猫のイラスト
桜並木

春よ来い、花よ咲け!

今は昔、昭和57年(1982年)の春、この物語の主人公の一人「湯ノ街ネヲン」は39歳になった。ここは伊豆熱川温泉の「ホテルオ-トモ」である。ある日、湯ノ街ネヲンは「総案」を起業したいと「大友社長」に退職のお願いをした。昭和43年(1968年)の入社であるから15年間もお世話になった社長である。

「総案」とは、昭和30年(1955年)ごろから始まった、高度経済成長期の好景気を背景におこった団体旅行ブームの時代に咲いた徒花である。建物は立派であるが人材に乏しく未成熟な温泉旅館と規模が小さく情報量の乏しい街の旅行会社との間に花開いた。

今は昔、ここは伊豆熱川温泉

熱川温泉の風景
熱川温泉の風景

「総案」とは、温泉旅館と旅行業者を結ぶ「ホテル旅館総合案内所」の略称で、総案の表立っての仕事は、旅行会社に対する旅館営業の代行です。実質的には旅行会社と旅館の間の事務的(予約・変更・取り消しなど)な流れを円滑に執り行う仲介業です。

総案の成り立ち

昭和40年代に入ると温泉旅館は大型化にむけて突き進み、地区を代表する大きな旅館は、東京などの大都会に直営の営業拠点を設けるようになった。

この時、資金力の乏しい旅館の若い経営者たちは知恵を出した。全国の温泉地から競合しない仲間を募って協同組合形式の営業所を都会に開設した。これが総案の原型です。

そして、そこの営業所長として力をつけたヤツがもっと知恵を出した。なんと、彼らは自らがオーナーとなって旅館やドライブイン、観光施設などを集めて私的な営業所を開設したのである。これが、いわゆる「総案」のはじまりとなった。

この総案という職業が花開いたのは、自分たちの意思では旅行ができずに旅行会社を頼った団体客と自力で集客できない旅館がたくさんあったからだ。

退職のお願い

ホテルオ-トモは、大友社長の強いオーナーシップによる経営体制が整っており人間関係がとても濃密であったから、簡単に退職しますなどと言える雰囲気はなかった。この会社で辞めるとは、親子の縁を切るぐらいの覚悟が必要であった。

実はネヲン、夢と希望に燃えて「総案」の起業を志したわけではない。

退職の一番の理由は、温泉旅館での仕事に飽きが来ていたからだ。

ネヲン、男ばかっりの自衛隊を除隊した後、伊豆のこの温泉旅館に就職した。何も知らずに飛び込んだ水商売の世界、そこには若い女中さんたちがたくさんいて、とても新鮮な世界であった。板前さん、番頭さん、掃除・洗濯のおばさんなどの仕事は、すべてが手作業というあたたかな職場であった。

ネヲンにとって、家業から企業へとの成長過程にあった温泉旅館には、面白く新鮮な仕事がたくさんあった。新しいもの好きなネヲンは、あらゆる職域に首を突っ込んだ。人使いの上手な社長は、そんなネヲンの目の前にニンジンをぶら下げいろいろな仕事をさせた。

楽しさは仕事だけではなかった。実利的な裏付けもあった。入社時の年収18万円(月給15,000円)が、15年後にはなんと500万円を超えるまでになった。これは、ネヲンの頑張りもあったが、社長が世間並みの大卒の給料体系を加味してくれたからだ。

当時、半年ごとの大幅な昇給は、給料は、永遠に増え続けるものという心境になり、ネヲンの頭のなかの貯蓄という考えをマヒさせた。入ってきたお金は、次の給料までにはすべて消えていた。あのお金はどこへ飛んで行ってしまったのだろう。

さて、ここは小さな温泉旅館である。ネヲンは、入社して10年も過ぎると、毎日が同じ仕事の繰り返しとなり、仕事に新鮮さを感じなくなってしまった。

まだ若かったネヲン、そんなマンネリ生活がイヤでイヤでたまらなくなった。目の前の伊豆大島が、だらしなく寝そべっているヤツにみえたり、繰り返す波の音は、進歩のないヤツの寝言と聞こえる日々になってしまったのだ。

世代交代

桜の花と若葉
花から若葉へ

もう一つ、ネヲンに退職をうながすことがあった。

ホテルオ-トモは、三代目へと代替りの時期にさしかかっていた。歴史小説好きのネヲン、現城主が退くときはのちのち新・旧の間でゴタゴタが起きないように、その家臣も現城主とともに退くべきだという説をよしとしていたので、それを、自分自身の退職理由の一つにした。

さらに、さらに、もう一つ大きな理由があった。

ホテルオ-トモの社長は、二頭政治は混乱の元として女将制度を設けなかった。それに代わるものとして社長は、各女中さんが、それぞれ小さな女将さんになれるようにとの教育に力をそそいでいた。

そして、旅館の運営は、社長と支配人が一対となって、キャッチボール形式でおこなっていた。大友社長は、この運営形態を三代目とネヲンに置き換えようとしていた。

この策にネヲンは不安を覚えた。それは、ネヲンが自分の性格は、支配人のように旅館の表舞台で活躍するタイプではなく、内向的であると自覚していたからだ。

ネヲンが己の性格を強く自覚するのは、この旅館には、ピカピカに光り輝くスーパー支配人がいたからだ。温泉旅館は華やかさが売りものである。ネヲン、この人の代役などは絶対に務まらないと思った。ならば、逃げ出すしかないのである。

光り輝く支配人

現在のJRがまだ国鉄といわれた時代、国鉄は、観光地への足として各地区の観光業界に大きな影響力を持っていた。伊豆地区は熱海駅を窓口として東京南鉄道管理局の管理下にあった。

ある年、伊豆の旅館では中レベルの当館に、支配人が東京南鉄道管理局の重要な会議を誘致してきた。これだけでもすごい話である。

会議当日、伊豆熱川駅から旅館の送迎バスに乗って国鉄のお偉いさんが到着した。支配人は「いらっしゃいませ」の挨拶と共に明るく元気に出迎えた。ネヲン、次のシーンは、鷹揚に構えて下車するお役人とペコペコと頭をさげる支配人の姿だと想像しながら冷ややかに見ていた。

しかし、なんと次の場面は、初対面だというのに十年来の知己の再会を喜び合うような二人の姿であった。そして、客室へ案内する女中さんが待つエレベーターの前に立つまでには、お互いに肩をたたきあわんばかりの情景であった。

いわゆる「持ってる人」は、同類を瞬時に嗅ぎ分けるのだ。

ネヲン、カウンターの前でただニコニコとしながら立っている社長と支配人を交互に見比べた。同時に、あんなヤツを使いこなしている社長はスゲェーと思った。

ギンギンギラギラ

夕日と棒人間
夕日が沈む

さて、今夜はホテルオートモの社員(70数人)忘年会である。例年は、社長の挨拶とおはこの「まっくろけ節」で始まり、あとは社員たちに引き継がれるのだが、今年は支配人が余興を披露することになった。仮設の小さな舞台に立った支配人に拍手喝采であった。

支配人は舞台の上で、お相撲さんのような蹲踞(そんきょ)の姿勢から両手を左右に広げて「ちり」を切り、その手をゆっくりと真上に挙げで両の手のひらをいっぱいに開いた。ネヲンをはじめ全員が興味津々で身を乗り出した。

支配人、腰を落としつつ両手の平をひらひらさせながら大きな夕日が沈みゆく所作をしつつ、一語一語ゆっくりと「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む」と歌いだした。

全員が息を止め見まもったので会場からは人が消えたかのようになった。ネヲンも目ん玉とノドチンコが飛び出すかと思った。そして、支配人がかってオレは一晩酒を酌み交わせば誰でも落として見せるといった言葉が真実味をおびてよみがえった。

かってネヲンが、些細なことでお客さんに怒られたことをぼやいていたら、支配人は、オレならお客さんにスリッパで横っ面をひっぱたかれても我慢出来るぞとも言ったことも思い出し、支配人はお化けだ、人間ではないと思った。

退職が決まった

社長は、ネヲンを次の世代の重要な駒だと考えていたので、あの手この手で引き留め策を講じたが、ネヲンの逃げ出したい気持ちの方が勝って退職が正式にみとめられた。

ネヲンの退職が決まると、社長は今までとは違うことを言った。

これまでは、事あるごとに「寄らば大樹の陰」であったが、独立まじかのネヲンに「鶏口牛後」だと言った。男と生まれたからには、大会社の歯車になって末端で働くよりも、小さな会社でも方針を決定するような立場に立ち、一国一城の城主を目指さなければウソ(正しくない)だと言った。

ではなぜ、みんなが一国一城の主を目指さないかというと、起業してそれを軌道にのせるまでには膨大なエネルギーがいる。多くの人たちはそのエネルギーがないからだと続けた。

三つの戒め

大友社長は、40歳で独立を目指すネヲンに「お前にはもう年齢的に後が無いのだから失敗は許されないぞ」といって三つの戒めをあげた。普通は、退職する者の将来などは、野となれ山となれであるが、先の先まで心配してくれるのがこの社長のいいところである。

