猫のイラスト
伊豆熱川の海岸

温泉旅館物語

職を探しに

この物語の主人公・オレこと「湯の街ネヲン」は、この時代のごく普通の体型でごく普通の男で、特に学業やスポーツに励んだことはない。1966年(昭和41年)春、大学は卒業したけれど、東京オリンピック後の昭和40年不況の真っただ中で就職口がなかった。そんなことから、国防なんていう大それた考えではなく、からだのオーバーホールぐらいの軽い気持ちで、日本初の大卒の二等兵として、陸上自衛隊にもぐりこんだ。

だが、平和な国の自衛隊員といえども「新兵さん」は想像以上に大変であった。自衛隊員としての基礎訓練の3ヶ月、続けて、業務遂行のための技術取得の3ヶ月、この新隊員教育時代は、ただただ寝ることが唯一の楽しみであった。

無線通信隊員として久里浜駐屯地に配属され、ト・ト・ト・ツーという通信業務にも慣れ、大型自動車免許取得のための操縦訓練では、初めて乗った軍用トラックの高い運転席からの眺めた三浦半島の美しさに感動したりしたが、試験にもパスすると、ネヲンは毎日がとても退屈に感じるようになった。一に通信、二にラッパ、三に炊事のつまみ食いといわれる、楽な職種のせいもあったかもしれない。

陸上自衛隊員
男ばかりの自衛隊

ネヲンは、自衛隊の「有事に備える」というのは理解できたが、「有事に備える=同じことの繰り返し」という部分が性に合わなかった。どちらかというと、怠け者の部類に入るネヲンだが、ヒマ(暇)はイヤだった。与えられた仕事の中で、いかにサボろうかと知恵を巡らすのが好きなタイプたからだ。

そんなワケでネヲンは、暖かく職住接近の職場をもとめて、ここ三浦半島と似た気候の伊豆半島へ出かけた。今となっては、その時の気持ちを思い出せないが、職探しには人口の多い伊東市のほうが有利なのに、なぜか下田市の職安を尋ねた。

遊覧船の黒船「サスケハナ」
遊覧船 黒船「サスケハナ」

下田の職安は歴史ある木造の建物であり、求人室は二階にあった。そこには、みるからに無愛想な風体の男性職員が一人でいた。ネヲン、一目見て話しかける気にもならず黙って求人票をくくった。求人票は、造船所の季節工と旅館の女中さんばかりであった。

学歴の欄にはすべてが中卒以上であった。こりゃダメだとあきらめて帰ろうしたネヲンに、彼の職員が、ぶっきらぼうに「兄さん、仕事を探しているのか?」と、声をかけてきた。

ネヲン、「かくかくしかじかで、会計事務所にでも勤めたい」と告げると、その職員は「会計事務所が、どこの馬の骨ともわからないヤツを採用するわけがないだろう」と、口悪くいいながら席を立ち、奥の部屋から一枚の求人票を持ってきた。

その求人票には、高卒以上と書かれていた。熱川温泉「旅館 青雲閣」の求人票であった。そして、「今、紹介状を書くから、このまま面接に行け」と、半ば強制的に言った。「無愛想な神様(?)」が、ネヲンの背中を最初に押した。

旅館 青雲閣にて

職安で紹介された「旅館 青雲閣」は、温泉街の中心を流れる川を背に平坦になったメインストリート沿いにあった。三段ほどの緩やかな階段のさきに唐破風の立派な玄関をもった木造二階建ての純日本旅館で、右隣りには歴史を重ねたみやげ物店を併設していた。

少し後になって知ったことだが、客室は15室ほどだが、わずか10年まえにはこの熱川温泉で3番目という規模を誇っていたそうだ。

温泉旅館のことなんて何にも知らないオレは、立派な旅館を見上げながら、こんな温泉場の、こんな旅館で、蒲団敷き、風呂掃除、庭木の手入れ、そして、休日には温泉三昧、海辺で読書…。と、そんな世捨て人のような人生もいいと瞬時に思った。

が、この時のオレ、この旅館には海辺に建つ新館があることを知らなかった。

思い切って石段を登り玄関に入った。館内は真っ暗で、シーンと静まり返っていた。ネヲン、紹介状を片手に「ごめん下さい」と、大きな声を暗闇にむけて投げかけた。すると、少々の間をおいて、右手の奥から音もなくネヲンと同年配の色白の女性が出てきた。

ネヲンが来意を告げると、その女性は、軽くうなずき声もなくまた奥に戻っていった。ややあって、略図の書かれた小さな紙切れをもって現れ、行く先を指し示しながら、「このままココへ行ってください」と、ひとこと言った。

熱川温泉の海岸通り
熱川温泉の海岸通り

略図に書かれた先には、伊豆大島が目の前に浮かぶ海岸沿いに、オープンしたばかりの青雲閣の新館「ホテル アタガワ」があった。小さな社長室に招き入れられたネヲンは、そこで、長い顔にぎょろっとした大きな目玉をもった社長の面談を受けた。

