温泉旅館にて
職安で紹介された旅館 青雲閣は、熱川温泉街のメインストリートに面し、立派な唐破風の玄関がある和風旅館であった。右隣りにはみやげ物店が併設されていた。
昼時の温泉街は深閑としている。温泉旅館のことなんて何にも知らないオレは、奥行きのある3段ほどの石段の上に建つ旅館を見上げながら、己の知識をフル回転させて、こんな温泉場の、こんな旅館で、蒲団敷き、風呂掃除、庭木の手入れ、そして、休日には温泉三昧、海辺で読書と…。そんな世捨て人のような人生でもいいと瞬時に思った。
が、この時のオレは、この旅館に海辺に建つ新館があることを知らなかった。
まわりに人影はない。静かである。オレ一人の世界であった。
思い切って石段を登り、解放された玄関に立った。初夏の日差しのせいか館内は真っ暗で、シーンと静まり返っていた。ネヲン、紹介状を片手に「ごめん下さい」と、声を大きくして暗闇に投げかけた。すると、少々間をおいて、間仕切りののれんをくぐって音もなくネヲンと同年配の小柄で色白の女性が出てきた。
その女性は、ネヲンが来意を告げると、声もなくまた暖簾をくぐって奥に戻った。ややあって、小さな紙切れをもって現れ、書かれた地図を指し示し、このままココへ行ってくださいとひとこと言った。
ネヲンは、オープンしたばかりの青雲閣の新館、ホテル アタガワの小さな社長室で面接をした。結論は、オレの都合がつき次第いつでも来いということで、給料は前職の2倍の15,000円を出すといった。
このときのオレは、なんの考えもなく温泉旅館に就職たが、時代の流れというものは凄まじく、給料は、スタート時の年収180,000円が、15年後(40才)の退職時には、なんと5,000,000円にもなっていた。もちろん、それなりにオレも頑張ったけど…。
熱川温泉の由来
熱川という名の由来は、昔、この地にあたたかな川が流れていたからだという。今では湧出する温泉のほとんどが旅館などで有効利用されているが、かっては、自噴するままに川に流れ込んでいたからだ。

伊豆熱川駅に降り立ち、目の前の噴泉塔(源泉櫓)や、眼下のあちこちからからモクモクく立ち上る湯けむりを見れば、川の流れが暖かそうなのは、あなたも感じるでしょう。ちなみに自噴する源泉の温度は、ほぼ100度です。
さて、天城山系の襞の一つに開けた熱川温泉が、まだ、伊豆の秘湯といわれていたころは静かな農村であり多くの村人たちは、日当たりのよい東向きの地形を生かして「きぬさやえんどう豆」を栽培していた。
この温暖な地で収穫される「きぬさやえんどう豆」は、いち早く市場に出荷できたので高値がついた。おかげで村人達はおおいに潤い、このさや豆を「成金豆」と呼んだ。
ここ熱川温泉は大雨が降ると、街なかを流れる清流はあっという間に恐ろしいような激流となり海に注ぎ込み、たちまちのうちに河口を黄土色に変色させてしまう。熱川の温泉街の中心を流れる川の名は、熱川ではなく濁川という。
そして、「天城越え」というが、天城山という単独の山はない。天城山とは、天城連山(天城山脈)の総称で、伊豆半島を東と西にわけている。伊豆の山々に降った雨は、やがて、幾筋もの清流となって山ひだをかけおりる。東に流れたものは相模灘に、西側は駿河湾にそそぐ。
時代は順風
さて、ネヲンが就職した前年の昭和42年には、国道135号線のバイパスが稲取まで開通し、ここ熱川温泉街では、海岸通りが拡張され防波堤が完成し、ホテル旅館の大型化がはじまっていた。
このあと温泉旅館が高度成長の波に飲み込まれ大発展するなんて、この時、ネヲンは知る由もかった。かつ、温泉旅館に就職したと実家に報告に行ったら、世間体が悪いから、しばらくは、ここへは近づかないでくれと両親に言われた。