三本の指のイラスト

三本の指

 1,闇金に手を出すな

 2,浮かれて万歳をするな

 3,金を残そうと思うな

   と、社長は三つの戒めを言った。

それを聞いてネヲン、1番目の闇金のことはよく分かりますが、2番目と3番目のことの意味がよく分からないと、ストレートに答えた。社員時代の社長(先生)とネヲン(生徒)のいつもの会話に戻っていた。

社長は、そんなネヲンを諭すように言った。

「万歳をするな」というのは、人間は少し成功するとすぐに歓びはしゃぐ。なかには浮かれて踊り出す馬鹿もいる。みてみろ、ここ熱川温泉でも大店のおやじ(社長)が町長や県会議員になっただろう。結果はどうだ。社員に金をごまかされたり火事を出したりして二軒とも傾いちゃっただろう。

経営者というのは、社内のことにはつねに細かいことにまで目を配り、時の流れには敏感でなくてはならない。だから万歳をして浮かれている暇なんかないのだ、と厳しく言った。

ネヲン、三つ目の「金を残すな」というのは、貯金をするな、ということですかとつまらんことを言ってしまった。

社長は「バカ!」と、ひとこと言って続けた。チョット儲けたぐらいで、欲をかいて株を買ったり不動産投資などをするなということだ。金は魔物だ。儲けたものはそっと手元に置いておけ。そして、会社をたたんだ時に残ったものが本当の儲けだといった。

社長は、ネヲンの将来がそうとうあやういと感じていたのだろう、最後に、お前は事務タイプだから総案を始めたら営業に専念し、事務所にはお前の机を置くな、そして、決してソロバンを持つな、などいう細かな指導までしてくれた。

この話には続きがある。ネヲンが起業してすぐに、ネヲンに起業をすすめた友人が言った。あなたは経営者にはむいていない。いまなら、まだ遅くないから直ぐに会社をたためと…。

退職間近

退職のための大きな難関をパスしたネヲンは、退職の日をむかえるだけとなった。15年も見続けてきた伊豆の海と空がとてもすがすがしく見え、目の前の伊豆大島が古くからの友人のようであった。海沿いの崖下に咲くツワブキの黄色い花がやけに輝いてみえた。

ネヲン、起業後を見越してをあたりをキョロキョロと見回していた。

ネヲンが起業する「総案」の大切なお客さんは旅行業者である。現在、この旅館に送客してくれている旅行業者の中から将来パートナーになりそうな人たちを物色していたのだ。

山内さん

ある日、ネヲンが手ぐすねを引いて待つホテルオークラに、群馬県の高崎市から「山内さん」が、薄茶色のトヨタ・コースターに、15人ほどのお客さんをのせてやってきた。

バスのお客さん
バスのお客さん

ネヲン、この山内さんのことは事前の予約電話でやり取りをしていたので、おおよその予備知識はあった。現在は、大手製紙会社を退職し旅行会社の登録申請中で免許がおりるのを待っているといった。根っから旅行業が好きみたいで電話の声が弾んでいた。

山内さん、この旅行は地元の有志をのせての伊豆一周二泊三日の旅だといった。西伊豆は大学生時代にアルバイトをしていた土肥温泉の旅館で即決できたが、二泊目の東伊豆の旅館探しで迷っていたら、そのアルバイト先の社長がここを紹介してくれたといった。

話は横道にそれるが、昭和46年(1971年)の夏と翌年の夏と、山内さんがアルバイトしていたのは、わずか2年であるが、この頃は、女子大生の夏季アルバイト先として海辺の温泉旅館が大人気だった。今の感覚でいえばハワイのホテルでアルバイトという感じであろう。一流大学の学生さんがわんさと来た。

このブームは、ほんの僅か、3~4年間だけであったが、夏休み中の温泉旅館は人手不足が解消され館内に華やかさが戻った。そして、週刊誌に求人広告の掲載勧誘の電話がひっきりなしに鳴った。

さて、山内さんと顔を合わせるのは今回が初めてである。思っていたよりも若そうで、ネヲンよりは10歳ぐらい下のようだ。人生とは面白いもので、この時の出会いがその後の長いお付き合いの始まりとなった。山内さん、この物語のもう一人の主人公である。

アルバイト!

アルバイト!

宴会が終わってひと息ついたあと、館内のクラブで、山内さんのアルバイト時代の思い出話に花が咲いた。

思い出の一つは、誰もいなくなった真夜中の調理場にもぐり込み、冷蔵庫をそっと開けて食材のつまみ食いをしたことだ言った。

もう一つは、旅館でのアルバイト中に、もう一つのアルバイトとして、二次会のお座敷ストリップの照明係をしたことであった。

踊子さんが着物の裾をまくったときにチラリと見えた黒いものに、お客さんが大喜びをしていた光景が忘れられないといった。そして、赤いセロファンを貼った投光器でタイミングよく踊子さんに光くを当てないとお客さんに怒鳴られたことなどなど。

ネヲン、山内さんが同じ時代に同じようなことをしていたのかと思ったら近親感が増した。

山内さんが旅行業に興味を持ったのは、国鉄の駅長だった親父の影響だといった。その話を聞いてネヲン、一瞬「?」となった。だって普通は、鉄道員のカッコいい制服姿をみて鉄道マンにあこがれるだろうと思ったからだ。

山内さん、ネヲンの思いを無視して続けた。親父が駅主催の団体募集旅行をやっていて、お客さんをゾロゾロと引き連れて行く姿にあこがれたといった。

土手沿いの散歩みち
土手沿いの散歩みち

山内さんは、昭和49年(1974年)大学卒業後、地元の大手製紙会社に営業として入社したが旅行業への夢が捨てきれず、昭和56年(1981年)の春、とうとう仕事中に、河原の土手に車を止め、勝手に昼休みを長くして(サボって)、旅行業者になるための資格、旅行業務取扱管理者の受験勉強を始めた。そして、その年の秋の試験に見事に合格した。

明るいスタート! 山内さん

この出会いのあと、ネヲン(昭和58年6月)と山内さん(昭和58年2月)は、ほぼ同時期にそれぞれが総案と旅行業者として起業した。が、二人のスタートダッシュには大きな違いがあった。

営業タイプの山内さんは、旅行会社を立ち上げるや次々と団体客を獲得し順調に業績を伸ばした。前途洋々たる快調なスタートであった。

注目すべきは、開業時の準備・行動力である。

山内さんは、事業の成功が親の七光りだと言われるのを嫌い、奥さんと3人の子供をひき連れて、お隣り埼玉県熊谷市のマンションに移り住んで開業した。これは、高崎市の郊外より熊谷市の方が都会であり会社の数が圧倒的に多いということからでもあった。

さて、人生って面白いもので、この時期、のちのちにネヲンや山内さんと関わりを持つ「天城さん」が、大手生命保険会社の熊谷営業所の所長として赴任してきていた。三人が同じお天道様のもとで仕事をしていたのである。

山内さんの新店舗

高崎市倉賀野町は、かって、江戸日本橋から十二番目の中山道の宿で、倉賀野宿として栄えたというが、今の町はさびれている。しかし、かっての面影を色濃く残したこの寂れ具合がとてもいい。

ここ倉賀野町は、日光例幣使街道の出発点である。春、日光東照宮へ幣帛を奉納する勅使が、京都から中山道を下ってきて、この宿から日光へと向かった。

倉賀野の街並み

倉賀野の街並み

山内さんは、持ち前の明るさと、天性の営業力をフルに発揮し、手当たり次第の飛び込み営業をし、順調に団体さんを獲得し、業績を伸ばした。

仕事に手ごたえを感じて、開業して間もない昭和60年(1985年)の秋、地元に戻り、高崎駅のお隣の倉賀野駅の駅前通りに旅行会社を開店させた。

お店の立地は良かったが、まだ娯楽観光型の団体旅行が主流だったので、お店にお客さんが頻繁に来るわけではなかったが、自分の城を地元の人たちに披露することができた。

ネヲンは暗い船出

一方のネヲンは、子供たちに「父さん、うちは貧乏なの?」と聞かれるほどに追い詰められていた。

その原因は、ネヲンが「鶏口牛後」の本当の意味、すなわち、牛の尻尾(サラリーマン)と鶏の頭(経営者)では、考え方が根本的に違うということの理解できていなかったからだ。すなわち、親方日の丸というサラリーマン根性がぬけきっていなかったのだ。

ネヲン、仕事はみな同じだ! 自分の仕事の流儀は一級品だとたかをくくって、サラリーマ時代と全く同じ考え方のまま、新しい仕事のスタートをきってしまったのである。

ちなみにネヲン、独立にあたり貯金はゼロ、新築した家は全額ローンであった。が、退職金200万円と、総案として、これまでの給料の2倍の収入先を確保していたので、これでひと安心とのんびりしていて緊張感がなかった。

