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夕焼け空と鳥

春よ来い、花よ咲け!

この物語は、伊豆熱川温泉で番頭をしていた旅館の大友社長から薫陶を受けて成長した湯ノ街ネヲンと、その時代をとおして知り合った観光業界の仲間たちとの物語である。

第一章 今は昔

ここは伊豆熱川温泉

相模灘に浮かぶ伊豆大島
伊豆大島

今は昔、昭和57年(1982年)である。ここは伊豆熱川の海岸沿いにある温泉旅館「ホテルオ-トモ」である。ある日、まもなく40歳になる「湯ノ街ネヲン」は、温泉旅館と旅行業者を結ぶ「ホテル旅館総合案内所」(以下、総案)を起業したいと「大友社長」に退職のお願いをした。

総案とは

「総案」とは、人材が乏しく未成熟な温泉旅館と規模が小さく情報量の乏しいまちの旅行会社との間に咲いた徒花である。

総案の表立っての仕事は、旅館の営業さんに代わって、旅行会社からの集客力を高めるための活動ですが、実質的には観光客がその旅行をスムーズにとりおこなえるように旅行会社と旅館の間の事務的(予約・変更・取り消しなど)な流れを円滑に執り行うことです。

その成り立ちは、昭和40年代に入ると温泉旅館はより大型化の方向にむけて突き進んだ。その結果、地元のお客さんだけでは成り立たなくなり、東京なのどの大都会に集客目的の営業所を設けるようになった。

資金力の乏しい若い旅館経営者は知恵を出す。各温泉地から競合しない仲間を募って協同組合形式の営業所を開設したのだ。これが総案の始まりです。

そこからもっと知恵を出したヤツがいた。営業所で力を蓄えた所長が、なんと今度は自らが社長となって会員制で旅館を集めて案内所(営業所)を開設したのである。これが、総案(ホテル旅館総合案内所)のはじまりである。総合とは旅館、観光施設、ドライブインなどの総称です。

この総案という職業が花開いたのは、自分の意思だけでは旅行ができずに旅行会社を頼った団体客と自分の力だけでは充分な集客ができなかった旅館がたくさんあったからだ。

退職のお願い

ホテルオ-トモは、大友社長の強いオーナーシップによる経営体制が整っており人間関係がとても濃密であったから、ビジネス的に退職しますなどと簡単に言える雰囲気ではなかった。この会社で辞めるとは、親子の縁を切るぐらいの覚悟が必要であった。

実はネヲン、夢と希望に燃えて「総案」の起業を志したわけではない。

退職の一番の理由は、温泉旅館での仕事に飽きが来ていたからだ。

ネヲン、男ばかりの自衛隊の除隊をひかえふらりと立ち寄った下田の職安のすすめでこの旅館に就職した。何も知らずに飛び込んだ水商売の世界、そこは若い娘たちがたくさん働くとても新鮮な世界であった。すべてが手作業・手仕事というあたたかな職場でもあった。

家業から企業へとの成長過程にあった温泉旅館には、面白い仕事がたくさんあった。新しいもの好きなネヲンは、あらゆる分野に顔を出し日々楽しく仕事をした。そんなネヲンに人使いの上手な社長も、目の前にニンジンをぶら下げて食いつかせいろいろな仕事をさせた。

楽しさはそれだけではなかった。実利的な裏付けもあった。入社時の年収18万円(月給15,000円)が、15年後にはなんと500万円を超えるまでになった。これは、ネヲンの頑張りもあったが、社長が世間並みの大卒の給料体系を加味してくれたからだ。

半年ごとの大幅な昇給は、ネヲンの頭から貯蓄という考えをマヒさせた。入ってきお金は次の月末までにはすべて消えていた。あのお金はどこへ飛んで行ったんだろう。

しかし、ここは小さな温泉旅館である。やがて、ネヲンにとって新鮮さを感じる仕事がなくなり同じことの繰り返しの日々になってしまった。

まだ若かったネヲン、そんなマンネリ生活がイヤでイヤでたまらなくなった。目の前の伊豆大島がだらしなく寝そべっているヤツにみえたり、繰り返す波の音は進歩のないヤツの声に聞こえたりする日々になってしまったのだ。