さて、当時は新婚旅行ブームの真っ最中で、東海バスの社史によれば、1967年(昭和42年)の3月28日には、なんと、1,400組もの新婚さんが伊豆半島をめぐる定期観光バスに乗車したとある。ちなみに、車中での新婚さんたちのようすを聞かれたバスガイドさんたちは一様に答えた。皆さんよく寝ていましたと…。
さてさて、サラリーマンのいいところは、自分や同僚が貰う給料の額には敏感であるが、社長さんの懐具合は詮索しないことである。当時の新婚さんの宿泊料金は、一人一泊二食5,000円だった。ホテル アタガワには客室が50室もあり、連日ほぼ満館であった。湯の街ネヲンの月給が15,000円であったということは、社長さんのフトコロにはどれほどのお金がころがりこんだのであろうか。
旅館生活のはじまり
自衛隊員は、私物の歯ブラシが1本と、パンツが1枚あればなんの不自由もなく日々の業務や生活がおくれた。親方日の丸で、制服はもちろん作業服や肌着までもが現物支給されたからだ。月給は7,500円であったが、ラーメンが180円の時代である。思えば、温泉旅館も自衛隊と同様に衣食住の心配なく生きていける世界であった。
9月のはじめ、オレ・湯の街ネヲンは、正式に自衛隊を辞めて、有限会社 青雲閣、通称 ホテル アタガワの社員となった。オレの仕事は、お客さんから宿泊料や飲料代を頂くための請求書を書く「お会計」係であった。もちろん、金銭の授受も担当した。
当時は、温泉旅館に泊まったり、レストランで食事をすることが贅沢な行為とされ、温泉旅館等は都道府県の首長から料理飲食等消費税なるものを特別徴収せよと命じられていた。これって税金を扱うことなので、しち面倒くさい計算をして公給領収書(請求書)を作成しなければならなかった。
その公給領収書への記載はすべて手書きであった。さらに、すべての計算がソロバン一本だったのでかなり大変な作業であった。
初出勤の朝、仕事の先生である真知子先輩を待った。なんと、先生はあの時の女性であった。あの時は、玄関先が薄暗くて分からなかったが、気位が高そうなわけではないが、ツンとした感じの色白美人であった。オレ、内心でヤッター! であった。
しかし、そんな高揚感もすぐに吹っ飛んだ。朝の仕事が一段落した時に、真知子先輩が言った。「もう私、明後日から来ないから」と…。
後日、この真知子先輩が、静岡県を代表する伊豆下田の名門女子高の出身だと知った。それで、あの日の職安でのナゾが解けた気がした。
ネヲンが自衛隊を辞めたのは、厳しかった新隊員教育時代は無我夢中であったが、無線通信隊の一般隊員として久里浜の駐屯地に配属されると、日常の訓練や作業が激減して、毎日がとても退屈になった。ネヲンは怠け者ではあるがヒマ(暇)はイヤだった。与えられた仕事の中で、いかにサボろうかと知恵を巡らすのが好きだったからだ。
もう一つ、寒さが苦手なのと職住接近が望みであった。そんなわけで、ここ三浦半島と気候が似ている伊豆へと職を探しに行った。アナログの時代である。

下田の職安は歴史ある木造の建物であり、求人室は二階にあった。求人票のほぼすべてが温泉旅館の女中さんであった。男は造船所の職工ぐらいしかなかった。こりゃあダメだとあきらめて帰りかけようとしたとき、暇そうにしていた高齢の職員が声をかけてくれた。運命のひと声であった。

下田市職業安定所
ネヲン、「かくかくしかじかで、会計事務所にでも勤めたい」と求職の意思を告げると、その職員は「どこの馬の骨ともわからないヤツを、会計事務所が、採用するわけがないだろう」と、口悪くいいながら席を立ち、奥の部屋から一枚の求人票を持ってきた。
その求人票には熱川温泉の青雲閣とあった。ここの職安の管轄は下田市と賀茂郡である。市内の下田温泉をはじめ、下賀茂温泉、熱川、稲取温泉や土肥、堂ヶ島などには温泉旅館が星の数ほどあるのに、なぜ「ここへ行け」と言ったのが疑問であった。
当時の温泉旅館は部屋数も少なかったので、腕のいい板前さんと気の利いた女中さんや番頭さんがいればよかった。しかし、規模の拡大と共に働き手は必要であったが、まだまだ、人材云々というレベルにまではいっていなかった。
そういえば、ここの温泉旅館の社長は、東北の国立大学で農業び、東芝に勤めたという異色の人であった。いち早く人材の重要性に気がついて、いろいろと手をまわしていたのだろう。
あっ、言い忘れたが、オレ、日本初の大卒の二等兵であった。が、こんな落ちこぼれのオレでも業界によっては、人材という網に引っかかるものだと知った。スッキリ!

真知子先輩の後日談。ネヲン、ここ熱川にきて二度目(昭和44年)の冬をむかえた。初めての冬は、文字通り常春の伊豆で、寒さを全く感じなかったが、この冬は寒かった。やっぱり、どこにいても冬は冬である。
この地で初めて寒いと感じたある日の午後、熱川橋のたもとの青雲閣みやげ物店内で七輪に手をかざし、暖を取っていた真知子先輩を見つけた。退職したものと思い込んでいたオレは、うれしくなってすぐに真知子先輩のそばにいった。仕事場が違っていたのでずっとすれ違いだったのだ。温泉街のメインストリートに面した北向の店内には、つめたい風が吹き込んでいた。
「先輩、寒くないですか?」
「平気だよ」といって、真知子先輩は両足を七輪の両端の乗せて「おまんたん火鉢をやっているから」といいながら、口を大きく開けて「あはははは…」と笑った。真知子先輩の明るい一面を見たネヲンは、なぜかホッとした。
はや半年が過ぎた

