の旅行シーズン真っ盛りで、その活気たるや、まさにお客さんであふれんばかりでした。

ホテルの連日満員というのがどれだけ凄いかというと、お会計係りのオレ、というより男たちは、3月下旬から6月の上旬まで一日の休みもなかった。仕事好き(?)のオレは、そんなことはちっとも苦にならず日々楽しく働いた。それに休日出勤ぶんの給料の買上げ額の多さが嬉しかった。男は黙って働くのがあたりまえの時代である。

もちろん、館内を上へ下へと動きまわる女中さんたちには、それなりの配慮があった。

この時代の温泉場で、はじめてトップシーズンをむかえたネヲンは、文字通り街全体のねむらない化に異様なものを感じた。

宇佐美海岸
国道135号・宇佐美海岸

東名高速が開通し、国道135号バイパスも稲取まで延びて、護岸工事も終わり、ホテルの大型化が進み熱川温泉は団体客の受け入れ態勢が整い始めていた。

ちなみに、現在の国道135号は、神奈川県小田原市と静岡県下田市を結んでいます。さて、その基点は、小田原市でしょうか、下田市でしょうか?

答えは下田市だそうです。

芸者置屋のおとうさん

ネヲン、去年の秋は無我夢中で自分の仕事しか見えなかったが、2度目の旅行シーズンをむかえたこの春は、いろいろなことが目についた。その一つに、オレが羨望の眼差しをむけた「おとうさん」がいた。

アメ車が横付けした
アメ車が横付けした

日が暮れて、宴会がはじまる6時近くなると、いつも、玄関さきに外車が横付けした。三味線を持った地方(じかた)の気難しそうなおばあさんと、若い立方(たちかた)のお姐さんたちが、なまめかしい香りを漂わせ、元気よく「おはようございます!」といいながら降りてくる。酒宴の席にはべる芸者さんである。

湯の街ネヲンは、いつも、この光景に羨望のまなざしを向けた。対象は芸者さんではない。この外車を運転してくる芸者置屋のおとうさんにである。

聞くところによるとおとうさんの仕事は、この芸者さんたちの送迎だけであった。昼間は、同じ置屋の仲間や旅館の支配や板長たちと麻雀三昧だそうだ。仕事始めの夕方はピリッとしているが、夜10時、11時に、お座敷がはねた芸者さんをむかえに来たときは「ヨッ、ネオンちゃん」と千鳥足であった。夢のような時代でした。

ホテル アタガワの従業員ら全員は大過なく春の旅行シーズンを乗り切った。乗り切るなんて大げさないい方であろうと思われるが、当時の温泉旅館の旅行シーズンとは、朝から晩までではなく、早朝から夜中まで来る日も来る日も休みなく働くことであった。今のようにごく普通に季節が移ろったなどという生易しいものではなかった。

熱川海岸のなぞ

キスもやってくる
シロギス

ホテル アタガワの前にある防波堤の左側(伊東より)は、ごく普通の磯である。防波堤の右側(下田より)は季節によってその表情を大きく変えた。秋から春までは、赤子の頭ぐらいの丸い石で埋め尽くされている。ひとつの波が防波堤にぶちあたりざぶーんと砕けて引き返すときに、丸い石たちを動かしてゴロゴロと大きな音を立ている。

相模灘の風が爽やかに駆け抜ける夏が近づくと、大波小波が沖から大量の砂を運んできて、あっという間にきれいな砂浜へと変わる。砂にのって透明で美しいシロギスもやってくる。そして、このままきれいな砂浜でいてほしいと願う地元の人たちの期待もむなしく、秋風とともに砂は沖へと帰っていって、もとの姿に戻ってしまう。

熱川温泉に夏がきた

熱川温泉に夏がきた。7月も半ばを過ぎると、また、温泉街から観光客が消えた。ホテル アタガワでは「夏の暑さは体に障る」との旦那さんの一声で、旅館は夏休み状態となる。

磯遊び
磯遊び

北海道から働きに来ていた5~6人の娘たちは、1か月の休みをもらって帰郷する。ネヲンのように帰るさきのないヤツは、ギラギラと輝く太陽の下で磯遊びにふけった。若いって素晴らしいもので毎日が同じ条件のもとでもいくらでも遊び続けられた。

ただし、少しは仕事もした。遊びの帰りには、海岸に流れ着いた流木を持って帰ることである。炊飯センターなどがない時代だったので、「ご飯」は自家炊であった。ホテル アタガワは業務用のガス釜であったが、青雲閣のご飯は竈で炊いていた。その薪にするためである。

昔と今、どちらがいい時代なんだろうか?

最後に、現在の温泉旅館業界では、8月13、14、15の三日間を、お盆特別料金期間と定めているが、当時は完全に休館であった。なにをつまらぬ昔話を…というなかれ。

みなさんは、現在の旅館運営方法が最良だと思い込んではいませんか? たまには世間並みに、旧盆中は全館休業として、全従業員がそれぞれの先祖の墓参りをしながら、今の旅館運営方法=最良・最善であるという方程式に疑問を投げかけてみてはいかがでしょうか?

<完>

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