結果は至極簡単で、二本の長い指をネヲンの顔の前にたてて、給料は前職の2倍の15,000円を出すから都合がつき次第いつでも来いということであった。

しかし面談が終わったネヲン、気分がスッキリしなかった。それはネヲンが公務員の家庭に育ったからかもしれない。それと、小さい時から「お前はぶっきら棒だから、将来は事務員になれ、ソロバンも得意だし」と、言われ続けてきたせいもあった。

横須賀のどぶ板通り
横須賀のどぶ板通り

久里浜駐屯地に戻ったネヲン、ある夜、横須賀の繁華街の片隅で露店の占い師に手相を見てもらった。初めての経験であった。ネヲンが広げた手を見て、占い師のおばさんが「あなたは、長男でもないのに長男の役割をしょって生きてきましたね」と言い、続けて「あなたは、水商売むきです」と言った。

このときネヲン、占い師の最初の言葉にビックりした。ネヲンの生い立ちは、農家の三男として生まれたが、幼少の時に親戚の家に養子に出された。が、その養子先で2人の弟ができた。まさに、占い師の言った通りであった。

さらに占い師は、温泉旅館で面接を受けたばかりにネヲンに、「水商売むきです」と言った。これが、ネヲンの生き方を180度かえる第2のお告げとなった。

旅館生活のはじまり

1968年(昭和43年)の初秋、オレこと「湯の街ネヲン」は、ボストンバック一つをもって生活の拠点を伊豆熱川温泉に移した。いろいろなお告げのような導きによって、自衛隊員から旅館 青雲閣、通称「ホテル アタガワ」の社員となった。

「湯の街ネヲンです」と挨拶をすると、若い女性は「あぁ…」と小さな声を上げ、早速、求人票にあった衣食住完備の「住」なるところへ案内してくれた。そこは、つい最近まで客室として使われていたと思われる広い部屋で、五つほどの万年床があった。

一番手前の2畳ほどのスペースに寝具がたたまれてあった。女性はそれを指さし、ここで寝起きしてくださいと告げた。ネヲン、自衛隊では頑丈なスチール製の2段ベットだったので、居住スペースが広がり、畳の上で寝られることがうれしかった。

そして初出勤の朝、仕事を教えてくれるという「まち子さん」という先輩を、雑然とした事務室の隅っこで学習机のような貧弱な木机のまえで待った。仕事は、お客さんから宿泊料や飲料代などをいただく「お会計」係であった。

なんと先生は、あの時の女性であった。あの時は、玄関の奥が薄暗くてよく分からなかったが、ツンとした感じの美人で同年輩のようであった。オレ、内心でヤッター! である。

しかし、そんな高揚感もすぐに吹っ飛んだ。仕事が一段落したあとで、「もう私、明後日から来ないから…」と、ひとことまち子先輩が言ったのである。

この当時は、温泉旅館に泊まったり、レストランで食事をすることが贅沢な行為とされ、温泉旅館等は都道府県の首長から料理飲食等消費税なるものを特別徴収せよと命じられていた。これって税金を扱うことなので、しち面倒臭い計算をして公給領収書(請求書)を作成しなければならなかった。

その公給領収書への記載はすべて手書きであった。さらに、すべての計算がソロバン一本だったのでかなり大変な作業であった。

悲惨

仕事が一段落するとまち子先輩は、従業員用の「食事の場」に連れて行ってくれた。電気のスイッチをいれると大きな調理台のうえで数多くのゴキブリが慌てて逃げ果せた。ここは、「食堂」ではなく厨房から独立しているお客様用のご飯を炊く炊事場である。

逃げ回るゴキブリのイラスト
逃げ回るゴキブリ

まち子先輩は、調理台に置かれた業務用保温ジャーを黙って指指さし、また、業務用のガス台の上の大鍋を指さし、「これに味噌汁があるから冷めていたら温めて食べな」と、言って一人静に去って行ってしまった。

ジャーを開けたらイヤな臭いがした。くさいメシである。煮詰まった味噌汁を温めて、ご飯にかけてイヤな臭いをごまかしササットかきこんだ。なぜか涙がこぼれた。

ホテル アタガワは三食まかない付きであったが、朝食と昼飯は、ほぼこのようであった。まともな食事は夕食のみであった。まともといっても、おかずはサバの味噌煮が一切れなどと一品のみであった。それぞれの名前が書かれた生卵が一個なんていう日もあった。

ホテル アタガワの社長が強欲で、従業員たちにこんな生活を強いていたわけではない。それが当たり前の時代だったのだ。当時の温泉街には、「鬼の暖流、地獄のいずみ、情け知らずの片波館」という旅館風刺の歌があった。温泉旅館はブラック企業だったのだ。

ただし、くさいメシが毎日だったわけではない。ご飯炊きのおばさんが、5升炊きのガス炊飯器で経験と勘を頼りに、宴会後の200人~300人の酔客が食べるご飯の量をピタリと炊き上げるのは難しい。まだ、ご飯粒を残すと目が潰れるという思想が色濃く残っていた時代、予想の外れた翌日がくさいメシであった。