東伊豆町花 ツワブキ
熱川の海岸沿いの切り立った崖のたもとの陽だまりに、ツワブキの黄色い花が咲くと伊豆にも冬がやってくる。伊豆大島がくっきりと見え、月明かりとイカ釣り船の漁火が幻想的な季節となる。
ツワブキのつややかな葉に黄金色の花は、伊豆の海辺によく似合った。
秋が深まった。湯の街ネヲンの旅館生活も、早や三ヵ月が過ぎようとしていた。この頃になって、日常のお会計の仕事も大過なくこなせたし、会社の組織のこと、旅館業務の流れもやっと把握できるようになった。
本館の青雲閣は、昔ながらの旅館であり、みやげ物店、社員寮でもあった。さらに、備品の倉庫、洗濯場を兼ねていた。当時の旅館には、洗濯のおばさんがいて、浴衣、シーツ、枕カバーなどのリネン用品は、自館で洗濯をし洗濯場で管理していた。
天日干しの浴衣やシーツは、お日様の匂いがしバリッとしていて清潔感がありとても気持ちがよかった。そして、天気の悪い日が続くと、おばさんたちの顔が険しくなった。
当時、本館の青雲閣は、まだ旅館営業も続けていたので、ネヲンは、お会計の後始末などで、海辺の新館 ホテル アタガワとの間を行き来をしていた。
穏やかな秋空のある日、ネヲンは、昼の休憩で寮に帰る女中さんのスヱちゃんと一緒になった。スヱちゃんは、南伊豆町の漁村の出で、色が白く笑うと目がなくなる可愛い娘であり、伊豆の自然のことなどをよく知っていて、ツワブキが東伊豆町の町花であることもスヱちゃんに教えられた。
大田道灌公の碑を右にみて、熱川橋につづく川沿いの登り坂にさしかかると「ネヲンさん、この川の名前を知っている?」とスヱちゃんがいった。
穏やかな流れの川面を見ながら「知ってるよ、熱川だろう」と、オレは自信をもって答えた。が、スヱちゃんは「違うよ、本当は濁川っていうんだよ」と、にわかには信じられないことをいった。
湯の街ネヲンが、ああ本当に濁川だと実感したのは、それからず~っとあとの大雨が降った日である。黄土色に変色し牙をむいたような激流に変わった流れを見て恐怖を感じたときであった。
魔法使いのおばあさん

どんぶり飯
ネヲンにとって青雲閣に行くことには楽しみもあった。鼻の高い魔法使いのような顔をしたご飯炊きのおばあさんが、ネヲンの顔を見ると、なぜか、いつも「さあ、食べな」といって、ほかほかのどんぶり飯に、たくあんを二切れのせて手渡してくれるからである。
青雲閣の調理場は、昔のままで、薪で炊いたご飯はとても美味かった。若かったネヲンは、いついかなる時でも、どんぶり飯を素早く平らげた。それは、白いご飯がとてつもないご馳走に思える食生活を、ここ、ホテル アタガワで強いられていたからであった。
余談であるが、この魔法使いのお婆さんの特技は「たくあんの油炒め」で、古くなってしなびた大量の「たくあん」を菜切り包丁で薄く切り、塩抜きをし、大鍋で炒めて甘辛く味付けをしたもである。オレ、「たくあん」に、たくあん以外の食べ方があったなんて知ったのはこの時であった。
こんなとき、いつも「ネヲンさん」といって近づいてくる調理補助の女の子がいた。「私、来年は18になるの! そしたら着物を着て女中さんになるんだよ」と、嬉しそうに、そして、自慢げにいっていた。
さて、時は昭和43年である。もはや戦後ではない。なんで、一杯のどんぶり飯がご馳走なんだ? と思った方々にお話ししましょう。
ホテル アタガワは三食まかない付きであったが、まともな食事は夕食のみであった。まともといっても、おかずはサバの味噌煮が一切れなどと一品のみであった。それぞれの名前が書かれた生卵が一個なんていう日もあった。朝食は、ご飯炊きおばさんが大鍋で作ったみそ汁のみである。
今、現在の社員食堂を思い浮かべている人は、それがどうして? でしょう。
もちろん、専用の従業員食堂なんてものはない。大きなうなりをあげ、バシャバシャと水音を立てる食器洗浄機があり、ビールやジュースの保冷庫がある、ご飯を炊く炊事場の真ん中に、ステンレス制の大きな配膳台が、いくつか並べられていて、それが従食のテーブルを兼ねていた。この頃は、それぞれの旅館で、お客さん用のご飯を炊いていたので、調理場に次ぐ大きな炊事場があった。
まだまだ、それが? でしょう。
お会計係の仕事は、すべてのお客さんが帰りおわるまでであるから、遅い朝食は、いつも一番最後の11時前後であった。昼時の旅館の裏方業務の現場は、真夜中と同じである。誰もいない真っ暗な炊事場(従業員食堂)は、陰気で湿っぽい。一人、電気をつけると配膳台の上のチャバネゴキブリが、慌てて思い思いの方向へ逃げていく。
ゴキブリが這いまわっていた配膳台には大きな業務用の保温ジャーが置かれ、ガス台の上には、煮詰まったみそ汁が入った大鍋が一つあった。そんな従業員食堂の状況に、ネヲンは、なんの不足も不満もなかったが、ときには、涙がこぼれそうになる日もあった。
ジャーを開けたときのあのイヤな臭いが鼻をついた瞬間だ。いわゆる、くさいメシである。こんなときネヲンは、ニオイを消すために煮詰まった味噌汁をぶっかけて一気に流し込んだ。コンビニで弁当でも…、なんていうのは、先の先のず~っと先の話である。
ホテル アタガワの社長が強欲で、従業員たちにこんな生活を強いていたわけではない。当時の温泉街には、「鬼の暖流、地獄のいずみ、情け知らずの片波館」という社会風刺の歌があった。くさいメシの原因は、従業員たちの分も含め、200人~300人からのお客さんたちの朝・夕のご飯を、一人のおばあさんが業務用ガス炊飯器で炊いていたからだ。
ネヲンが、こんな食生活に耐えられたのは、腹がふくれればすぐに忘れられたことと、前職が自衛隊員だったことだ。
ネヲン、横須賀の新隊員教育隊での食事は、300人も入る大食堂で、10人程が向かい合って長椅子に座り、肩が触れ合うようにして食べた。このとき「早飯早ぐそ芸のうち」と教えられた。そして、長いテーブルの上には、それぞれが持ち運んだ、少し変形して小汚いアルミのお盆(トレー)に、これまた、薄汚れたプラスチックの食器に盛られた料理が並んでいた。
ボリューム、献立には不満はなかったが、食器類が汚いのと、食感と味がいまいちなのが気になった。が、住めば都、食ってしまえば文句なし。
後に知ったことだが、食器やトレーが薄汚れて見えたのは、3000~5000個という膨大な数の食器類を大きな洗浄機で、かつ、若者たちが一気に洗うので、衛生面では問題ないが仕方のないことであった。また、食感と味の問題は、調理作業員たちが、三ヵ月ごとに交代する一般隊員だったから、慣れたころには入れ替わったしまうので、これまた仕方のないことであった。
そんな生活になれるとネヲンは、ご飯からメシと言うようになった。