ゆず

ゆずの里・毛呂山町

考えの浅いネヲンは、総案の立地としては、常識はずれの埼玉県の西のはずれの毛呂山町の自宅で起業してしまった。山内さんの起業時とは大違いである。

ネヲン、ここは田舎だけど総案は営業が主体だから、ここを30分早く出れば、川越市に事務所を持ったのと同じだと考えたからだ。

でも、旅行業者や旅館の評価は、立地の悪い田舎の総案であった。これが原因で、総案を支える旅館の加入が全く増えず、売り上げ(収入)が伸びなかった。

幸いなことに、総案は車一台と電話一本で出来る仕事だったので、致命傷とまではいかなかったが、生活は困難を極めた。

追い詰められネヲンは、大友社長のもとへお金を借りに行った。社長、うちも今は大変な時だからといって100万円を限度として用だてを承知してくれた。当日50万円、後日20万円と計70万円もお世話になった。

この時、お金を借りる分際でありながら、不届き者のネヲンはとんでもないことに、3億円もの売り上げがあって、たったの100万円かよと思ったのである。未熟者であった。

かって、大友社長が言ったようにお金は魔物である。お金の流れが細くなるとまわりの人たちは、ネヲンを避けたり、お金の蛇口をギュッと絞った。しかも余計に力を入れて。

この窮地を救ってくれたのが家内である。

家内は毎朝、営業に出るネヲンに一日の走行分のガソリン代3000円(150円x20ℓ)と昼飯代の500円を「頑張ってね」と言いながら渡してくれた。自分は、継ぎあてた下着を着用し、100円の化粧品を使いながら…。

実はネヲン、起業と同時に、旅館勤務時代の散財癖を反省してサイフを家内に渡した。もしこの時、ネヲンが相変わらずサイフを握っていたら、我が家の貯金ゼロ状態におびえて営業には出なかっただろうと思う。家内が我が家の救世主であった。

この時代の唯一の楽しみは、旅館の営業さんが来所することであった。昼飯代を負担してくれることと、寒いときには暖かい缶コーヒーを、夏にはガリガリ君を買ってくれたからである。

遅い春

世間には先の見える人がいて「仕事って休まずに頑張っていれば、ある日突然春が来る」といったが、当時のネヲンには、そんな言葉が信じられなかった。このまま野垂れ死にしてしまうのではないかという気持ちの方が強かったからだ。

ネヲンは営業が得意ではなかった。いつまでたっても、怖そうな旅行業者さんと話すとワキ汗が流れた。出来ることなら営業は挨拶程度で終わらせたかった。なので、おおくの旅行業者さんからは、あいつは営業じゃない飛脚だと揶揄された。

でも、続けるしか生きる道はなかった。埼玉は、ほぼ平野なので結構広い。その県内中をただ黙々とひとり、車を運転して、へ巡り歩く日々が、2年、3年と続いた。

人間っておもしろい。何度も顔合わせていると、「可哀そうだからとか、しょうがね~なあとか、頑張ってるね」などと言って、ポツリポツリとお客さんをくれるようになった。

そして、社長への月々2万円の返済が苦にならなくなったころ、ただ毎日が同じことの繰り返しであったが、ネヲンはある気持ちの変化に気が付いた。精神的な余裕を感じるようになったのだ。遅かった春がやっとめぐって来たのである。

ここは、厳しく冷たい赤城下ろしが吹きぬけ、砂埃が舞い上がるだけの無毛の台地だと思っていたら、いつの間にか若芽が一面をおおう青々とした麦畑になっていた。

同行営業

「同行営業」とは、総案が旅館の営業さんを同伴し、一体となって、旅行業者にセールスをかけることです。

同行セールスのイメージ
同行セールス

わずか10数年前に生まれた総案業界。その誕生時の総案は、吹けば飛ぶような存在であった。そこで「優秀な総案の先人たち」が、自分たちの存在を旅館の主人たちや、旅行業者に認めさせるために編み出したのが同行営業というセールス形態である。

総案の誕生時代には、各旅館にそれぞれ名の売れた看板営業マンがいた。

それに目をつけた優秀な総案の先人たちは、身をかがめ、看板営業マンたちに、当地での営業の際には、あなたの手足となって働きますので、ぜひ、当総案にお立ち寄りくださいと、自分たちの領域に引きずり込む努力を重ねた。そして、その効果は絶大であった。

旅館の看板営業マンは、同行の総案を紹介しながら「当地での出先機関となりますのでよろしく!」と、いいながら、懇意にしている旅行業者に総案を引きまわしたので、総案の信用力もアップし、旅行業界で認知されるようになった。

そして、ネヲンたちの総案時代になると、世代交代がおこったり、旅館業界の人手不足により、優秀な旅館の営業さんたちが少なくなって、ほぼ、総案が主導権を握って同行営業をするようになった。

案内所会議

「案内所会議」とは、旅館が主催して、全国各地の総案を集めて催す営業会議のことです。営業会議という名目ですが、実際には慰労会といった方が適切です。

ネヲンも総案として、やっと世間に認知され案内所会議にも呼ばれるようになった。

ある時、三重県の鳥羽の旅館で案内所会議があった。そこの若社長が、ネヲンに「あなたは土・日も営業をしているそうですね」と言った。それを聞いてネヲンは、こんな遠くにまでオレの営業努力が伝わっているのかと思ったら鼻がヒクヒクとした。

一方、この頃のネヲンは、起業がひとやま超えた安ど感で虚脱感におそわれていた。

現在は、青・黄・赤と変わる信号機と乾いたアスファルト道路の先を見つめながら、県内の旅行業者をへ巡り歩くだけで楽に飯が食えるようになったが、同時に、日々道路の上を走るだけでオレの人生が終わるのかと思うと仕事にむなしさを感じるようになっていた。

もし、ネヲンに才能が有ったならば、よし! これを足場に次の階段を登ろうと考えたであろう。同じことでも優秀な人はポジティブに、凡人はネガティブにとらえる。

日航ジャンボ機墜落事故

さあ、明日からは盆休みだ! と、17時もまわり仕事も一段落し、軽やかな気分で事務所の窓を開けはなった。うすい西日と秩父の山々から吹きおろす爽やかな風が室内をサッととおり抜けた。クーラーよりも数倍心地いい。

この直後、日航ジャンボ機が迷走飛行の末に御巣鷹の尾根に墜落したという衝撃的なニュースが飛び込んできた。まだ暮れきらない昭和60年(1985年)8月12日(月曜日)の19時少し前であった。

第2章

時代は、昭和から平成へ

第124代天皇の昭和天皇が昭和64年(1989年)1月7日に崩御した。当日、新元号を「平成」と小渕恵三官房長官が発表し、翌日の1月8日から昭和から平成へと元号がかわった。

平成元号の発表
平成元号の発表

この時の発表で、小渕さんは有名になり子供からも「平成おじさん」と親しまれるようになった。このとき、消費税の導入などで不人気だった竹下総理は、この小渕人気を見て、あれほど人気がでるなら自分がやればよかったと愚痴ったそうだ。

会津東山温泉の営業さん

会津東山温泉・ホテル天鶴の若い営業さんと同行セールス中、車内のラジオから、昭和天皇が、昭和64年1月7日に崩御になったので、平成元年2月24日に、大喪の礼が新宿御苑において行われると流れた。

すると、隣席の営業さんが、手拍子をとりながら「あ~めでたい、めでたい、こりゃめでたいと」と、歌うようにいった。

鶴ヶ城
鶴ヶ城

ネヲン、えっ? という顔をして「なにそれ!?」と思わず口にした。

それに答えて会津の営業さんは、にっくき(憎き)敵の親玉の葬式だ! こんなめでたいことはない、と真顔で答えたが、そのあとは多くを語らなかった。

ネヲン、戊辰戦争なんて遠い昔の話だと思っていたが、会津の人たちの心の中では、今でも戦争が続いているのかと思ったらとても複雑な気持ちになった。

北越戊辰戦争

戊辰戦争といえば、剣道の有段者である山内さん、学生時代は、長岡藩の総指揮者・河井継之助の大ファンで、特に、その戦働き(いくさばたらき)を高く評価していた。

しかし、旅行会社の社長となった今の山内さんは、継之助への見方が少し違ってきた。継之助は、とんとん拍子で出世したが故に、民百姓への思いが至らなかったのではと疑問を投げかけていた。

河井継之助の墓
河井継之助の墓

越後長岡藩の中堅どころの家に生まれた河井継之助は、北越戊辰戦争開戦時は、出世をして家老上席で軍事総督であったから、相当優秀な人物であったのだろう。

河井継之助は、サムライの美学を貫いた最後のサムライとして称賛される一方、長岡を焼土と化した戦犯として、墓石が何度も倒されたとも伝わる。戦いの最中には、戦争に反対する農民が一揆をおこし、少なからぬ藩士が新政府軍に投降もしていた。

河井継之助記念館・ガトリング砲-OK

河井継之助記念館・ガトリング砲

継之助には商才もあり、たかだか7万5千石の小藩でありながら、西洋の最新式の銃やガトリング砲などの兵器を買いこんだ。

継之助は当初、新政府軍との戦を避けて平和を護らんがために、長岡藩をスイスのような「武装中立国家」にすることを目指していたという。

近ごろ山内さんは、継之助の戦場以外のことに疑問を呈しはじめた。継之助は完全に時代を読み違えた指導者だと思うようになった。

継之助と同じく、戊辰戦争で官軍を圧倒し庄内藩の「鬼玄蕃」と、勇名をはせた酒井玄蕃の生きざまとは大きく違っているからだ。

河井継之助には、誰のために戦う、なんのために戦う、という大義がみえない。

会津藩の白虎隊などのように、女、子供までが武器をとって戦ったというなら何も言うことはない。また、継之助がたった一人でガトリング砲を撃ち続けて果てたというなら、サムライの美学と言えないこともないと思った。

さて、継之助は、新政府が旧江戸幕府軍勢力制圧のために、東征大総督府を設置し東征軍を進撃させたことをどのようにとらえていたのだろうか?