心躍る

熱川の温泉街には信号がない。当然、スーパーもコンビニも、パン屋はもちろんなんでも屋もない。ネヲンが、こんな食生活に耐えられたのは、「早飯早ぐそ芸のうち」と、メシは腹を満たものと教育された前職の自衛隊のおかげである。

自衛隊の食事は、ボリュームもあり栄養満点であったが、調理をする隊員が三か月交代なので、ご飯は硬かったりべちゃべちゃだったりで美味さはイマイチであった。それに、イチどきに500~1000人分の食器を、若い隊員たちが大きな洗浄機で一気に処理するので器はキズつき、うすぎたなく感じるので見た目もよろしくなかった。

さて、そんなネヲンの食生活にも楽しみがあった。それは、まだ青雲閣も旅館営業を続けていたので、ネヲンは、お会計の後始末などで、海辺の ホテル アタガワとの間を行き来をしていた。そんな中でうまれた。

青雲閣の調理場から、絵本にでてくる魔法使いのような顔のご飯炊きのおばあさんが、ネヲンをみつけると、いつも「さあ、食べな」といって、たくあんを二切れのせたホカホカのどんぶり飯をふるまってくれたのである。

青雲閣の調理場は昔のままで、ご飯は薪で炊いていた。宿泊者が少なかったのご飯の段取りは容易だったのであろう。若かったネヲンは、いついかなる時の出されてもどんぶり飯をぺろりと平らげた。この時のどんぶり飯の美味さは、今でも自分史上第一位である。

こんなとき、いつも「ネヲンさん」といって近づいてくる調理補助の女の子がいた。「私、来年は18になるの! そしたら着物を着て女中さんになるんだよ」と、嬉しそうに、そして、自慢げに言った。

「湯」と相性がいい?

露天風呂に入る若者

自衛隊の勤務はカレンダー通りで、8時から17時まであった。一方、ホテル アタガワは、劣悪な食事とシーズン中は休みなしで朝起きてから寝るまでが仕事という最悪の職場であった。

普通の人ならば耐えられないようなブラック企業であったが、でも、この時のネヲンは、あんなこと、こんなことのすべてが未知で興味深い温泉旅館生活が、堅苦しさを感じた自衛隊時代よりも10倍も自由で楽しかった。

「水が合う」という言葉があるが、温泉旅館勤めをはじめたネヲンには「温泉が合った」のだろう。毎日が楽しくてしかたがなかった。もしかしたら、あの占い師がいったように、自分自身では気がつかなかった「水商売の適性」があったのだろう。

ちなみに水商売の適性者とは、芯の部分に「真面目さ」というものを持っていて、あとは分厚い「いい加減さ」を身にまとっている人である。水商売の世界では真面目さが勝った人は行き詰ってしまうし、いい加減な人は、どぶ川の澱みのはてに流されてしまう。

熱川の名は「濁川」

熱川温泉という名の由来は、昔、この地にあたたかな川が流れていたからだという。今では湧出する温泉のほとんどが旅館などで有効利用されているが、かっては、自噴するままに川に流れ込んでいたからだ。

伊豆熱川駅に降り立ち、目の前の噴泉塔(源泉櫓)や、眼下のあちこちからからモクモクく立ち上る湯けむりを見れば、川の流れが暖かそうなのは、あなたも感じるでしょう。ちなみに自噴する源泉の温度は、ほぼ100度です。

熱川温泉街の中心部を流れる濁川の河口付近
太田道灌の碑と赤い権現橋

入社間もない穏やかな秋空のある日、ネヲンは、昼の休憩で寮に帰る若い女中さんの「スヱちゃん」と一緒になった。スヱちゃんは、南伊豆町の漁村の出で、色が白く笑うと目がなくなる可愛い娘で、その昔、伊豆へ流刑になった公家さんの子孫のような雰囲気であった。

大田道灌の碑を右にみて、赤い権現橋の上から、「ネヲンさん、この川の名前を知っている?」とスヱちゃんがいった。穏やかな流れの川面を見ながら「知ってるよ、熱川だろう」と、オレは自信をもって答えた。

が、スヱちゃんは「違うよ、本当は濁川っていうんだよ」と、にわかには信じられないことをいった。普段は穏やかな流であるが、大雨が降ると、この清流はあっという間に恐ろしいような激流となり海に注ぎ込み、たちまちのうちに河口を黄土色に変色させてしまう。

ネヲンが、ああ本当に濁川だと実感したのは、それからず~っとあとの大雨が降った日である。黄土色に変色し牙をむいたような激流を見て恐怖を感じたときであった。

時代は順風

伊豆急行線が開業し、国道135号線のバイパスも稲取まで開通し、東伊豆の温泉地は東京からもアクセスしやすい観光地となった。ここ熱川でも、海岸通りが拡張され防波堤も完成し、ホテル旅館の大型化がはじまった。

この時のネヲンは、このあと温泉旅館が高度成長の波にのって大繁盛することを知る由もかった。時代の波に乗るというは凄まじく、スタート時の年収180,000円が、15年後の退職時には、年収が5,000,000円であった。それほど温泉旅館業界は凄まじい成長をした。