ネヲン「湯」と相性がいい?
自衛隊での教育期間や勤務は、まず、カレンダー通りで8時から17時まであった。一方、ホテル アタガワでは、劣悪な食事とシーズン中は休みなしで朝起きてから寝るまでが仕事時間という最悪の職場であった。
本来ならば涙がこぼれるようなこんな職場、でも、この時のネヲンには、あんなことこんなことも未知の温泉旅館生活が、自衛隊時代の10倍も楽しかった。
「水が合う」という言葉があるが、温泉旅館勤めをはじめたネヲンには「温泉があった」のだろう。毎日が楽しくてしかたがなかった。もしかしたら、自分自身では気がつかなかった「水商売の適性」があったのだろう。
ちなみに水商売の適性者とは、芯の部分に「真面目さ」というものを持っていて、あとは分厚い「いい加減さ」を身にまとっている人である。水商売の世界では真面目さが勝った人は行き詰ってしまうし、いい加減な人は、どぶ川の澱みのはてに流されてしまう。
晩秋の風景
秋の新婚旅行シーズンが終わりに近づくと、熱川バナナワニ園に隣接する、東海バスの熱川営業所に着く定期観光バスから降りる新婚さんの姿がめっきりと少なくなる。
年も押し詰まって、最後の最後にやって来るお客さんは、同窓会などの年配者たちだった。なんと、この人たちの予約方法は、宿泊可能日を問い合わせるハガキからはじまる。
宿泊料金を安くしてもらうので、旅館の都合に合わせますという配慮からである。当時のおじいちゃんやおばあちゃんたちは礼節をわきまえていた。さらに、安く泊めてもらったお礼にと、売店でたくさんのお土産を買って帰った。そこには、泊ってやるという振舞いはまったくなかった。本当に、秋空のように清々しい時代であった。
師走の年中行事