この時代の僅か20数年前には、イギリスが中国に侵略したアヘン戦争があった。その後、わが国にも列強諸国の強大さを知らしめた薩英戦争や下関戦争があった。この時代、新政府の首脳が一番恐れたのは、この混乱に乗じた列強諸国の介入であっただろう。

例えば「武装中立国家」を唱えていた継之助に反乱の意思がなくとも、新式の銃を買い集め軍備を拡充する行為は、新政府にとっては反逆の兆候アリと映るであろう。そして、フランスなどから助言・指導を受けることは、列強諸国の軍事介入の口実のもとになると危惧するであろう。

また、継之助が唱えたスイスのような武装中立国家という考え方は、互いが牽制しあい戦力が拮抗した群雄割拠の時代ならば成り立つであろうが、錦の御旗を掲げる政府軍のまえには通用しない。錦の御旗には、相手に有無を言わせぬ巨大な力と強さがあるからだ。

また権力者は、いつの時代でも、どんな社会でも異端の者を排除しようとする。古くは、蝦夷の阿弖流為(アテルイ)は坂上田村麻呂に征討された。奥州藤原氏は源頼朝に攻められて滅亡しいる。さらに、平将門や藤原純友なども政府軍に鎮圧されている。

小千谷談判

船岡山慈眼寺
小千谷談判の地 船岡山慈眼寺

小千谷談判でも継之助は、相手(新政府)のことを完全に読み違えた交渉をしている。この時の新政府軍は既にゴジラ(巨大化)になっているのだから、長岡藩とは明らかに対等ではない。交渉は理論とか気概のぶつけ合いではない。実利の取り合いだ。

のちに政府軍は、継之助に戦をあきらめるように説得ができる大物を対応させるべきだったと悔やんだが、岩村のような小僧に席を立たせる談判をした継之助にも問題があったのだろう。

西郷隆盛と会談をして無血で江戸城明け渡しをした勝海舟を腰抜けだなんていう人はいない。

ある時、継之助は同胞に、たった一つだけ戦を回避する方法がある「俺の首をとり3万両を添えて西軍に届けよ」と言ったという。もし、継之助がこれを実行していたら、田中角栄以上に立派な銅像が長岡市内に建っていただろう。

米百俵の碑
米百俵の碑

戦後、長岡の危機から再興を目指し尽力したのが、継之助の幼馴染だった二人でした。一人は三島億二郎。もう一人は「米百俵」で長岡の人材育成に努めた小林虎三郎だ。

山内さんが変身

平成になって6年が過ぎた。今も昔、1994年である。ちかごろ山内さんの心の中に、飲んで歌ってチョイヤサ! の、宴会・娯楽主体型の団体旅行はいずれいきつくのでは、という考えが芽生えた。そこには、旅行本来の目的や意義が全くないからである。もっと楽しく面白い本当の旅が提供できる方法ないかと思い巡らした。

閃く

山内さん、ある朝、たくさんの新聞折込みチラシが気になった。特に読売旅行やタビックス、クラブツーリズムなどのツアー募集のチラシが多くなったからである。

折込チラシ
折込チラシ

山内さん、大手旅行会社のチラシと三日三晩にらめっこをした。午前中はお店で、午後はかって旅行業の勉強をした河原で、夜はお酒を飲みながら、そして、司馬遼太郎の「坂の上の雲」や「峠」を読み返しながら…。

これらのチラシを眺めていたら、これからは「個人参加型の団体旅行」の時代だと閃いた。団体客(お客さん)に振り回される旅行業者ではなく、己が考える理想的な旅を企画して、お客さんを募集する旅行業者になればいいのだと。胸の内にたまっていたモヤモヤが消し飛んだ。

そして、すぐにチラシ作りに取り組んだ。

大手旅行会社の多色刷りのチラシを見ると、たしかに旅はいいな~という気分になる。が、どこに行こうかという段階になるとその先の情報があまりにも少ない。限られた紙面でより多くの人たちにより多くの情報を提供しようとする表記法の弱点があった。

敵の弱点は己の強みだ。敵の弱点は「大雑把」だとし「繊細」で対抗すれば勝てると踏んだ。ますは、大手旅行会社の新聞折込などのテレビコマーシャル的な宣伝方法ではなく、ダイレクトメールで直接個人にアピールする方法を選んだ。

具体的には A4の用紙に、季節をテーマにした一つの旅だけを記載して、この旅の目的と楽しさをより分かりやすく書いて、さらに、発着時間や行程等も詳しく書くことにした。

事務的な仕事が苦手の山内さん、旅行業務取扱管理者の受験勉強以来の挑戦をした。東芝が世界初の日本語ワープロとして開発した「Rupo(ルポ)」を買って、分厚い解説書を片手にワープロの操作法を取得した。

次はそのチラシの作成手段である。悩んだすえに印刷機を買う事にした。印刷機にはコピー機に比べ設置コストが高いのと印刷時の騒音という欠点があったが、印刷スピードと低ランニングコストが決め手となった。

早速、チラシ作りを始めた。印刷機は一色刷りなので見栄えはあまりよくなかったが、そこは山内さんが知恵を絞って考えた企画である。すぐにお客さんの旅心をくすぐった。

そして、一色刷りの味気なさは色付きの用紙も使うことで華やかさを補った。

ゴロゴロツアー

そして「ゴロゴロツアー」を誕生した。余談だが、ツアー名は上州名物の雷さまである。

ゴロゴロツアー
ゴロゴロツアー

山内さんは、大手旅行会社の立派なチラシを前に、ダサいゴロゴロツアーのチラシなんて、どうせ大手の旅行会社には敵いっこないなんていうマイナス思考はない。大変なことや出来ないことを指折り数えて戦う前にギブアップするやわな旅行業者ではなかった。

さらに、大手旅行会社との差別化を図るために旅先での車内のムード作りにも気を配った。

例えば、青森港から津軽海峡フェリーにのって函館港についた。フェリーが接岸すると船首からバウランプが降りて揚陸がはじまる。バスが動きはじめてバウランプと岸壁とのわずかなスキ間の通過するとガタンと音がする。その振動をのがさずカセットをボリュームいっぱいにしてONにする。

はるばるきたぜ函館♪…と、サブちゃんの歌声が響く。拍手喝采!

ゴロゴロツアーは、地域密着型なので、参加者のみなさんと顔なじみになると一人一人の日常生活のことまでが気になった。ツアーに参加する朝、子や孫の眠りを妨げないよに気を使いながら慌ただしくお出かけの準備をするお客さんの姿が目に浮かんだ。

何か手助けができないかと考えた山内さんは、朝食用のおにぎりを提供することとした。おにぎりはコンビニで簡単に用意ができたし、出発前の慌ただしさから解放されたと、お客さんにも喜ばれた。これ、大手ツアー会社には真似のできないことであった。

山内さんは、車中で楽しそうにおしゃべりをしているお客さんたちを見て、どうです皆さん最高の旅でしょう! と自慢したかった。

ネヲンにも風が吹く

山内さんがゴロゴロツアーを販売し始めたと同じころ、ネヲンは、起業して10年以上も経つというのに、いまだに、怖そう(自信たっぷり)な旅行業者の前にたつと、ワキ汗が流れた。営業が仕事だというのに…。

ゴリラ
怖そうな旅行業者

ある日、ワキ汗の横綱みたいな旅行業者から起業以来初めての電話が鳴った。

「今、病院のベッドのうえから電話をしているんだ」と断りを入れて「おまえと、付き合うことにしたからタリフとパンフレットをもって店に来い 」と用件だけを言って切った。

タリフとは、料金表を意味する英語ですが、我々の旅行・観光業界では、販売契約のある旅館やドライブイン等の一覧を記載しA3サイズの厚紙に印刷し、旅行事業者に向けて配布するものです。

翌朝一番、タリフとパンフを届ける。

事務所は暗くカラであったが、隣接する母屋で親父似の大柄な青年が乳飲み子を抱いてやさしそうな笑顔で迎えてくれた。「あとを継ぐことになりました」といって軽く頭をさげた。そばには、母親と嫁さんと無邪気にはしゃぐ3歳ぐらいの男の子がいた。

ネヲンは、すべを悟った。ネヲンを見ても洟も引っ掛けなかった親父が電話をしてきた理由が…。そして、もう一つ、あの大友社長が、凄腕の支配人ではなく息子のパートナーにネヲンを据えようとしたのが…。

かって、いかがわしい不動産屋の営業をしていたヤツが「貧乏人の友達はみんな貧乏だ」と言った。ただ者ではないヤツの友達はみんなただ者ではないということである。

親とすれば、かわいい息子が、ただ者ではないヤツにいいように扱われるのが忍びないのだろう。人畜無害なネヲンならそんなことはないと思ったのだろう。

このワキ汗の横綱のこと以来、かわいい後継者を持つワキ汗の旅行業者さんたちが次々にネヲンを贔屓にしてくれるようになった。ヘボな営業でも続けていればいいこともある。おかげでネヲンはワキ汗から解放されたしお客さんも増えた。営業は売るだけではない。買ってくれる人もいるのだ!