ネヲンが入社した当時は新婚旅行ブームの真っ最中で、東海バスの社史によれば、1967年(昭和42年)の3月28日には、なんと、1,400組もの新婚さんが伊豆半島をめぐる定期観光バスに乗車したとある。ちなみに、車中での新婚さんたちのようすを聞かれたバスガイドさんたちは一様に答えた。皆さんよく寝ていましたと…。

ボンネットバス
伊豆半島をぐるっとめぐる定期観光バス

旅館の人たちにはいい風が吹き始めていたが、世間の人たちの温泉旅館を見る目は厳しかった。ネヲン、仕事にも慣れ転職の旨を実家に告げに行ったら、両親は露骨に嫌な顔をした。かつ、「世間体が悪いから、しばらくはこの家に近づかないでくれ」と言われた。

世間の人たちは温泉旅館を、食い詰めた流れ者たちの行き着く先と決めつけていた。そこは、風紀の乱れた場末の吹き溜まりでドロドロの愛憎劇の舞台とみたてていた。娯楽の少くなかったこの時代、そこで演じられ物語を興味津津と見聞きしていた。

しかし、二十歳そこそこのハツラツとした女中さんでいっぱいのホテル アタガワで働くネヲンには、そんな話が身近なものとは全く感じられなかった。

同じ頃ネヲンは、社長にも似たようなことを言われた。「ここ(温泉場)は、ウジ虫やゴキブリが這いずり回る場末のジメジメとしたごみ溜めだ。お前のようなインテリには住みにくい場所だぞ。出ていくなら今をおいて他にはないよく考えろ」といった。

二等兵として自衛隊でもまれてきたネヲン、いまでは、青白きインテリではなかった。「ここが気に入ってます。これからもよろしくお願いします」と、即答した。

まち子先輩の後日談

秋が深まった。ネヲンの旅館生活も、早や三ヵ月が過ぎようとしていた。この頃になって、お会計の仕事も大過なくこなせたし、館内の流れもやっと把握できるようになった。

本館の青雲閣は、みやげ物店も併設していたし社員寮でもあった。さらに、備品の倉庫、洗濯場をも兼ねていた。当時の旅館には、洗い場のおばさんがいて、浴衣、シーツ、枕カバーなどのリネン用品は、自館で洗濯をし干して洗濯場で管理していた。

天日干しの浴衣やシーツは、お日様の匂いがしバリッとしていて清潔感がありとても気持ちがよかった。そして、天気の悪い日が続くと、おばさんたちの顔が険しくなった。

青雲閣みやげ物店
青雲閣みやげ物店

この地で初めて寒いと感じたある日の午後、熱川橋のたもの青雲閣みやげ物店でまち子先輩を見つけた。北向の店内には、海からのつめたい風が吹き込んでいた。退職したものと思い込んでいたオレは、うれしくなって駆け込むように店内に入った。

すぐに七輪に手をかざし暖を取っていたまち子先輩に「先輩、寒くないですか?」と、声をかけた。「平気だよ」といって、両足を七輪の端に乗せて「おまんたん火鉢をやっているから」といいながら、大きく口を開け白い歯を見せて「あはははは…」と笑った。まち子先輩の明るい一面を見たネヲンは、なぜかホッとした。

後日、まち子先輩が、静岡県を代表する下田市の名門女子高の出身だと知った。それを知ってネヲン、あの日の職安での無愛想な職員の行いのナゾが解けたような気がした。そういえば、ここの社長は、東北の国立大学で農業び、東芝に勤めていたという異色の人であった。いち早く人材の重要性に気がついて、いろいろと手をまわしていたのだろう。

晩秋の熱川温泉

秋の新婚旅行シーズンが終わりに近づくと、熱川バナナワニ園に隣接する、東海バスの熱川営業所に着く定期観光バスから降りる新婚さんの姿がめっきり少なくなる。

熱川バナナワニ園は、バナナがまだ高価だった1958年(昭和33年)に開園した。園内は温泉熱の利用により、バナナはもちろん熱帯性スイレンやオオオニバスなどの熱帯植物たちが季節を問わず咲き続けていてそれは見事です。

また、17種類ものワ二だけではなくレッサーパンダやゾウガメ、フラミンゴやマナティなどの珍しい動物もまじかに見ることが出来ます。

ワニとバナナ
熱川バナナワニ園

熱川バナナワニ園では、バナナがお安いといいます。はたして、そのお値段は? バナナワニ園と一語ずつゆっくりと三回くり返してみて下さい。お値段がわかりますよ!