にぎやかな大掃除がはじまる
世間が慌ただしさをます師走。温泉街からお客さんの姿が消えると、街じゅうはお正月を迎える準備一色となる。どの旅館の窓という窓に蒲団が干され街じゅうが蒲団の満艦飾となった。
窓際で、干した布団をパンパンと小気味よくたたく音、室内には、パタパタとはたきをかける音、シュッシュと箒で掃く音、雑巾がけのキュッキュッ…などという大掃除特有の音なき音が響き渡っていた。
なんと当時は、板前さんたちも参加して、一部屋に5~6人もの若者が群がって隅から隅まで磨きあげお客さんを迎える準備をする。本当の「おもてなしの心」があった時代である。そして、一日の作業を終えると、若い従業員達は思い思いに青雲閣の寮へと戻った。この時期だけは世間並みに8時間労働であたった。
露天風呂
たった15室の本館の青雲閣は、今は、主に社員寮として使われていたが、わずか10年ほど前には、熱川温泉で3番目という客室数を誇った。裏手には濁川を見下ろす大きな露天風呂があり、一段下がった川向こうの旅館の見事な赤松の庭が借景であった。
時代はおおらかで、なんの囲いもない完全な露天風呂だった。ここからは温泉街の中心、熱川橋がすぐそこに見下ろせた。湯船のふちに登って立たねば、道行く人たちに裸体をさらすことはなかった。
男女の内湯は、この大きな露天風呂でつながっていた。そう、「Uの字」を左横にしたようなものだ。露天風呂への出入り口には、男女をわける長さ3mほどの小さな堤があり、その上には、丸竹をあんだ生け垣風の花壇がしつらえてあったが、ほぼ混浴である。
シーズン中は帰寮の時間もまちまちだったし、お客さんもいたので、寮生たちは、そっと浴場を利用していた。しかし、シーズンが終わってお客さんのいないこの時期の露天風呂は、寮に戻った若い男達の談話の場になった。
部屋のこもって遊ぶ手段もなく、大型テレビが普及するずっと以前のことだったので、男たちは自然と露天風呂に集まって、たわいもない話題で時を過ごしたのだ。

女風呂から笑い声
ある日のある夜、リーダー格の番頭さんが人差し指を口に押し付け「静かにしろ」との合図をおくりながら女風呂のほうに目配せをした。
女風呂から笑い声が聞こえたのである。リーダーは、男女を分ける堤防に取り付きガマガエルのような格好で、生け垣の隙間から女風呂を覗いた。他の若者も静かに湯をかき分けながら生け垣に取り付いた。男たちのガマガエルのようなうしろ姿は見づらかった。

「コラァー」
若い男達にとってのこの興奮の劇場も、突然、幕が降りる。露天風呂に面した二階の廊下の窓が勢いよく開けられ「コラー、お前等なにしてる」と、元気な女中さんの一喝で、ザ・エンドであった。男たち湯をバシャバシャとかき分けながら競ってその場を離れた。
ネヲンはこの劇場には参加していなかった。品行方正だったわけではなく近眼だから覗いても見ないからだ。メガネがとても高価な時代であり、風呂場では湯気で曇って用をなさないので、いつも裸眼であった。
参考であるが、覗かれた娘たちの反応には二種類あった。「キャ~」との悲鳴とともにすぐ逃げる娘と、「バカ、このスケベ」と反撃する娘である。男性天国の時代であった。これが今の時代であれば死刑に値するだろう。
年末恒例のイベント
そして、年末の一大行事は「たくあん漬け」である。それは、板長が早朝、板場の若い衆が運転する小型の2tトラックに同乗して、埼玉県の、昔から漬物業が盛んな岡部町へ干し大根を仕入れに行くことからはじまる。夕方には、荷台いっぱいに干し大根を積んで帰ってくる。
熱川温泉は、海岸沿いの傾斜地にあり伊豆七島の絶景を望める温泉街である。その傾斜地を登った先の山間部に、奈良本という集落がある。その最奥部におばあちゃん(社長の母親)の隠居所があった。ホテル アタガワで使用する一年分のたくあんの貯蔵所でもある。

たくあん漬けは、板長が干し大根を仕入れに出かける一週間ほど前から始まる。おばあちゃんの隠居所のすぐ隣を流れる小川の畔に、空になった一抱えもある大きな木樽に板場の若い衆が水を張ってずらっと並べることからはじまる。
当日の朝、思い思いの身なりで集まった従業員たちが小川の水で木樽をタワシでごしごしと洗うところから始まる。初めてのたくあん漬けをするネヲン、まだ寒さを感じなかった常春の伊豆で、自然と、春の小川はさらさらいくよ、と口ずさんだ。
あとは板長の指揮のもと、みんなで、わいわいがやがやとたくあん漬けに励んだ。
第二話
もうすぐお正月

キダチアロエの花は冬季に開花する。キダチアロエは万能薬として知られ、また、霜の降りない伊豆では、雑草のように繁茂し、株立ちする花の群生が、冬の風物誌にもなっていて、この花が咲くともうすぐお正月がくる。
年が押し詰まってくると、館内は静かであったが、調理場だけは活気づく。板前さんたちが、お正月のお客さんを迎えるために、手間ひまかけてすべてのおせち料理を手造りしているのだ。その作業は大晦日の晩まで続く。
ネヲン、戦後の貧しい時代に育ったので、食事とは、すきっ腹を解消するために食べるものだと思っていた。が、旅館勤めをして、板前さんが作る本物の料理をみたときは、その華やかで美しさに眼が丸くなった。
自分がもっていた食事の概念が、きれいに突き崩された。そして、いつかは自分もお客さんになってこんな料理を食べてみたいと思った。本物の手作りの料理を提供していた時代の旅館の話しである。
しかし、旅館の料理に憧れを抱いたネヲンも、おせち料理にはたいして興味がわかなかった。それは、台所中をいっぱいにして母親が作ってくれたおせち料理と大差ないように思えたからだ。おせち料理に対する愛情は母親の方が勝っていると思ったからだ。
旦那さんの新年の挨拶