世代交代

桜の花と若葉
桜の花と若葉

もう一つ、ネヲンには退職を考える事由があった。

ホテルオ-トモは、三代目へと代替りの時期にさしかかっていた。歴史好きのネヲン、現城主が退くときはのちのち新・旧の間でゴタゴタが起きないように、その家臣も城主とともに退くべきだという説をよしとしていたので、それを退職へのこじつけたのた。

さらに、さらに、もう一つ大きな理由があった。

この旅館には女将制度がなかった。それに代わるものとして、大友社長は各女中さんが小さな女将さんになれるようにとの教育に力をそそいでいた。

そして、館内外の運営は社長と支配人のキャッチボール形式でおこなっていた。この運営形態を大友社長は、三代目とネヲンに置き換えようとしていた。

この策にネヲンが拒絶反応を示したのだ。それは、ネヲンが自分の性格が華やかな旅館の表舞台で活躍するタイプではなく内向的であることを知っていたからだ。

さらに、それを強烈に自覚させる人物がすぐ近くにいた。ピカピカに光り輝く支配人である。この人の代役などは絶対に務まらないと思った。ならば、逃げ出すしかないのである。

光り輝く支配人

現在のJRがまだ国鉄といわれた時代は、観光地への足として各地区の観光業界に大きな影響力を持っていた。伊豆地区は熱海駅を窓口として東京南鉄道管理局の管理下にあった。

ある年、伊豆の旅館では中レベルの当館に支配人が東京南鉄道管理局の重要な会議を誘致してきた。これだけでもすごい話である。

当日、伊豆熱川駅から送迎用のバスで国鉄のお偉いさんが到着した。支配人は「いらっしゃいませ」の挨拶と共に明るく元気に出迎えた。ネヲン、次のシーンは、胸を張って下車する東大出のお役人とペコペコと頭をさげる支配人の姿を想像しながら冷ややかに見ていた。

なんと、次の場面は初対面だというのに十年来の知己の再会を喜び合うような姿であった。そして、客室へ案内する女中さんが待つエレベーターの前に立つまでには、お互いに肩をたたきあわんばかりの情景であった。

いわゆる「持ってる人」は、同類を瞬時に嗅ぎ分けるのだ。

ネヲン、カウンターの前でただニコニコとしながら立っている社長と支配人を交互に見比べた。同時に、あんなヤツを使いこなしている社長はスゲェーと思った。

しかし、この時期のネヲンには、この支配人に対し勤務形態のことで不満があった。

この支配人の朝の出勤はお客さんの会計がほぼ終わった午前9時である。昼間は3時間の中抜けをして、夜は板前さんたちと調理場での夕食を済ませ19時には帰宅していた。

ネヲンはといえば、月曜日の朝一番電車に乗って東京に行き営業を始め金曜日の夜に現地に戻った。机の上には経理の仕事が山積みであった。なお、当夜か翌日のどちらかは宿直で、土日には通常業務にあいだに経理の仕事をすませてまた月曜からは出張であった。

休日は営業効率の悪い週の中ほどに赤い日があるときに消化した。

オレだって経営の一翼を担っているんだぞという自負を持つネヲンは、ある日、支配人とのこの差は何なのだと腹にたまった不平不満を思いきり社長にぶちまけた。

社長の目には、猿山のサルがボスの座をめぐって小競り合いをしているかのように見えたのだろう、そんなに支配人のことが気に入らなければオレの前で二人で対決しろと言った。

対決なんていう大げさな言葉にネヲンは少し慌てた。ネヲンの不満は勤務時間のことだけなのにエスカレートして社長が「それならオマエが会社を辞めろ」と言い出さないか不安になった。社長は支配人を手放さないことが見え見えだったからだ。