さて、年も押し詰まって、最後の最後にやって来るお客さんは、同窓会などの年配者たちだ。なんと、この人たちの予約方法は、宿泊可能日を問い合わせるハガキからはじまる。

宿泊料金を安くしてもらうので、旅館の都合に合わせますという配慮からである。当時のおじいちゃんやおばあちゃんたちは礼節をわきまえていた。さらに、安く泊めてもらったお礼にと、売店でたくさんのお土産を買って帰った。そこには、泊ってやるという振舞いはまったくなかった。本当に、秋空のように清々しい時代であった。

にぎやかな大掃除がはじまる

師走、世間では慌ただしさをます。ここ熱川の温泉街からお客さんの姿が消えると、どの旅館もお正月を迎える準備一色となる。旅館の部屋の窓という窓には蒲団が干され、街じゅうが蒲団の満艦飾となり、窓際でパンパンとたたく布団の音が小気味よく響き渡っていた。

室内には、パタパタとはたきをかける音、シュッシュと箒で掃く音、雑巾がけのキュッキュッ…などという大掃除特有の音なき音がしていた。なんと当時は、板前さんたちも参加して、一部屋に5~6人もの若者が群がって隅から隅まで磨きあげ、お正月のお客さんを迎える準備をしていた。本当の「おもてなしの心」があった。

ネヲンは、散らかっているものを整頓したり、汚れたものを磨き上げるのは好きだが、この大掃除というやつが嫌いであった。一つ一つの掃除の成果が見えないからである。

そして、一日の作業を終えると、若い従業員達は思い思いに青雲閣の寮へと戻った。お客さんのいない時期は、ホテル アタガワでも世間並みに8時間の業務であった。

寮といっても、個室があったわけではない。板前さんなどの若い男たちは、広い部屋に集まって雑魚寝をしていた。ネヲンたちの部屋もそうであるが個人情報なんていう考え方は全くない時代であった。早い話が布団のなかで寝られるだけで幸せであった。

それでも女中さんたちには、旅館創業時以来の女中部屋というがあり、そこには、それぞれに小物入れ用の引き出しがついた特製の二段ベットがあった。若い女性たちの最小限のプライべート空間が確保されていた。ある時、ネヲンが部屋をのぞいたら女中さんたちがベットから一斉に顔を出した。たくさんの亀が甲羅から首を出したように見えた。

温泉旅館は衣食住付きといっても、「食」「住」はこんなもので、「衣」は板前っさんに白衣、女中さんに着物が貸与されるだけで、フロント関係には何も出なかった。

露天風呂

青雲閣の大浴場には濁川を見下ろす大きな露天風呂が併設されていた。一段下がった川向こうの旅館の見事な赤松の庭園が借景であった。

時代はおおらかで、なんの囲いもない完全な露天風呂だった。ここからは温泉街の中心、熱川橋がすぐ眼下に見えた。酔客たちの話し声や下駄の音がストレートに響いてきた。でも、湯船のふちに登って立たねば、道行く人たちに裸体をさらすことはなかった。

男女それぞれの内湯とこの露天風呂はつながっていた。そう、露天風呂への出入り口には小さな突堤があり、そこには、おしゃれな竹垣の下段に花が植えられていた。男女が分けられているかのように見えたが、この露天風呂はほぼ混浴であった。

春と秋の旅行シーズン中は、お客さんがいるので寮生たちは、そっと浴場を利用していた。しかし、シーズンも終わりお客さんがいなくなると、この露天風呂は、勤務時間も短くなった若い男達の談話の場となった。大型テレビが普及するずっと以前のことなので、男たちは自然と露天風呂に集まった。

女風呂のシルエット
女風呂から笑い声

ある日のある夜、リーダー格の番頭さんが人差し指を口に押し付け「静かにしろ」との合図をおくりながら女風呂のほうに目配せをした。

女風呂から笑い声が聞こえたのである。リーダーは、男女を分ける突堤に取り付き、ガマガエルのような格好で竹垣の隙間から女風呂を覗いた。他の若者も静かに湯をかき分けながら竹垣に取り付いた。男たちのガマガエルのようなうしろ姿は見づらかった。

ネヲンはこの劇場に参加しなかった。品行方正だったからではなく、近眼だから覗いても見えなかったからだ。メガネがとても高価な時代であり、風呂場では湯気で曇って用をなさないので、風呂場ではいつも裸眼であった。

「コラー」と叫ぶ女性のイラスト

「コラー!」

若い男達にとってのこの興奮の劇場も、突然、幕が降りる。露天風呂に面した二階の廊下の窓が勢いよく開けられ「コラー、お前等なにしてる」と、元気な女中さんの一喝で、ザ・エンドであった。男たちバシャバシャと湯をかき分けながら競ってその場を離れた。

参考であるが、覗かれた娘たちの反応には二種類あった。「キャ~」との悲鳴とともにすぐ逃げる娘と、「バカ、このスケベ」と反撃する娘である。男性天国の時代であった。これが今の時代であれば死刑に値するだろう。

たくあん漬け

年末の最後の行事は「たくあん漬け」である。それは早朝、板長が板場の若い衆が運転する2tトラックに同乗して、漬物業が盛んな埼玉県の岡部町へ干し大根を仕入れに行くことからはじまる。夕方には、荷台いっぱいに干し大根を積んで帰ってくる。

熱川温泉は、海岸沿いの傾斜地にあり伊豆七島の絶景を望める温泉街である。その傾斜地を登った先の山間部に奈良本という集落がある。その最奥部におばあちゃん(社長の母親)の隠居所があり、そこは、旅館で使用する一年分のたくあんの貯蔵所でもある。