元日の朝6時、羽織袴姿の旦那さん(社長)を前に、総勢60余名の従業員が広間に集まった。はじめて参加するネヲン、聞くところによると、旦那さんの新年の挨拶があるそうだ。新しい年を迎えるために、新調された着物を纏った若い女中さんたちと、パリッとした真新しい白衣姿の板前さんたちの姿がまぶしかった。
旦那さんの新年の挨拶は気負いのない話しぶりで、世の中の平穏と全従業員が心身ともに健やかで穏やかな正月が迎えられたことの喜びを、ニコヤカにそして簡単にのべた。
挨拶が済むと、板前さん女中さんと朝の仕事が忙しい順で、大番頭さんが注ぐお屠蘇の前へと集まった。余談だが、酒飲みはこんなときでも一番大きな杯を取ろうとする。
お屠蘇をいただいたあとは、旦那さんの前で一人ずつ「おめでとうございます」と新年の挨拶をする。旦那さんは、下位職の人ほどおおきな笑みを返しながら「おお…」と言葉にならない言葉を発しポチ袋をそれぞれに手渡した。素晴らしい日本の正月の風景であった。ネヲンのポチ袋には、月給が15,000円だというのに、三つ折りにされた新品の1,000円札が3枚も入っていた。

元気な女中さん
新年の恒例行事がすむと、女中さんたちはポチ袋を、着物の襟元に差し込みながら足早にそれぞれの持ち場へとかけていった。そして、初日の出を拝むお客さんたちにあわせて、新しい茶器セットを持ち客室のドアをたたいた。この日は縁起のいい桜茶が用意されていた。
女中さんたちはよく動きまわった。若さだけが理由ではない。当時の旅館の従業員たちには、社会的な階級制度の意識があったわけではないが、お客さんたちは雲の上の存在であり、自分たちとは違う世界の人たちだから、奉仕することが当たり前だと思っていた。
女中さんたちは、お客さんたちの気持ちを汲み取って、しごく当たり前のように先へ先へと動いた。当然、どのお客さんたちも女中さんの働きに見合うだけのチップをくれた。特に三が日は想像を絶する金額となった。
ネヲンは、ずっと後になって思った。庶民は、背伸びした予算で温泉旅館に泊まるべきではないと…。己の知らない世界を覗くためならいい、殿様になったつもりで、テレビや週刊誌などで知った知識をふりまわして偉そうにしていると、旅館の人たちが仕返しをするわけではないが、後味の悪い旅行になってしまう。
庶民が温泉旅館に泊まるときは、奮発して予算の三倍ぐらいの旅館を選ぶべきである。そうすれば、そこには庶民の知らない世界がある。知らない世界のことには文句のつけようがない。未知の見分は、世間も広くなるし心も豊かになる。さらにいえば、借金に追われて見境なく客を泊めようとする旅館は一刻も早く閉館すべきだある。と…。

ホテルの正面には伊豆大島が大きく横たわっている。6時54分、初日の出がその伊豆大島の右端から顔を出した。お客さんたちから歓声と拍手がおこった。当時の熱川の海岸線は、埋め立てが道路一本分だけだったので太古からの原風景にだいぶ近かった。
海岸線といえば…。
オレがホテルの前の防波堤で海を見ながらお客さんの到着を待っていると、いつも「何を見ているの?」といいながら、南伊豆町の出身の若い女中さんの由美ちゃんが横に立つ。由美ちゃんは、横に並ぶとすぐに腕を絡め腰骨に圧を感じるほど体を寄せてくる。まるで子犬のようにかわいかった。
「ネヲンちゃん、伊豆七島はどのように並んでいるか知ってる?」と、由美ちゃんがいって「音に聞こえし神津島 三宅 御蔵は八丈に近し 」と、おばあさんから習ったという言い伝えを歌うように口にした。
伊豆七島は正面の大島から右へ、大島 利島 新島 式根島 神津島 三宅島 御蔵島 と並び、右へ行くほど八丈島に近い。「 音に聞こえし… 」のなかには、大島 利島 新島 式根島 の島名の頭文字が読み込まれている。今では式根島を七島には数えないで、八丈島を含めて伊豆七島というのが一般的なようです。
さて、伊豆大島の三原山から上空高く噴煙がたなびく日がある。それは、ハワイのキラウェア火山やイタリアのストロンボリー火山と共に世界三大流動性火山であるからだ。
また、三原山は火口上空の雲や噴煙が火口の赤熱溶岩に映えて明るく赤く見えることがある。この火映(かえい)という現象を、地元では昔から御神火様といってあがめています。
七草がゆ