ただし、その逆もあることを忘れてはいけない。

ネヲンと付き合いの深い旅行業者の息子たちは、その成長に合わせてネヲンから距離を置くようになる。息子たちにしてみれば、ほかにいい総案が沢山あるのに、なんでこんなヘボと付き合っているのかと思うのだろう。

世紀末

平成10年(1998年)3月には、衝撃的な場面がテレビに映し出された。顔をくしゃくしゃにして鼻水を垂らし男泣きしながら「社員は悪くありませんから!」といい山一証券の野沢社長が自主廃業の発表をした。

そして、世紀末ムードが漂った1999年はなにごともなく無事に通過した。

タマちゃん

タマちゃん
タマちゃん

今も昔、平成14年(2002年)である。ネヲンが起業を決意してから20年が過ぎた。この年の夏、アゴヒゲアザラシのこどもが多摩川の丸子橋付近に突然現れ「タマちゃんフィーバー」をまきおこし、新語・流行語大賞の年間大賞に選出された。

柴崎さんの記念パーティー

ここは、かって織物、材木といった地場産業で栄えた埼玉県の南西部に位置する自然豊かな住環境と広大な森林に囲まれた飯能市である。また、戊辰戦争の地域戦の一つである飯能戦争の戦場となった。渋沢成一郎や尾高惇忠、そして、渋沢平九郎といった栄一の縁者が中心となって結成した振武軍などが、新政府方と戦いました。

能仁寺の紅葉
激戦地・天覧山能仁寺

平成15年(2003年)の晩秋、市街地の中心にある由緒ある老舗旅館で、「柴崎さん」が経営する旅行会社の創立25周年記念パーティーが催されていた。ネヲンと山内さんも招待されていた。柴崎さんは、ネヲンとはホテルオートモ以来の付き合いであり、同年代の山内さんとともに旅を話題に時々飲み会をもつ間柄であった。

普通の旅行業者のパーティーというと、招待される人たちは、その旅行業者の顧客が主体であったから式場での皆さんは、楽しそうにのびのびとしていた。でも、この柴崎さん会場には、いつもの旅行業者特有のパーティーの雰囲気にはない緊張感があった。

柴崎さんに尋ねると、出席者80人ぐらいのうち7割は、地元の商工業者、税理士、建築士、コンサルタントなどの若手経営者たちだと言った。

そして、これら若手経営者たちと共に、地域を盛り上げるために月一の会合をもち、それぞれの立場で将来を語り合うのだと力強く言った。その言葉にネヲン、温泉旅館や旅行業者はどちらかというと日陰の仕事だと思っていたが、世間並みの職業として扱われていることが嬉しくなった。

同時に、大友社長が「浮かれて万歳をするな」といったことを思い浮かべていた。

すると、隣席の山内さんが突然「オレもこんなパーティーをしたい」といった。それが、大友社長の言葉とかさなって、ネヲンは「馬鹿なことを言うんじゃないよ」ときつい言葉を返してしまった。

ネヲン、ハッとしたが山内さんは「じゃあ止す」と、あっさりと引き下がった。それを聞いてネヲンはホッとすると同時に肩の力が抜けるのを感じた。

花ちゃん - 登場

花ちゃん

花ちゃん

平成17年(2005年)、ネヲンの事務所に伊豆長岡温泉の旅館の営業マンで通称「花ちゃん」という、ネヲンの子供位の年頃の若者が顔を出すようになった。

身長180㎝、体重100㎏をともに超えた巨漢であったが、色白でやさしそうな顔をしていたので、近くにいても圧迫感がなかった。

本人曰く、体重も100kgを越えたら気にならなくなったそうだ。いつも、ペットボトルを片手に冬でもやワイシャツであった。

花ちゃんは来所すると間もなく、力づくでネヲンの事務所にパソコンを導入させた。

ネヲン、老眼と固くなった頭をたたきながら創業時のように頑張った。花ちゃんは、次に来た時に、前回の教えができないと「何をやってんですか」と本気で怒るからである。どこの親も子には弱い。

ホームページ制作イメージ

トーマス先生のご指導

そして、ネヲンは自力でホームページ(HP)が作れるようになった。ただし、HPが作れるようになったのは、花ちゃんではなく「トーマス先生」の並々ならぬご指導のおかげであった。

トーマス先生が凄いのは、ド素人のオレに、HPを作るのにホームページビルダーというソフトを使うのではなく、紙に鉛筆で書くように、無地のテキストファイルにHTMLとCSSを書き込むだけで出来上がる本格的な制作方法を教えてくれたことだ。

もっと凄いのは、ネヲンの「なぜ?」「どうして?」「なんで?」「分からない!」 といったメールの問いに、なんと3年以上もそのたびに適切で分かりやすい返事をくれたことです。

なお、知ったふりをして胸を張っているヤツは、3回も質問をすると「うるさい!」といって怒り出す。これって、本当に頭のいい人を見分ける極意です。

人間は普通、「なぜ?」という疑問を持つと、そのあとは自分で答えを探す努力をする。

ネヲンには、「なぜ?」と疑問を持ったあとの答えを自分で探すという発想が無い。そう、三歳児のようにすぐに周りの人に「どうして?」と教えを乞うタイプである。

花ちゃん - もう一つの顔

花ちゃん

花ちゃん

花ちゃんは、通称【FF11】というオンラインゲームの世界では【ヴァナ芸人Yukihide】として超有名人であった。が、ネヲンはゲームなんて、インベーダーゲームぐらいしか知らず、我が子たちが遊んでいたスーパーマリオさえも横目で見るぐらいであった。

その凄さの証明として、ゲーム【FF11】のアクセスカウンターを見せてくれた。表示された数字が、スロットのリールのように目の前で高速回転していた。スゲー!

そんな花ちゃんが、ある日、これからは画像の時代だと言った。

文庫本育ちのネヲンはそんな時代になるわけがないだろうと反発した。だって、画像を何枚も並べたって思いは伝わらない、文章があってこその意思の疎通だろうなどと、同行セールス中の車内ではいつも親子喧嘩みたいだった。

そして、これからはユーチューブの時代だから取り組めとも言った。YouTubeはお金になると言った。具体的にはワンクリックで広告料が0.1円になると言った。

ネヲンは頭のなかで、1000クリックで100円かと計算して、すぐに、ダメ、ダメだと花ちゃんの提案を拒否した。

拒否の理由は、以前花ちゃんが、ブログをやれと言ってヤプログを開設してくれた。これに答えて関東の88ヶ所のお寺さんをまわって「東国へんろ」としてアップした。3年ぐらいかけてアップし続けたが読者はわずかに20人足らずであったからだ。

3年も努力した東国へんろの結果を見れば、ユーチューブをやってもクリックしてくれる人はいないと思った。ユーチューブのことを理解できないネヲンの結論であった。

なお、先ほどの花ちゃんのオンラインゲームの世界では、広告的なものをアップするとすぐにボイコットされたそうです。時代が早すぎたのである。

小さな野望

花ちゃんが来所すると二人して、昼飯時をねらって、県境の神流川を超えて山内さんのところに営業に行った。これには、ネヲンの胸に秘めた小さな野望があったからだ。

山内さん訪問の目的は、ネヲンが、山内さんと花ちゃんとの三人でネット旅行会社の設立を目論んでいたからだ。そのために、山内さんと花ちゃんを近づけようと昼飯時をねらったのだ。

この夢は、はかなく消えた。山内さんがいっこうに興味を示さなかったからだ。

この結果の良し悪しの判定は難しい。大友社長の三つの教えの補足として「共同事業はするな」というのがあったからである。

イナバウアー

イナバウワー

平成18年(2006年)2月、山と丘に囲まれて自然豊かなイタリアのトリノで行われた冬季五輪トリノ大会のフィギュアスケート女子で「イナバウアー」を決めた荒川静香選手が、この大会での唯一のメダル、それも金メダルを獲得した。

またこの年には、ライブドアの堀江社長(当時)が逮捕され、株式市場全体が大暴落するという「ライブドア・ショック」を招いた。9月には自民党総裁選で安倍さんが当選し、戦後最年少の総理大臣に就任した。