たくあん小屋
みんなでたくあん漬け

たくあん漬けは、板長が干し大根を仕入れに出かける一週間ほど前から始まる。おばあちゃんの隠居所のすぐ隣を流れる小川の畔に、板場の若い衆が一抱えもある大きな空の木樽に水を張ってずらっと並べることからはじまる。

当日の朝、思い思いの身なりで集まった従業員たちが小川の水で木樽をタワシでごしごしと洗うところから始まる。初めてのたくあん漬けをするネヲン、まだ寒さを感じなかった常春の伊豆で、「春の小川はさらさらいくよ」と、口ずさみながら楽しく作業を続けた。

あとは板長の指揮のもと、みんなで、わいわいがやがやとたくあん漬けに励んだ。

余談であるが、青雲閣の魔法使いのお婆さんの特技は「たくあんの油炒め」で、それは、古くなった大量の「たくあん」を菜切り包丁で薄く切り、塩抜きをし、大鍋で油炒めをして甘辛く味付けをしたもである。オレ、「たくあん」に、たくあん以外の食べ方があったなんてはじめて知った。

もうすぐお正月

キダチアロエ
キダチアロエ

キダチアロエの花は冬季に開花する。キダチアロエは万能薬として知られ、また、霜の降りない伊豆では、雑草のように繁茂し、株立ちする花の群生が、冬の風物誌にもなっていて、この花が咲くともうすぐお正月がくる。

年が押し詰まってくると、館内は静かであったが調理場だけは活気づく。板前さんたちが、お正月のお客さんを迎えるために、手間ひまかけてすべてのおせち料理を手造りしているのだ。その作業は大晦日の晩まで続いた。

ネヲン、戦後の貧しい時代に育ったので、食事とは、すきっ腹を解消するために食べるものだと思っていた。が、旅館勤めをして、板前さんが作る本物の料理をみたときは、その華やかな美しさに眼が丸くなった。

自分がもっていた食事の概念が、きれいに突き崩された。そして、いつかは自分もお客さんになってこんな料理を食べたいと思った。本物の手作りの料理を提供していた時代の旅館の話しである。

しかし、旅館の料理に憧れを抱いたネヲンも、おせち料理にはたいして興味がわかなかった。それは、台所中をいっぱいにして母親が作ってくれたおせち料理と大差ないように思えたからだ。おせち料理に対する愛情は母親の方が勝っていると思ったからだ。

旦那さんの新年の挨拶

お屠蘇をいただく
お屠蘇をいただく

元日の朝6時、羽織袴姿の旦那さん(社長)を前に、総勢60余名の従業員が広間に集まった。はじめて参加するネヲン、聞くところによると、旦那さんの新年の挨拶があるそうだ。新しい年を迎えるために、新調された着物を着た若い女中さんたちと、パリッとした真新しい白衣姿の板前さんたちの姿がまぶしかった。

旦那さんの新年の挨拶は気負いのない話しぶりで、世の中の平穏と全従業員が心身ともに健やかで穏やかな正月が迎えられたことの喜びを、ニコヤカにそして簡単にのべた。

挨拶が済むと、板前さん女中さんと朝の仕事が忙しい順で、大番頭さんが注ぐお屠蘇の前へと集まった。余談だが、酒飲みはこんなときでも一番大きな杯を取ろうとする。

お屠蘇をいただいたあとは、旦那さんの前で一人ずつ「おめでとうございます」と新年の挨拶をする。旦那さんは、下位職の人ほどおおきな笑みを返しながら「おお…」と言葉にならない言葉を発しポチ袋をそれぞれに手渡した。素晴らしい日本の正月の風景であった。

ネヲンのポチ袋には、月給が15,000円だというのに、三つ折りにされた新品の1,000円札が3枚も入っていた。

元気な女中さんのイラスト

元気な女中さん

新年の恒例行事がすむと、女中さんたちはポチ袋を、着物の襟元に差し込みながら足早にそれぞれの持ち場へとかけていった。そして、初日の出を拝むお客さんたちにあわせて、新しい茶器セットを持ち客室のドアをたたいた。この日は縁起のいい桜茶が用意されていた。

女中さんたちはよく動きまわった。若さだけが理由ではない。当時の旅館の従業員たちには、社会的な階級制度の意識があったわけではないが、お客さんたちは雲の上の存在であり、自分たちとは違う世界の人たちだから、奉仕することが当たり前だと思っていた。

女中さんたちは、お客さんたちの気持ちを汲み取って、しごく当たり前のように先へ先へと動いた。当然、どのお客さんたちも女中さんの働きに見合うだけのチップをくれた。特に三が日は想像を絶する金額となった。

ネヲンは、ずっと後になって思った。庶民は、背伸びして温泉旅館に泊まるべきではないと…。己の知らない世界を覗くためならいいが、テレビや週刊誌などで知った知識をふりまわし、殿様になったように偉そうにしていると、旅館の人たちが仕返しをするわけではないが、後味の悪い旅行になってしまうことがある。