晴れやかで華やかだった正月三が日もあっという間に過ぎ去った。門松やしめ縄などが外され、お客さんの食膳に七草がゆが上ると、春を告げる東風(こち)が吹くまで、熱川温泉は街じゅうが閑散とする。が、閑古鳥が鳴くという静けさではない。ゆとりのあるおだやかな静けさである。温泉街のすべてのものが次に来る繁忙期に備えていた。
今でも一般的には、春と秋の行楽シーズンというが、現在の温泉旅館は土・日曜日がオン、平日がオフと状況になってしまった。ネヲンの時代のような、明確な春と秋の旅行シーズンがなくなってしまった。
ということは、現在の旅館の社員たちは、年間を通じてダラダラと働かざるをえない。だから、今の温泉旅館にはいい意味での緊張感がなくなってしまった。こんなことが案外、いまの温泉旅館をつまらないものにしているのではないだろうか。
冬休み

松の内が明けると、旦那さんは、また全従業員を集めて休業宣言にちかい訓示をした。「やがてくる春の旅行シーズンに備え、風邪など引かないように体の手入れをしっかりして、充分な鋭気を養っておくように」といって、3月までのほぼ二ヶ月間も遊ばせてくれた。もちろん給料は全額支給である。
当時の温泉旅館にはものすごい財力があったのだ。現在では考えられない時代である。この余裕から本物のサービスが生まれたのだ。
温泉街が冬休みになると、地元の中学校を卒業し行儀見習いとして旅館勤めをはじめた娘たちは、10日~20日単位で実家に帰った。

風呂場で洗濯
館内が寂しくなったが「温泉旅館勤めなんかして」と、勘当同様の宣言を受けたオレは、帰る家もなく遊びに行く先も金もなかった。故郷のおみやげを持って帰ってくる娘たちとの再会を楽しみに静かに日々を送っていた。
そして、夜が更けるとオレは一人もくもくと、ひと気のない内場の片隅で洗濯をした。小さなタイルの目地を洗濯板代わりにシャツとパンツと靴下を洗った。洗濯は少々億劫であったが苦にはならなかった。だって、洗い物はほんの少々だからだ。
熱川温泉ではじめての冬をむかえたオレは、毎日がワイシャツ姿で過ごすことができので、ここでは冬支度が不要だと思った。文字通りの常春の伊豆だと思った。が、次の年の冬は今まで通りの冬の寒さにふるえた。人間の環境適応力の素晴らしさを知ったネヲンであった。
熱川バナナワニ園は、バナナがまだ高価だった1958年(昭和33年)に開園しました。園内は温泉熱の利用により、バナナはもちろん熱帯性スイレンやオオオニバスなどの熱帯植物たちが季節を問わず咲き続けています。
また、17種類ものワ二だけではなくレッサーパンダやゾウガメ、フラミンゴやマナティも見ることが出来ます。

熱川バナナワニ園では、バナナがお安いといいます。はたして、そのお値段は? バナナワニ園と一語ずつゆっくりと三回くり返してみて下さい。お値段がわかりますよ!
春の旅行シーズがきた
熱川の海岸通りは天城連山の山塊が切り立つように海に落ち込んでいる。そこの住人たちは、吹き抜ける風や降りそそぐ陽光、潮の匂いや海の色、伊豆七島の島影から季節の移ろいを感じとっていた。

新婚さんは、ありがたいお客さん
1969年(昭和44年)3月、暦の上の春を追いかけるように、おめかしをした新婚さんたちがつぎつぎとやってた。伊豆が新婚旅行のメッカであった時代である。温泉旅館のことが少しわかってきたネヲンが、温暖な海沿いのホテル アタガワでむかえた初めての春の旅行シーズがはじまろうとしていた。
そんなとき、旦那さん(社長)がいった「新婚さんは、ありがたいお客さんだぞ!」という名言が忘れられない。
それは、今日来た新婚さんは、やがて子供を連れて泊まりに来る。さらに、孫たちを連れてやってくる、ということである。そこには、だから今、心して働け、という意味合いもあったのだろうが、みなまで言わない深謀遠慮な旦那さんであった。
4月、5月、春たけなわ、新婚さんに混じって、慰安旅行の団体さんを乗せたバスも次々にやってきた。文字通り連日が満館となった。ホテル アタガワのみならず温泉街全体が春の旅行シーズン真っ盛りで、その活気たるや、まさにお客さんであふれんばかりでした。
ホテルの連日満員というのがどれだけ凄いかというと、お会計係りのオレ、というより男たちは、3月下旬から6月の上旬まで一日の休みもなかった。仕事好き(?)のオレは、そんなことはちっとも苦にならず日々楽しく働いた。それに休日出勤ぶんの給料の買上げ額の多さが嬉しかった。男は黙って働くのがあたりまえの時代である。
もちろん、館内を上へ下へと動きまわる女中さんたちには、それなりの配慮があった。
この時代の温泉場で、はじめてトップシーズンをむかえたネヲンは、文字通り街全体のねむらない化に異様なものを感じた。