このときネヲンの脳裏に、かって社長が「机にむかって経理の仕事ばかりでは飽きるだろう」と巧みにネヲンを営業に誘い出した時の言葉が亡霊のようによみがえった。

その時社長は、月曜から金曜日まで営業という名目でオマエを出張に出すが3日は遊んでいていいけど、ほかの社員のてまえ2日だけは営業のまねごとをしてねと言った。

それ以来社長は前言を翻すような、頑張っているかとか一生懸命やっているかとの類のことをネヲンのまえではひとことも言わなかった。

社長が支配人との対決の場で「えっ、オマエは東京で三日間遊んでいたのではないのか」といえばこのひとことで勝負あり。ネヲンの完敗である。げに恐ろしき社長であった。

ギンギンギラギラ

夕日と棒人間
夕日が沈む

さて、今夜はホテルオートモの社員(70数人)忘年会である。例年は、社長の挨拶とおはこの「まっくろけ節」で始まり、あとは社員たちに引き継がれるのだが、今年は支配人が余興を披露することになった。仮設の小さな舞台に立った支配人に拍手喝采であった。

支配人は舞台の上で、お相撲さんのような蹲踞(そんきょ)の姿勢から両手を左右に広げて「ちり」を切り、その手をゆっくりと真上に挙げで両の手のひらをいっぱいに開いた。ネヲンをはじめ全員が興味津々で身を乗り出した。

支配人、腰を落としつつ両手の平をひらひらさせながら大きな夕日が沈みゆく所作をしつつ、一語一語ゆっくりと「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む」と歌いだした。

全員が息を止め見まもったので会場からは人が消えたかのようになった。ネヲンも目ん玉とノドチンコが飛び出すかと思った。そして、支配人がかってオレは一晩酒を酌み交わせば誰でも落として見せるといった言葉が真実味をおびた。

さらにネヲンが、些細なことでお客さんに怒られたことをぼやいていたら、支配人は、オレならお客さんにスリッパで横っ面をひっぱたかれても我慢出来るぞとも言ったことも思い出し、支配人はお化けだ、人間ではないと思った。

退職が決まった

社長はネヲンを次の世代の重要な駒だと考えていたのであの手この手で引き留め策を講じたが、ネヲンの逃げ出したい気持ちの方が勝って退職が正式に許可された。

ネヲンの退職が決まると社長は今までとは違うことを言った。

これまでは、事あるごとに「寄らば大樹の陰」であったが、独立まじかのネヲンに「鶏口牛後」だと言った。男と生まれたからには、大会社の歯車になって末端で働くよりも、小さな会社でも方針を決定するような立場に立ち、一国一城の城主を目指さなければウソ(正しくない)だと言った。

ではなぜ、みんなが一国一城の主を目指さないかというと、起業してそれを軌道にのせるまでには膨大なエネルギーがいる。多くの人たちはそのエネルギーがないからだと続けた。

三つの戒め

三本の指
三本の指

大友社長は、40歳で独立を目指すネヲンに「お前にはもう年齢的に後が無いのだか失敗は許されないぞ」といって三つの戒めをあげた。普通は、退職する者の将来などは、後は野となれ山となれであるが、先の先まで心配してくれるのがこの社長のいいところであった。

 1,闇金に手を出すな

 2,浮かれて万歳をするな

 3,金を残そうと思うな、の三つである。

それを聞いてネヲン、社長に1番目は分かりますが、2番目と、3番目の意味が分からないと答えた。社員時代の先生(社長)と生徒(ネヲン)の会話に戻っていた。

社長が諭すように言った。

「万歳をするな」というのは、人間は少し成功するとすぐに歓びはしゃぐ。なかには浮かれて踊り出す馬鹿もいる。みてみろ、ここ熱川温泉でも大店のおやじ(社長)が町長や県会議員になっただろう。結果はどうだ。社員に金をごまかされたり火事を出したりして二軒とも傾いちゃっただろう。

経営者というのは、社内のことはつねに細かいことにまで目を配り、時の流れにはいつも敏感でなくてはならない。だから万歳をしている暇なんかないのだぞ、と厳しく言った。

ネヲン、三つ目の「金を残すな」というのは貯金をするなということですかとつまらんことを言ってしまった。

社長はバカとひとこと言って続けた。チョット儲けたぐらいで、欲をかいて株を買ったり不動産投資などをするなということだ。金は魔物だ。儲けたものはそっと手元に置いておけ。そして、会社をたたんだ時に残ったものが本当の儲けだといった。