庶民が温泉旅館に泊まるときは、奮発して予算の三倍ぐらいの旅館を選ぶべきである。そうすれば、そこには庶民の知らない世界がある。知らない世界のことには文句のつけようがない。未知の見分は、世間も広くするし心も豊かになる。さらにいえば、借金に追われて見境なく客を泊めようとする旅館は一刻も早く閉館すべきである。

初日の出
初日の出

ホテルの正面には伊豆大島が大きく横たわっている。6時54分、初日の出がその伊豆大島の右端から顔を出した。お客さんたちから歓声と拍手がおこった。当時の熱川の海岸線は、埋め立てた道路一本分だけだったので太古からの原風景にだいぶ近かった。

海岸線といえば…。

オレがホテルの前の防波堤で海を見ながらお客さんの到着を待っていると、いつも「何を見ているの?」といいながら、由美ちゃんという若い女中さんのが横に立つ。由美ちゃんは、南伊豆町の出身でネヲンの横に並ぶとすぐに腕を絡め腰骨に圧を感じるほど体を寄せてくる。まるで子犬のようにかわいかった。

由美ちゃんは、「ネヲンさん、伊豆七島がどのように並んでいるか知ってる?」と、いって「音に聞こえし神津島 三宅 御蔵は八丈に近し 」と、おばあさんから習ったという言い伝えを歌うように口にした。

伊豆七島は正面の大島から右へ、大島 利島 新島 式根島 神津島 三宅島 御蔵島 と並び、右へ行くほど八丈島に近い。「 音に聞こえし… 」のなかには、大島 利島 新島 式根島 の島名の頭文字が読み込まれている。今では式根島を七島には数えないで、八丈島を含めて伊豆七島というのが一般的なようです。

さて、伊豆大島の三原山から上空高く噴煙がたなびく日がある。それは、ハワイのキラウェア火山やイタリアのストロンボリー火山と共に、三原山が世界三大流動性火山だからだ。

また、三原山は火口上空の雲や噴煙が火口の赤熱溶岩に映えて明るく赤く見えることがある。この火映(かえい)という現象を、地元では昔から御神火様といってあがめていた。

冬休み

ツワブキの黄色い花
東伊豆町花 ツワブキ

晴れやかな三が日もあっという間に過ぎた。松の内が明けると、旦那さんは、また全従業員を集めて休業宣言にちかい訓示をした。「やがてくる春の旅行シーズンに備え、風邪など引かないように体の手入れをしっかりして、充分な英気を養っておくように」といって、3月までのほぼ二ヶ月間も遊ばせてくれた。もちろん給料は全額支給である。

当時の温泉旅館にはものすごい財力があったのだ。現在では考えられない時代である。この余裕から本物のサービスが生まれたのだ。

冬休みになると、女中さんたちは10日~20日単位で実家に帰った。館内が寂しくなったが、オレは勘当も同然の宣言を受けていたので帰る家もなかった。また、遊びに行く金もなかった。故郷のおみやげを持って帰ってくる娘たちとの再会を楽しみに静かに日々を送った。

そして、夜が更けるとオレは一人もくもくと、ひと気のない内場の片隅で洗濯をした。小さなタイルの目地を洗濯板代わりにシャツとパンツと靴下を洗った。洗濯は少々億劫であったが苦にはならなかった。だって、洗い物はほんの少々だからだ。

熱川温泉ではじめての冬をむかえたオレは、毎日がワイシャツ一枚で過ごせたので、ここでは冬支度が不要だと思った。文字通り常春の伊豆だと思った。が、次の年の冬は今まで通りの冬の寒さにふるえた。人間の環境適応力の素晴らしさを知ったネヲンであった。

春の旅行シーズがきた

東風の波頭
春を告げる東風でしける海

熱川の海岸通りは天城連山の山塊が切り立つように海に落ち込んでいる。そこの住人たちは、吹き抜ける風や降りそそぐ陽光、潮の匂いや海の色、伊豆七島の島影から季節の移ろいを感じとっていた。

1969年(昭和44年)3月、暦の上の春を追いかけるように、おめかしをした新婚さんたちがつぎつぎとやってた。伊豆が新婚旅行のメッカであった時代である。温泉旅館のことが少しわかってきたネヲンが、温暖な海沿いの温泉旅館でむかえた初めての春の旅行シーズがはじまろうとしていた。

4月、5月、春たけなわ、新婚さんに混じって、慰安旅行の団体さんを乗せたバスも次々にやってきた。文字通り連日が満館となった。ホテル アタガワのみならず温泉街全体が春の旅行シーズン真っ盛りで、その活気たるや、まさにお客さんであふれんばかりでした。

ホテルの連日満員というのがどれだけ凄いかというと、お会計係りのオレ、というより男たちは、3月下旬から6月の上旬まで一日の休みもなかった。仕事好き(?)のオレは、そんなことはちっとも苦にならず日々楽しく働いた。それに休日出勤ぶんの給料の買上げ額の多さが嬉しかった。男は黙って働くのがあたりまえの時代である。