ネヲンが、熱川温泉に就職したころ、時を同じくして東名高速が開通し、国道135号バイパスも稲取まで延びて、温泉街の護岸工事も終わり、ホテルの大型化が進み熱川温泉は団体客の受け入れ態勢が整い始めていた。
ちなみに、現在の国道135号は、神奈川県小田原市と静岡県下田市を結んでいます。さて、その基点は、小田原市でしょうか、下田市でしょうか?
答えは下田市だそうです。
芸者置屋のおとうさん
ネヲン、去年の秋は無我夢中で自分の仕事しか見えなかったが、この春の旅行シーズンをむかえ、いろいろなことが目についた。その一つに、オレが羨望の眼差しをむけた「おとうさん」と呼ばれる人がいた。

アメ車が横付けした
日が暮れて、宴会がはじまる6時近くなると、いつも、玄関さきに外車が横付けした。三味線を持った地方(じかた)の気難しそうなおばあさんと、若い立方(たちかた)のお姐さんたちが、なまめかしい香りを漂わせ、元気よく「おはようございます!」といいながら降りてくる。酒宴の席にはべる芸者さんである。
湯の街ネヲンは、いつも、この光景に羨望のまなざしを向けた。対象は芸者さんではない。この外車を運転してくる芸者置屋の「おとうさん」にである。
聞くところによると「おとうさん」の仕事は、この芸者さんたちの送迎だけであった。昼間は、同じ置屋の仲間や旅館の支配や板長たちと麻雀三昧だそうだ。仕事始めの夕方はピリッとしているが、夜10時、11時に、お座敷がはねた芸者さんをむかえに来たときは「ヨッ、ネオンちゃん」と千鳥足であった。夢のような時代でした。
ホテル アタガワの従業員ら全員は大過なく春の旅行シーズンを乗り切った。乗り切るなんて大げさないい方であろうと思われるが、当時の温泉旅館の旅行シーズンとは、朝から晩までではなく、早朝から夜中まで来る日も来る日も休みなく働くことであった。今のようにごく普通に季節が移ろったなどという生易しいものではなかった。
熱川海岸のなぞ

シロギスもやってくる
ホテル アタガワの前にある海に突き出た堤防の左側(伊東より)は、ごく普通の磯である。
堤防の右側(下田より)は季節によってその表情を大きく変えた。秋から春までは、赤子の頭ぐらいの丸い石で埋め尽くされている。ひとつの波が、海岸通りの堤防にぶちあたり、ざぶーんと砕けて引き返すときに、丸い石たちを動かしてゴロゴロと、休みなく大きな音を立てている。寄せる波の時は、波の音だけであった。
しかし、相模灘の風が爽やかに駆け抜ける夏が近づくと、大波小波が沖から大量の砂を運んできて、あっという間にきれいな砂浜へと変わる。砂にのって透明で美しいシロギスもやってくる。そして、このままきれいな砂浜でいてほしいと願う地元の人たちの期待もむなしく、秋風とともに砂は沖へと帰っていって、もとの石だらけの姿に戻ってしまうという不思議な海岸であった。
熱川温泉に夏がきた
熱川温泉に夏がきた。7月も半ばを過ぎると、また、温泉街から観光客が消えた。ホテル アタガワでは「夏の暑さは体に障る」との旦那さんの一声で、旅館は夏休みとなる。旧盆は、それぞれが実家で迎えたという、いまでは、信じがたい時代であった。

北海道から働きに来ていた5~6人の娘たちは、1か月の休みをもらって帰郷する。ネヲンのように帰るさきのないヤツは、ギラギラと輝く太陽の下で磯遊びにふけった。若いって素晴らしいもので毎日が同じ条件のもとでも、いくらでも遊び続けられた。
ただし、少しは仕事もした。遊びの帰りには、海岸に流れ着いた流木を持って帰ることである。炊飯センターなどがない時代だったので、「ご飯」は自家炊であった。ホテル アタガワは業務用のガス釜であったが、ネヲンが魔法使いのお婆さんからいただいた、青雲閣のどんぶり飯は、かまど炊きであった。その薪にするためである。
昔と今、どちらがいい時代なんだろうか?
最後に、現在の温泉旅館業界では、8月13、14、15の三日間を、お盆特別料金期間と定めているが、当時は完全に休館であった。なにをつまらぬ昔話を…、というなかれ。
みなさんは、現在の旅館運営方法が最良だと思い込んではいませんか? たまには世間並みに、旧盆中は全館休業として、全従業員がそれぞれの先祖の墓参りをしながら、「今の旅館運営方法=最良・最善」であるという方程式に、疑問を投げかけてみてはいかがでしょうか?
< 完 >