社長は、ネヲンの将来がそうとうあやういと感じていたのだろう、最後に、お前は事務タイプだから総案を始めたら営業に専念し、事務所にはお前の机を置くな、そして、決してソロバンを持つななどいう細かな指導までしてくれた。

この話には続きがある。ネヲンが起業してすぐに、ネヲンに起業をすすめた友人が言った。いまならまだ遅くないから直ぐに会社をたためと・・・。

退職間近

ツワブキの花
つわぶきの花

退職のための大きな難関をパスしたネヲンは退職の日をむかえるだけとなった。15年も見続けてきた伊豆の海と空がとてもすがすがしく見え、目の前の伊豆大島が古くからの友人のようであった。海沿いの崖下に咲くツワブキの黄色い花がやけに輝いてみえた。

ネヲン、起業後を見越してをあたりをキョロキョロと見回していた。

ネヲンが起業する「総案」の大切なお客さんは旅行業者である。現在、この旅館に送客してくれている旅行業者の中から将来パートナーになりそうな人たちを物色していたのである。

山内さん

ある日、手ぐすねを引いてネヲンが待つホテルオークラに、群馬県の高崎市から「山内さん」が、薄茶色のトヨタ・コースターに、15人ほどのお客さんをのせてやってきた。

バスのお客さん
バスのお客さん

ネヲン、この山内さんとは事前の予約電話でやり取りをしていた。現在は大手製紙会社を退職し旅行会社の登録申請中で免許がおりるのを待っているといった。根っから旅行業が好きみたいで電話の声が弾んでいた。

今回の旅行は地元の有志をのせての伊豆一周二泊三日の旅だといった。西伊豆は大学生時代にアルバイトをしていた土肥温泉の旅館で即決できたが、二泊目の東伊豆の旅館探しで迷っていたら、土肥の旅館の社長がここを紹介してくれたそうだ。

少々横道にそれるが、山内さんがアルバイトしていた頃のわずか3~4年であるが、特にルーム係り補助という女子大生の夏季アルバイト先として浜辺の温泉旅館が大人気になった。今の感覚でいえばハワイのホテルでアルバイトという感じであった。

このほんの僅かな3~4年間の夏休み期間だけであったが旅館は人手不足が解消され館内に華やかさが戻った。そして、週刊誌に求人広告を掲載しませんかという勧誘の電話がひっきりなしに鳴った。

さて、これまでの会話で、山内さんの人物像はおおよそ想像できたが、顔を合わせるのは今回が初めてである。思っていたよりも若そうでネヲンよりは10歳ぐらい下のようだ。人生とは面白いもので、この時の出会いがその後の長いお付き合いの始まりとなった。

宴会が終わってひと息ついたあと山内さんが面白い話をした。山内さんもネヲンと同じ時期に会社と戦っていたという。

土手沿いの散歩みち
土手沿いの散歩みち

山内が旅行業に興味を持ったのは、国鉄の駅長だった親父の影響だといった。その話を聞いてネヲン、一瞬「???」となった。

だって普通は鉄道員のカッコいい制服姿にあこがれるだろうと思ったからだ。山内さん、ネヲンの思いを無視して続けた。親父が駅主催の団体募集旅行をやっていて、お客さんをゾロゾロと引き連れて行く姿にあこがれたといった。

山内さんは大学卒業後、地元の大手製紙会社に営業として入社したが旅行業への夢が捨てきれず、ある時、とうとう仕事中に河原の散歩みちに車を止め昼休みを勝手に長くとって旅行業者になるための資格、旅行業務取扱管理者の受験勉強を始めたそうで、そして今日があるんですと言った。

明るいスタート

熊谷駅前・熊谷直実の騎馬像
熊谷駅前・熊谷直実の騎馬像

このあとまもなくネヲンと山内さんは、ほぼ同時期にそれぞれが総案と旅行業者として開業した。が、二人のスタートダッシュには大きな明暗があった。

営業タイプの山内さんは、旅行会社を立ち上げるや次々と団体客を獲得し順調に業績を伸ばした。前途洋々たる快調なスタートであった。

注目すべきは、開業時の準備・行動力である。

山内さんは、事業の成功が親の七光りだと言われるのを嫌い奥さんと3人の子供をひき連れてお隣の埼玉県熊谷市のマンションに移り住んで開業した。これには、高崎の郊外より熊谷市の方が都会であり会社の数が圧倒的に多いということも計算に入っていた。