株価が大暴落

舞い散る紙
舞い散る紙

平成20年(2009年)3月10日(火)の東京株式市場で日経平均株価は3日続落し、終値は前日比31円05銭安い7054円98 銭で取引を終えた。小幅安だったこの日の終値が株式市場の歴史に残ることになった。

かって、創立25周年記念パーティを催した「柴崎さん」が、最近、まちの旅行業者には不似合いなビジネスだとか商取引などという言葉を口にするようになった。

まちの旅行会社の営業は、顧客↔旅行業者↔旅館と濃密な人間関係で成り立っているのに、その人間関係を無視、排除するような言いようにネヲンはチョット違和感を覚えた。

自己破産

柴崎さんが、不動産投資の失敗でお店をたたむことになった。

倒産の影響は、ごくわずかであるがネヲンにも及んだ。あの時、柴崎さんが口にした言葉のおくには、我々の取引は相互信頼関係のものではなく、機械的、すなわちドライなビジネス的な取引であると自分に言い聞かせることで、少しでも気持ちを楽にしたかったのだろう。

柴崎さんは、山内さんと同じくネヲンの熱川温泉時代からの長い付き合いだった。城ヶ崎海岸の絶景スポット「門脇つり橋」でスリルを楽しみ「門脇埼灯台」の展望台からの360度パノラマビューが大のお気に入りで、よく団体さんを連れて来館していた。

柴崎さんの倒産の原因は、創立記念パーティーのあと、旅行業は「ヤクザな商売」と言われていたが、自他ともに世間なみの会社になったと思い込み、地元商工会の活動にのめり込んでしまったことだ。大友社長が言う「浮かれて万歳をするな」である。一人会社の社長には多くの時間的な余裕はない。できることは、商店街の年末大売出しセールのお手伝い程度である。

そして、この倒産の引き金は、これまた大友社長が言う「金を残そうと思うな」である。商工会仲間の税理士の話を信用しすぎて、不動産投資に手を染めてしまったことだ。

不動産投資の話を小耳に挟んだネヲンは大友社長の話をしたが、柴崎さんは、カネの専門家が言うのだから間違いないと聞き入れてくれなかった。残念!

税理士はお金の専門家?

お金の専門家?
お金の専門家?

景気がよかった時代、月末の、まちの旅行業者の銀行預金の通帳には多額の残高があった。そんな毎月末の膨大な預金残高を目にした税理士が、悪意があったかどうかは不明であるが、また、旅行業者の手取りが、預り金の15%であることを知ってか知らずか、物知り顔で柴崎さんに不動産投資をすすめたのである。

宿泊クーポン券

私製の旅行クーポン券

しかし、この膨大な預金残高は、全額が柴崎さんの儲けではない。実態は、お客さんからの宿泊料の預り金である。いわば、まぼろしの預金残高である。

まちの旅行業者たちの多額の銀行預金残高は、すべて、中小の観光業界にはびこった摩訶不思議なクーポン券制度にあった。JTBなどの大手旅行会社の換金自由なクーポン券をまねた、個人の旅行業者が発行する私製のクーポン券である。

この私製のクーポン券は、宿泊料の前払い金であったから、不泊防止には効果があったが、大きな落とし穴もあった。それは、この私製のクーポン券には法的な根拠がなく、支払いが保証されていないただの紙切れであり、かつ、この私製のクーポン券の清算は発券者の裁量に任されていたので、預り金は一定期間、発券者のもとにとどめ置かれた。

もし、この私製のクーポン券が換金自由な金券であったなら、柴崎さんは、もっと手元の預金残高に気を配ったことだろう。そして、ここに柴崎さんの油断があった。

村田簿記学校

神田神保町の風景
かって村田簿記学校があった神田神保町

実はネヲン、学生時代に税理士をめざし神田神保町の村田簿記学校の夜間部に入学した。が、入学初日の担当教師の話を聞いて一日で退学した。平成21年(2009年)に閉校。

先生曰く、親指と人差し指をまるめながら税理士をめざす奴は、尻の穴が小さくなければ駄目だといった。借方・貸方の合計が1円でも合わないと夜も寝られない仕事だから、1円、2円ぐらいでグズグズ言うなという性格のヤツはダメだと。さらに、尻の穴が小さいヤツには博才もないとも言った。

それを聞いてネヲン、尻の穴の大小ではなく、オレは性格がいい加減だからこれはダメだと思ってやめた。なお、尻の穴が小さいヤツには博才がないというのは、丁か半(上がるか下がる)かの株の見分けはつかないという意味だ。

会計事務所

会計事務所にて

そんなネヲンだったが、旅館は、ほぼすべてが現金決済であったから、ネヲンでも経理係としてボロを出さずに務まった。そして、年度末には、大友社長と決算のことで、下田の会計事務所へ同行した。

会計事務社は、絶景と縁結びの寝姿山自然公園にかかる下田ロープウエイの新下田駅のすぐ近くにあった。当時の下田には、江戸時代、東西を往復する船の風待ち・避難の寄港地としての繁栄が、情緒漂うレトロなまちとして色濃く残っていた。

そこでの大友社長と元税務署所長だった所長との会話を、こんなことが許されるのだろうかという思いで目を丸くして聞いていた。

大友社長
「今期は利益が出すぎたから30%ぐらい圧縮しろ」といった。

元税務署所長の所長
「そんなことは無理ですよ、社長さん」と抵抗したが、

大友社長
「税務の後始末をするのがあなたの仕事だろう、黙ってやれ」と突っぱねた。

元税務署所長の所長
「こまったな~」と、言いながらしぶしぶ承知した。

ネヲン、社長も所長もすごい人だと思った。そして、この話のシリはネヲンにまわってきた。所長の指示で、在庫調整などの書類の書き換えを余儀なくされた。辻褄を合わすることは結構大変なことだった。

税理士はお金の専門家ではない。税務の後始末屋である。税理士にすすめられて東京のマンションを買って大損をしたという旅館の社長もいるが、経営は自己責任である。

いい税理士もいる。ネヲンの同窓会の参加者も60歳を過ぎると、元気になったおばさんがたくさんいた。同窓の税理士君を取り囲んで儲かる株を教えろと迫った。税理士君、オレはそんな柄じゃないと逃げ回っていた。えらいぞ税理士君! 税理士は税金のスペシャリストなのだ。

東日本大震災

水難者供養碑
菖蒲田浜の水難者供養碑

平成23年(2011年)3月11日14時46分頃に東日本大震災が発生した。まちの旅行業者や温泉旅館、総案の息の根をとめる、第一波でもあった。

東京スカイツリーが開業

今も昔、平成24年(2012年)である。5月22日には、既存の電波塔・東京タワーにかわる世界一高い新タワー・東京スカイツリーが開業した。これは観光業界にとっては大きな観光資源となったが、業界全体にその効果が波及するほどには至らなかった。

第3章

山内さんが踊りはじめた

そして、平成25年(2013年)6月に、山内さんがあっけらかんとネヲンに「全国旅行業協会の群馬県支部長になったよ」といった。ネヲンは「エッ!?」という驚きと、大友社長の「浮かれて万歳をするな」が、柴崎さん以来また脳裏をよぎった。

阿波踊り
阿波踊り

旅行業界に団体旅行時代の終わりの風が赤城下ろしのように厳しく吹きはじめると、まちの旅行業者たちはほぼ壊滅状態になった。娯楽型の団体旅行をひかえるという風潮がおこると世間の人たちは我も我もとその流れを加速させたからだ。

先見の明があった山内さんは、いち早く個人参加型ツアーにシフトしていたので世間の風に負けず元気だった。その元気にあやかろうとする仲間たちの要請より支部長になったという。

ネヲンは、山内さんのことだから当然一期でやめるだろうと高を括っていたら、疲弊している仲間たちの力になるんだと張り切って、二期、三期と続けた。

そして、山内さんは群馬県支部長として「白バス」(道路運送法違反)の摘発と「無登録業者」(旅行業法違反)の撲滅運動にまじめに取り組んだ。部外者のネヲンには、旅行業者対白バス・無登録業者の対立が、北越戊辰戦争の濃縮版のように見えた。

白バスだとか無登録業者の不正行為というは、白バスの乗ったら屋根に穴があいていて雨漏りがしたとか、無登録業者に手配してもらって旅館に行ったら部屋が無かったというものではない。無理を承知でいえば旅行業界全体の信用低下を著しく招くものではない。

白バスを摘発したり、無登録業者を追放したからといって協会員にどれ程のメリットがあるのかは疑問である。だが、日本は法治国家だから悪いことは絶対にイカンのだ。だったら法に触れることはお巡りさんに任せておけばいいじゃないかとネヲンは思った。

白バスや無登録業者の取り締まりよりも、旅館やドライブイン、総案を泣かす支払いの悪い不良旅行業者の取り締まりをしてもらいたいとネヲンは思った。

さらにさらに

不正行為撲滅運動で成果をあげ、旅行業界の仕事にやりがいを見つけた山内さんは、近ごろとんでもないことを言いだした。協会からの日当や役員報酬がいつもポケットにあって、小遣いには困らないと真面目な顔でいった。上機嫌であった。

ネヲンは、あ~あ! はした金で本業の仕事時間の半分のを売り渡してしまったと思った。

幸いだったことは、会社の規模が社員まかせで支部長職に専念できるほど大きくなかったことだ。ツアーの企画は山内さんにしかできなかったし、あとは経理の奥さんと添乗メイン女性社員との三人だけだったから、会社のことを顧みずにというわけにはいかなかった。

山内さんが支部長職のとどまるのは、魅力あるツアーさえ提供し続ければゴロゴロツアーは安泰であると考えているからだ。たぐいまれなる才能も善し悪しである。能力は少し劣る方がいい。販売努力や次の時代を予測することに時間を使うからだ。もし山内さんが、ここで本業に専念していたら、どんなにすばらしい答えを出していただろうか?