もちろん、館内を上へ下へと動きまわる女中さんたちには、それなりの配慮があった。

この時代の温泉場で、はじめてトップシーズンをむかえたネヲンは、文字通り街全体のねむらない化に異様なものを感じた。

芸者置屋のおとうさん

ネヲン、去年の秋は無我夢中で自分の仕事しか見えなかったが、この春の旅行シーズンをむかえ、いろいろなことが目についた。その一つに、オレが羨望の眼差しをむけた「おとうさん」と呼ばれる人がいた。

アメ車が横付けした

アメ車が横付けした

日が暮れて、宴会がはじまる6時近くなると、いつも、玄関さきに外車が横付けした。三味線を持った地方(じかた)の気難しそうなおばあさんと、若い立方(たちかた)のお姐さんたちが、なまめかしい香りを漂わせ、元気よく「おはようございます!」といいながら降りてくる。酒宴の席にはべる芸者さんたちだ。

湯の街ネヲンは、いつも、この光景に羨望のまなざしを向けた。対象は芸者さんではない。この外車を運転してくる芸者置屋の「おとうさん」にである。

聞くところによると「おとうさん」の仕事は、この芸者さんたちの送迎だけであった。昼間は、同じ置屋の仲間や旅館の支配や板長たちと麻雀三昧だそうだ。仕事始めの夕方はピリッとしているが、夜10時、11時に、お座敷がはねた芸者さんをむかえに来たときは「ヨッ、ネオンちゃん」と千鳥足であった。夢のような時代でした。

ホテル アタガワの従業員ら全員は大過なく春の旅行シーズンを乗り切った。乗り切るなんて大げさないい方であろうと思われるが、当時の温泉旅館の旅行シーズンとは、朝から晩までではなく、早朝から夜中まで来る日も来る日も休みなく働くことであった。今のようにごく普通に季節が移ろったなどという生易しいものではなかった。

熱川海岸のなぞ

シロギス

ホテル アタガワの前にある海に突き出た堤防の左側(伊東より)は、ごく普通の磯である。

堤防の右側(下田より)は季節によってその表情を大きく変えた。秋から春までは、赤子の頭ぐらいの丸い石で埋め尽くされている。ひとつの波が、海岸通りの堤防にぶちあたり、ざぶーんと砕けて引き返すときに、丸い石たちを動かしてゴロゴロと、休みなく大きな音を立てている。寄せる波の時は、波の音だけであった。

しかし、相模灘の風が爽やかに駆け抜ける夏が近づくと、大波小波が沖から大量の砂を運んできて、あっという間にきれいな砂浜へと変わる。砂にのって透明で美しいシロギスもやってくる。そして、このままきれいな砂浜でいてほしいと願う地元の人たちの期待もむなしく、秋風とともに砂は沖へと帰っていって、もとの石だらけの姿に戻ってしまうという不思議な海岸であった。

熱川温泉にまた夏がきた

7月も半ばを過ぎると、街じゅうに溢れ返っていた騒然たる音がすべて消えて、温泉街は、ひっそりと静まり返っていた。真っ昼間の温泉街には人っ子一人いない。が、おとなき音が街じゅうに渦巻いていた。

今の人たちには、旅館の3大繁忙期といえば、ゴールデンウィーク、お盆、年末年始というが、当時の繁忙期は、春季の4・5・6月と、秋季の9・10・11月で、文字通り連日連夜、一日の休みなく満館が続いた。そのすさまじさは、男子社員には、ほぼ休日が無かった。さらに、泥酔したお客さん同士が神輿を担ぐように大勢が渦を巻き、大声をあげての流血の乱闘騒ぎが日常であった。

そんな時代のホテル アタガワは「夏の暑さは体に障る」との旦那さんの一声で、旅館は夏休みとなった。いまでは、信じがたい時代であった。

磯遊び
磯遊び

夏休みになると、北海道から来ていた娘たちは、1か月もの長期帰郷をした。地元の娘たちは、1週間、10日と、実家に戻って旧盆を過ごした。ネヲンのように帰るさきのないヤツは、ギラギラと輝く太陽の下で磯遊びにふけった。

若いって素晴らしいもので、毎日、いくらでも遊び続けられた。

ただし、少しは仕事もした。遊びの帰りに海岸に流れ着いた流木を拾って帰ることだ。この時代の宿の「ご飯」は自家炊であった。ホテル アタガワは業務用のガス釜であったが、ネヲンが魔法使いのお婆さんからもらった、どんぶり飯は、かまど炊きであった。その薪にするためである。

最後に、現在の温泉旅館業界では、8月13、14、15の三日間を、お盆特別料金期間と定めているが、当時は完全に休館であった。なにをつまらぬ昔話を…、というなかれ。昔と今、どちらがいい時代なんだろうか?

みなさんは、現在の旅館運営方法が最良だと思い込んではいませんか? たまには世間並みに、旧盆中は全館休業として、全従業員がそれぞれの先祖の墓参りをしながら、「今の旅館運営方法=最良・最善」であるという方程式に、疑問を投げかけてみてはいかがでしょうか?

< 完 >