さて、人生って面白いもので、この時期、のちのちにネヲンや山内さんと関わりを持つ「天城さん」が、大手生命保険会社の熊谷営業所の所長として赴任してきていた。三人が同じお天道様のもとで仕事をしていたのである。

暗い船出

ゆず
毛呂山町の特産・ゆず

一方のネヲンは子供に「父さん、うちは貧乏なの?」と言われるほど追い詰められていた。

その原因は、ネヲンが「鶏口牛後」の本当の意味、すなわち、牛の尻尾(サラリーマン)と鶏の頭(経営者)では考え方が根本的に違うことを理解できていなかったからだ。

松下幸之助と同じ側の経営者なったというのに、ネヲンは、サラリーマ根性のまま仕事はみな同じだとたかをくくってスタートしてしまったのである。

ちなみにネヲン、独立にあたり貯金はゼロ、新築した家は全額ローンであった。が、退職金200万円と、これまでの給料の2倍の収入先を確保していたので、これでひと安心とのんびりしていて緊張感がなかった。

そして、考えの浅いネヲンは埼玉県西部のゆずの里・毛呂山町の自宅で起業してしまった。それは、田舎だけど総案は営業が主体なので、30分早く家を出れば川越市に事務所を持ったのと同じだと考えたからだ。

しかし、世間の見る目には田舎の総案とうつる。旅行業者に並び総案のもう一方のお客さんである旅館の加入が全く増えなかった。都会のレストランのほうが美味そうに見えるのと同じだ。

幸いなことに、車一台と電話一本で出来る仕事だったので、深手を負わずに済んだ。

追い詰められネヲンは、大友社長のもとへお金を借りに行った。社長、うちも今は大変な時だからといって100万円を限度として用だてを承知してくれた。当日50万円、後日20万円と計70万円もお世話になった。

そこで、お金を借りる分際でありながら不届き者のネヲンはとんでもないことに、3億円もの売り上げがあって、たったの100万円かよと思ったのである。未熟者であった。

かって、大友社長が言ったようにお金は魔物である。お金の流れが細くなるとまわりの人たちは、お金の蛇口をギュッと閉る。しかも余計に力を入れて。

この窮地を救ってくれたのが家内である。それと大きな声では言えないが旅館勤務時代を反省して起業と共にサイフを家内に渡したネヲンの決断である。

家内は毎朝、営業に出るネヲンに一日の走行分のガソリン代3000円(150円x20ℓ)と昼飯代の500円を「頑張ってね」といって渡してくれた。自分は100円の化粧品を使いながら。

もしこの時、ネヲンが相変わらずサイフを握っていたら、我が家の預貯金残高(貯金ゼロ)におびえて営業には出なかっただろうと思う。家内が我が家の救世主であった。

この時代の唯一の楽しみは旅館の営業さんが来所することであった。昼飯代を負担してくれることと寒いときには暖かい缶コーヒーを夏にはガリガリ君を買ってくれたからである。

世間には先の見える人がいて「仕事って休まずに頑張っていれば、ある日突然春が来る」といったが、当時のネヲンには、そんな言葉が信じられなかった。このまま野垂れ死にしてしまうのではないかという気持ちの方が強かったからだ。

遅い春

麦畑
麦畑

ネヲンは営業が得意ではなった。いつまでたっても怖そうな旅行業者さんと話すとワキ汗が流れた。出来ることなら営業は挨拶程度で終わらせたかった。おおくの旅行業者からは、あいつのは営業じゃない飛脚だと揶揄された。でも、続けるしか生きる道はなかった。

県内じゅうをただ黙々と巡り歩く日々が2年、3年と続いた。人っておもしろい。何度も顔合わせていると、可哀そうだからとか、しょうがね~なあとか、頑張ってるねなどと言ってポツリポツリとお客さんをくれるようになった。