ロシア、クリミア半島を掌握

ウクライナ国旗と白い鳩
ウクライナに平和を

平成26年(2014年)2月には、クリミア半島にロシアが軍事介入しウクライナ危機がおこり冷戦後の国際秩序が大きく揺らいだ。

うれしい便り

頑張るぞ

頑張るぞ!

平成26年(2014年)秋、自己破産した柴崎さんが、気持ちの整理をつけて復権に向けて動き始めていた。地域の皆さんとの信用回復を一番に努めているという。

とは言っても、一度失った信用を回復することは並大抵ではない。5年、10年と辛抱強く地道に働く覚悟だと言ってきた。ガンバレ!

この便りを聞いて、家内(予約係)が一番喜んだ。起業したばかりの時代の先生であったからだ。

ネヲンが総案を起業した時代の通信機器といえば黒電話とポケベルであった。起業後、半年もすると事務所の新米の予約係(家内)からのポケベルが頻繁に鳴るようになった。ネヲン、ポケベルが鳴るのは仕事が増えた証と喜んだが、大きな問題も生じた。そのたびに車を止めて電話ボックスに飛び込まなくてはならないからだ。

こんな状況をヤバいと感じたネヲンは荒技を使った。ポケベルのスイッチを切ったのである。家内はさぞかし「この、クソオヤジ」と思ったことだろう。

しかし、子を持つ母親(予約係)は強い。なんと、本人自身は面識もない柴崎さんに電話を入れて、いろいろと教えを乞うたのである。実務はその場でないと解決できない。

柴崎さんは、親族が営む小料理屋さんで、夜の飲みニケーションを主体に顧客を獲得していたので、昼間はいつも電話に出てくれたという。おおいに助かったと感謝していた。

ネヲン、総案を廃業

平成27年(2015年)、ネヲンの事務所では電話が日に数回しか鳴らなくなった。開業時は電話が鳴るのを熱き心で待ち続けられたが、今では、ただただじっと電話が鳴るのを待ついうことが拷問にも等しくなっていた。

「携帯があるじゃない」という声が聞こえそうだが、速い、正確、丁寧な回答がモットーの総案業務では「後ほどお電話します」というは通用しないから辛いのである。

そして、真夏の強い日差しが照りつけるある日、電話謙経理担当の家内が「もう仕事をやめたら」といった。

創業時の貧乏に耐え抜いた家内の言葉に、老後の年金生活にも目処(目途)が立っていそうだし、ネヲンの後期高齢者入りもまじかだったので、あっさりと廃業を決めた。

閂(かんぬき)
閂(かんぬき)

そして、もう一つ廃業への理由がった。まちの旅行業者が発券する私製の宿泊クーポン券の件である。総案の業務は、この宿泊クーポン券が無事に清算されるまでなので、もし、クーポン券相当分の宿泊料が回収できないとその責任を負わされるからであった。

たとえば、バス1台のお客さん、宿泊者45人 x 宿泊料10,000円とすると、450,000円の負担金が発生する可能性がある。

この金額、少しオーバーだが個人経営者には死活問題である。アンテナを高くして営業していても、不良債権は突然発生する。なので、清算までの2~3ヵ月は、毎日がハラハラドキドキである。景気が悪いとその発生率が高くなる。そんな日々からも解放されたかった。

こんな肝っ玉の小さいネヲンに、思いがけないことを言うヤツが現れた。「観光業界はいいですね、未収金が小さいので安心して営業ができる」と、大企業から天下ってきたある旅館の営業マンであった。

ネヲン、廃業にあたって思い起こしたことがある。ホテルオ-トモ退職時に大友社長がいった「総案は虚業だぞ、どうせなら、旅行業者になれ」との忠告を受けたが、自分は旅行業者になれるほどタフではないので社長のアドバイスは聞き流した。

やはり社長の言葉通り虚業の総案は弱かった。観光業界や旅行業界での終末を告げる風が一番初めに吹きつけた。ネヲンは社長のアドバイスを無視したことを悔いているのではない。廃業にあたり自分の実力相応に鶏の頭として精一杯生きてきたことに誇りに思っていた。

花ちゃん - 3

平成27年(2015年)の秋、花ちゃんが結婚して東京都下に転居した。花ちゃんは身体がでかく重そうであったが、思考力は柔軟であった。奥さんの生活スタイルを優先して、伊豆長岡温泉の旅館を退職して現住所に移った。本人は、近くの小さな観光バス会社に就職した。

バス会社に就職
バス会社に就職

花ちゃんの担当は旅行部門のチーフであった。新しい仕事の話を聞たネヲンは、なんでいまさらそんな厳し仕事をと、ジイさん特有のつまらぬ心配をした。

ネット販促

さて、これまで「団体旅行」といえば、旅行業者が会社などを訪問し旅の勧誘するところからじまると、ネヲンをはじめ、旅行業界や観光業界の人たち、お客さん自身でさえそのように思っている。さらに、この流れ以外にはありえないと皆が思い込んでいた。

ある日、廃業して暇になったネヲンは、花ちゃんの仕事場を訪ねた。そこには、まっ昼間だというのに営業にも出ず、パソコンをいじってる花ちゃんがいた。

ネヲン、いらぬ心配をし、まわりをそっと見まわし小声で、「営業にでないのか?」と問うと、パソコンを指さし「これが営業です」と、花ちゃんは即座に答えた。

ネヲンには「これが営業です」という花ちゃんの言葉が、即座には理解できなかった。

花ちゃんの説明によると、今日までの旅行業界に『お客さん→旅行業者→旅館』という流れがあったように、ネットの世界にも『お客さん→ネット旅行業者→旅館』という新しい流れがあるという。

花ちゃんが、指さすパソコンの画面には、IT業界を中心とする大小の団体さんがウジャウジャと表示されていた。ネヲンは、職場旅行なんて過去のものと思っていたが、歴史の浅いIT業界では、社内の融和を目的とした職場旅行が依然として功を奏するのだろう。

花ちゃん

花ちゃん

花ちゃんが言った。「国内旅行 無料一括見積りサイトというキャッチフレーズの『団体旅行ナビ』というホームページがある」と。

団体旅行や社員旅行の幹事さんが、このサイトで見積もりを依頼すれば、すぐに、複数の旅行会社から最適な旅行プランが提案してもらえるそうだ。

しかも無料なので幹事さんは大助かりだ。そして、僕は今そのページを見ているのだと花ちゃんが言った。

花ちゃんの説明によれば、団体旅行や社員旅行の幹事さんが「団体旅行ナビ」の見積りフォームで依頼した情報は、「団体旅行ナビ」と契約を結んだ旅行業者(有料会員)にのみ情報が公開されるのだそうだ。

花ちゃんは続けて、「団体旅行ナビ」からお客さんを獲得するには、まず、「団体旅行ナビ」のお客さん情報一閲のなかから任意のお客さんを選び、見積書を提出することからはじまるのだが、そのためには、入札権みたいな意味で、見積書の軒数に応じ、そのつど別途料金を「団体旅行ナビ」に支払うので、手あたり次第の応募とはいかないと言った。

さらに、「団体旅行ナビ」に登録している旅行業者は、JTBをはじめとしてピンからキリまでの旅行業者が名を連ねているので、見積もりの提出先を選ぶのには神経を使うとも言った。まあ、ここが僕の腕の見せ所でもあると添えて…。どこでも競争は厳しい。

世の中って、常識を打ち破ったこんな人たちが勝者になる。

花ちゃんは、入社初年度300万円、2年目が500万円、そして、3年目には800万円もの利益を上げて会社に貢献した。

ここで特筆すべきことは、慰安型の団体旅行が減少したおかげで、お客さんを確保しさえすれば土曜、日曜に関係なく宿泊先の旅館が確保できたことである。

さらに、さらに「芸は身を助く」というのがある。IT業界には、花里さんがオンラインゲームの【FF11】で活躍した有名人の【ヴァナ芸人Yukihide】というのを知っている人たちが大勢いた。そして、その人たちが、旅行幹事の適齢期になっていた。

絶やすな! 高崎 絶メシグルメ

山内さんの地元・高崎市では、平成29年(2017年)から、ここ高崎でしか食べられない、地元で愛されてきた老舗の味や、個性溢れる店主の魅力を、後継者不足などから絶やすには惜しすぎるとして数々の絶品グルメを未来へと残すため「絶メシ」グルメとして市をあげて一大キャンペーンをはり、その魅力を全国へ伝えています。

高崎市街
高崎市街

新時代の予感!