そして社長への返済、月々2万円が終わりに近づいたころネヲンはある異変に気が付いた。ただ毎日が同じことの繰り返しであったが、なぜか、気持ちに余裕を感じるようになったからだ。遅かった春がやっとめぐって来たのである。

冷たく厳しい赤城下ろしが吹きぬけ砂埃が舞い上がるだけの台地だと思っていたら、いつの間にか若芽がいちめんをおおう青々とした麦畑になっていた。

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第二章 今も昔

平成の時代

平成元号の発表
平成元号の発表

今も昔、元号がかわり平成4年(1992年)である。ネヲンと山内さんが起業して10年が過ぎた。この時代に大きく変わったことがある。ポケベルが携帯電話に置き換わったのだ。

ネヲンは営業中、どこでポケベルが鳴ってもすぐに公衆電話を探せた。普段から電話ボックスやピンク電話の位置を脳ミソに刷り込んでいたからだ。

案内所会議

営業会議
営業会議

さて、酒屋(酒店)の看板によく「○○ビール特約店」と書かれていますよね。アサヒビールとあればアサヒビールを優先的に売っている酒屋ですよね。

旅館と総案の関係は、この特約店契約みたいなもので結ばれています。

旅館と総案業界でいう「案内所会議」とは、旅館が主催して年に一度各地の総案を集めて催す営業会議のことです。営業会議という名目ですが慰労会といった方が適切です。

ある年、三重県の鳥羽の旅館で案内所会議があったとき、そこの若社長がネヲンに「あなたは土日も営業をしているそうですね」と言った。ネヲンはこんな遠くにまでオレの営業努力が伝わっているのかと思ったら鼻がヒクヒクとした。

しかしこのころ、凡人のネヲンはひとやま超えた安ど感と虚脱感におそわれていた。

今は青・黄・赤と変わる信号機と乾いたアスファルト道路の先を見つめながら、県内の旅行業者をへ巡り歩くだけで楽に飯が食えるようになったが、同時に日々道路の上を走るだけでオレの人生が終わるのかと思うと仕事にむなしさを感じるようになっていた。

もし、ネヲンに才能が有ったならば、よし! これを足場に次の階段を登ろうと考えたであろう。同じことでも優秀な人はポジティブに、凡人はネガティブにとらえる。

新店舗

新規開店イメージのイラスト
新店舗

山内さんは地元に戻り、高崎駅のお隣の小さな駅の駅前通りに旅行会社を開店した。

お店の立地は良かったが、まだ娯楽観光型の団体旅行が主流だったので、お客さんが頻繁に訪れるわけではなかった。来店の多くは総案と旅館であった。

旅行会社にとってはいつどこでお世話になるかもしれない旅館や総案、山内さんはそんな来訪者をむげにもできずこやかに応対していが、客でもない客の来店がわずらわしかった。

そんなおじゃま虫のヤツ等はパンフレットをまえにただ「お願いします」とノーテンキに頭をさげるだけで、オレと同レベルの生活をしているのかと思うと少し腹立たしかった。

山内さんが腹立しく思う胸の内を分かりやすく言うと、旅行業者の仕事は大間のマグロ一本釣り漁法みたいなので、常にお客さんとの一本勝負を強いられている。だからいつも緊張感を持ってお客さんと接しないと勝負に負けてを取り逃がしてしまうからだ。

さて、さて、旅館や総案のことはゴミみたいな問題で、どうでもいいことである。

今の山内さんには強く強く強烈にイラ立っていることがあった。現在の娯楽宴会型の団体旅行をすべての旅行業者が唯々諾々と受け入れていることである。

飲んで歌ってチョイヤサ! の宴会主体の団体旅行はいずれいきつく。だってそこには、旅行本来の目的や意義が全くないからである。山内さんは、旅ってもっと楽しく面白いものだろうと言いたいのだ。

山内さんは旅行業法も気に入らなかった。同法によるとお客さんを受け入れ側は、旅行業者がどんな旅行を提供しても誰にでも同じ手数料を支払えと定めていることである。こんな法律があるから旅行業者が努力しなくなるのだと。

旅行業者としての能力が高い山内さんは、旅行業は究極のサービス業だと自負している。よってサービス料(報酬)って一律ではなくお客さんが決めるものだと思っている。

山内さんは、もっと楽しく面白い旅が提供できる方法ないかと考え始めた。

閃く

折込チラシ
折込チラシ

山内さん、ある朝、たくさんの新聞折込みチラシが気になった。特に読売旅行やタビックス、クラブツーリズムなどのツアー募集のチラシが多くなったことである。

それらのチラシを眺めていたら、これからは「個人参加型の団体旅行」の時代だと閃いた。これで思い通りの旅が作れると山内さんガッツポーズであった。胸の内にたまっていたモヤモヤが消し飛んだ。

そしてすぐに山内さんは、主力商品となる「ゴロゴロツアー」を誕生させた。余談だが、この時のヒラメキと上州名物の雷が重なってツアー名が決まった。

大手旅行会社の立派なチラシを前にした山内さんには、ゴロゴロツアーなんて旅のチラシを作ってもどうせ大手の旅行会社には敵いっこないなんていうマイナス思考はなかった。

並の旅行業者は、大変なことや出来ないことを指折り数えて戦う前にギブアップする。

山内さんは、大きな会社には人材も金もあるので出来ることが沢山あるが無敵ではない。逆に会社が大きいからこそ制約されることも沢山あると考えたのである。素晴らしい!

考えた

はてな
はてな

山内さん、大手旅行会社のチラシと三日三晩にらめっこをした。午前中はお店で、午後はかって旅行業の勉強をした河原で、夜はお酒を飲みながら、そして、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を思い出しながら・・・。

見えた!

大手旅行会社の多色刷りの綺麗なチラシを見ると、たしかに旅はいいな~という気分になる。が、どこに行こうかという段階になるとその先の情報があまりにも少ない。限られた紙面でより多くの人たちにより多くの情報を提供しようとする表記法の弱点である。

敵の弱点は己の強みだ。山内さんは敵の弱点を「大雑把」だとし「繊細」で対抗すれば勝てると踏んだ。ますは、テレビコマーシャル的な宣伝方法ではなく、ダイレクトメールで個人に直接アピールする方法を選んだ。

具体的には A4の用紙に一つの旅だけを記載して、この旅の目的と楽しさをより分かりやすく書いて、さらに、発着時間や行程等も詳しく書くことにした。

次はそのチラシの作成手段である。印刷会社に頼むことは最初から頭になかった。悩んだすえに印刷機を買う事にした。印刷機にはコピー機に比べ設置コストが高いのと印刷時の騒音が大きいという欠点があったが、印刷スピードと印刷コストの安さが決め手となった。

早速、チラシ作りを始めた。印刷機は一色刷りなので見栄えはあまりよくなかったが、そこは山内さんが知恵を絞って考えた企画である。すぐにお客さんに旅心をくすぐった。

そして、一色刷りの味気なさは色付きの用紙も使うことで華やかさを出した。

さらに、大手旅行会社との差別化を図るために車内のムード作りにも気を配った。

例えば、青森港から津軽海峡フェリーにのって函館港についた。フェリーが接岸すると船首からバウランプが降りて揚陸がはじまる。バスが動きはじめてバウランプと岸壁とのわずかなスキ間の通過するとガタンと音がする。その振動をのがさずカセットのボリュームいっぱいにしてONにする。

はるばるきたぜ函館…と、サブちゃんの歌声が響く。拍手喝采!

見逃した

旅するシニア
お客さん

地域密着型のツアーなので、参加者のみなさんと顔なじみになると一人一人の日常生活のことまでが気にかかるようになった。ツアーに参加する朝、子や孫の眠りを妨げないよに気を使いながら慌ただしくお出かけの準備をするお客さんの姿が目に浮かんだ。

何か手助けができないかと考えた山内さんは、朝食用のおにぎりをサービスすることした。これ、お客さんには喜ばれた。これ、おにぎりはコンビニで簡単に用意できたが、大手ツアー会社には真似のできないことであった。大成果であった。