平成30年(2018年)は、平昌五輪でフィギュア男子の羽生結弦が連覇し、大谷翔平がメジャー新人王に輝いた。確実に新しい時代が到来していた。

そして、平成から令和に

平成天皇が生前退位し、新天皇が即位され、2019年5月1日から、年号(元号)が「令和」に改元された。ちなみに、昭和、平成、令和といった年代を表あらわす「年号」を使っているのは、世界中で、日本だけだそうです。

令和元号の発表
令和元号の発表

令和2年(2020年)、山内さんをはじめ世間の人々が心新たに令和時代の初めての正月むかえたが、1月15日に日本で初めての新型コロナウイルス感染症の感染者が確認された。しかし、この時、人々はまだその恐ろしさに気が付いていなかった。

開店休業
開店休業

令和5年(2023年)5月8日から5類感染症へと移行するまで、日本中のすべてのことが停滞した。すべての人々が、屋外では、マスク着用していた。マスクといえば、日本中に配布されたガーゼ製布マスク・アベノマスクが懐かしい。

山内さん、再挑戦!

令和5年(2023年)6月、山内さんは、全国旅行業協会 群馬県支部長職を辞し、ゴロゴロツアーの再構築を決意した。

日はまたのぼる
陽はまた昇る

山内さん、よくよく考えたら、近所のヘッポコ業者もゴロゴロツアーの真似ごとをして、そこそこお客さんを集めていたことに気が付いた。

ということは、ゴロゴロツアーのような企画募集型の旅行が時代にマッチしていたのだと悟った。すなわち、お客さんが集まったのは、戦後の多くの苦難を乗り越えた人たちが手ごろな娯楽として、バスツアーに参加したのだと。

そこで山内さん、ゴロゴロツアーの人気は、旅に対する己の見識の高さと集客に対する努力の結果だ、という自惚れを捨てた。

そしてゴロゴロツアー衰退は、時代の変化、すなわち、戦後の苦難を乗り越えた人たちの高齢化によるものだから、解決方法は、新しい時代の流れを見つけ出し、それをつかみ取るしか無いという答えを出した。

絶やすな! ゴロゴロツアー

絶やすな!
絶やすな!

山内さんは、先を見据えようと必死に考えた。しかし、いくら考えても答えは出ない。当然である。新しいことって、人知を越えたところにある。

新しい考えを生み出すには「閃き」が必要である。「閃き」とは、熱き心で仕事に没頭する人の熱量が天の神様に届き、それに神様が報いて投げ返してくれるものである。

山内さんは、仕事を投げ出して遊んでいたわけではないが、全旅協の群馬県支部長として、その職に熱を入れすぎ本業がおろそかになって熱量が下がっていたので「閃き」が降りてこないのだ。苦戦を強いられる原因がここにあった。

しかし、山内さんには、物事の良い面にフォーカスする能力がある。

ゴロゴロツアーは不振であるが、全体的に見れば旅行需要は依然として旺盛であり旅行環境はすこぶるいい。だから、ツアー復活の希望はおおいにある。

そして、山内さんのゴロゴロツアーを応援する潜在的なファンは、いまだに数百人もいる。だから、そこを掘り起こし枝葉を延ばせば、ツアー客を増やせる。

また、一から始めよう。ファイト! 春よ来い、花よ咲け!

さて、ゴロゴロツアーは、大型の観光バスにお客さんをいっぱい乗せて走らせることで成り立っている。業績不振の原因は「ゴロゴロツアー = 大型観光バス」という方程式が成り立たなくなったからだ。

満席の大型観光バスの社内
満席の大型観光バスの社内

ならば、観光バスを小型化して、少人数のお客さんにきめ細やかに対応すれば勝機があるということだ。

北口 榛花 選手が優勝

やり投げのイラスト

第33回夏季五輪パリ大会

陸上女子やり投げで北口 榛花 選手が優勝。日本女子がマラソン以外の陸上種目で金メダルを初めて取りました。 あっぱれ!

令和6年(2024年)第33回夏季五輪パリ大会が7月26日に開幕し、8月11日まで17日間にわたって熱戦が繰り広げられた。海外で開催の五輪のメダル総数が過去最多!

山内さんは、北口選手の活躍を見てて思った。絶対という不可能はないと…。

天才的な営業力を持つ人

ネヲン、過去に総案の所長として30年、百数十人の旅館の営業マンと接してきた。だが、天才的な営業力を持った人は、ネヲンの上司・ホテルオートモの支配人、信州蓼科の秘境旅館の支配人、福島・飯坂温泉の旅館の営業部長のわずか三人のみであった。

この有能な三人に共通していることは、営業の基本中の基本、フェース トゥ フェース、すなわち、顔を付き合わせての対話能力が抜群であることだ。

たとえば、飯坂温泉の営業部長は、うどんが大好きでお昼はいつもうどん屋に入った。気に入ったうどん屋さんでは、ここの女将に一回でワシの顔を覚えさせるからといって、帰りがけのレジ前で、お金を払いながら二言三言話をしている。

そして、2~3ヵ月後、かの営業部長は、かのうどん屋さんで、かの女将と目が合うと右手をかるく上げ「よう!」と挨拶をする。すると女将は、とっさに指差しながら「福島のお兄さん!」と答える。ネヲン、なんだこれは? である。

凡人のネヲン、この情景を見て考えた。オレだって10回も挑戦すれば、ここの女将と懇意になれると…。

山内さんも営業の天才

この年の暮、ネヲンのところに信州土産を沢山持って、山内さんがやってきた。山内さんも、旅行業者として天才的な営業力を持っている。

「その後、どう?」と、ネヲンが話しかける。もちろん仕事の話しである。

「チラシのポスティングを始めた」と、山内さんはいとも簡単に言った。

えっ! ポスティングが天才のする仕事? なんて思った人は、営業センスがない人たちである。

それは、ポスティングって、人目を避けて、チラシなどをコソコソと投函する暗い仕事だと思っている人たちで、尚且つ、ポストを開けて不要なチラシなどが入っていると、こんなゴミを入れていきやがって、などとムッとする人たちだからだ。

ゴロゴロツアーのお客さんは、近郷近在の広い範囲に点在している。こんな環境の中での営業といえば、ポステングが究極のフェース トゥ フェースである。

すなわち、山内さんのポスティングは、あえて、家人の目に触れるようにふるまう。そして、顔を合わせれば二言三言…。これで、ゴミを入れるイヤな奴から、わざわざツアーのチラシを届けに来てくれたいい人になる。

凡人は、天才を超えることはできない。だが、努力する凡人は、並の天才の領域に迫ることはできる。なぜなら、並の天才はいつも100点の答え出しているので、120点を目指そうとはしない。しかし、いつも70点しか取れない努力する凡人は、どうしたら、あと30点取れるのかと考えるからである。

気持ちも新た

令和7年(2025年)の年が明けた。ゴロゴロツアーの看板ともいえる、初詣バスツアーが今年は、中型観光バスを満席にして、新制・ゴロゴロツアーとして無事に催行された。

ツアー先は、ゴロゴロツアーの再出発にあやかり、旅の原点ともいえる伊勢神宮参りにした。

ノートパソコン

ノートパソコン

かって山内さんは、ノートパソコンを手にしたが、一本足のカカシみたいに不安定なタッチパッドになじめず、デスクトップパソコンを使い続けていた。

ゴロゴロツアーの再出発にあたり、ノートパソコンに切り替えた。難問のタッチパッドも2本指での操作も加わって、こんどは思ったよりも簡単になじめた。

今、65~75歳くらいの前期高齢者を指すアクティブシニア層の人たちが元気だという。この人たちは「特定の趣味などに、積極的にお金や時間を費やしていきたいと考えているシニア」だという。

たまには一人旅をしたいという、この人たちをターゲットにした、クラブツーリズムやトラピックスの企画商品は、参加者全員が「おひとり様」という新しいスタイルのツアーで、これが大人気で、参加者を大幅に増やしているという。

山内さん、この新しい顧客の獲得方法を考えた!

もしかしたら、ホームページの出番かな? とも考え、真新しいノートパソコンで徹底的にググってみた。パソコンは、動きも早く快適であった。

「ホームページとは、なんなのか?」

「ホームページとは、作る意味があるのか?」

「ホームページとは、どんなことができるものなのか?」などなどと…。

春よ来い、花よ咲け!

しかし、天才型の山内さんにはどうしても答えが出ない。ホームページに対する疑問は、獲物は、こん棒で直接打っ叩け(ぶったたけ)ば、一発で仕留められるのに、なんで、わざわざ弓矢なんか作って、遠くのほうから矢を放つのか? という疑問と同じだからである。

春は来る、花は咲く!

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