車中で楽しそうにおしゃべりをしているお客さんを見て、山内さんはマイクをとって皆さん最高の旅でしょう! と自慢したかった。が、ふと頭をよぎるものがあった。

このお客さんたちの多くは戦後の貧しく厳しい時代を必死に生きてきた年代である。もしかしたら、夢にも思っていなかった旅行が楽しめ、家族ともども豊かな生活できる今の幸せにひたっているのではないかと…。山内さんに第二の閃きがあった。

残念ながら山内さんは、このお客さんたちのこの楽しそうなこの顔は、このオレの企画力の勝利だとして舞い降りた幸運を打ち消してしまった。

風が吹く

そよ風が吹くイメージのイラスト
そよ風が吹く

ネヲンは営業が主な業務の総案をおこして10年以上も過ぎたというのに、恐そう(自信たっぷり)な旅行業者を前にするといまだにワキ汗が流れた。

ある日、ワキ汗の横綱みたいな旅行業者から起業以来初めての電話が鳴った。

「今、病院のベッドのうえから電話をしているんだ」と断りを入れて「おまえと、付き合うことにしたからタリフとパンフレットをもって事務所に来い 」と用件だけを言って電話を切った。

タリフとは、A3サイズの厚紙に総案名と住所などと共に販売契約のある旅館やドライブイン等の一覧を印刷したものです。

翌朝一番にタリフとパンフを届けた。

事務所は暗くカラであったが、隣接する母屋で親父似の大柄な青年が乳飲み子を抱いてやさしそうな笑顔で迎えてくれた。「あとを継ぐことになりました」といって軽く頭をさげた。そばには、母親と嫁さんと無邪気にはしゃぐ3歳ぐらいの男の子がいた。

ネヲンはすべてが分かった。

ネヲンを見ても洟も引っ掛けなかった親父が電話をしてきた理由が。そして、もう一つ、あの大友社長が凄腕の支配人ではなく息子のパートナーにネヲンを据えようとしたのが…。

かって、いかがわしい不動産屋の営業をしていたヤツが「貧乏人の友達はみんな貧乏だ」と言った。ただ者ではないヤツの友達はみんなただ者ではないということである。

親とすれば、かわいい息子がただ者ではないヤツにいいように扱われるのが忍びないのだろう。人畜無害なネヲンならそんなことはないと思ったのだろう。

このワキ汗の横綱のこと以来、かわいい後継者を持つワキ汗の旅行業者さんたちが次々にネヲンを贔屓にしてくれるようになった。ヘボな営業でも続けていればいいこともある。おかげでネヲンはワキ汗から解放されたしお客さんも増えた。営業は売るだけではない。

ただし、その逆もあることを忘れてはいけない。

ネヲンと付き合いの深い旅行業者の息子たちは、その成長に合わせてネヲンから距離を置くようになる。息子たちにしてみれば、ほかにいい総案が沢山あるのに、なんでこんなヘボと付き合っているのかと思うのだろう。

世紀末

この10年の終盤、1998年3月には衝撃的な場面がテレビに映し出された。顔をくしゃくしゃにして鼻水を垂らし男泣きしながら「社員は悪くありませんから!」といい山一証券の野沢社長が自主廃業の発表をした。

世紀末ムードが漂った1999年はなにごともなく無事に通過した。

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第三章 今も昔

タマちゃん

タマちゃん
タマちゃん

今も昔、平成14年(2002年)である。あれから20年が過ぎた。この年の夏、多摩川の丸子橋付近に突然現れたアゴヒゲアザラシのこどもが「タマちゃんフィーバー」をまきおこし新語・流行語大賞の年間大賞に選出された。

小踊り

ブーゲンビリア
祝賀会

ここは、かって織物、材木といった地場産業で栄えた埼玉県の南西部に位置する自然豊かな住環境と広大な森林に囲まれた飯能市である。

そしてここは「荒川さん」が経営する旅行会社の創立15周年記念パーティーが催されている、市街地の中心にある大きな旅館である。そこにはネヲンと山内さんも招待されていた。

荒川さんは、ネヲンとはホテルオートモ以来の付き合いであり、同年代の山内さんとともに旅を話題に時々研修旅行に行ったり飲み会をもつ間柄であった。

ネヲンは旅行業界特有のいつものパーティーとは雰囲気が違ったので荒川さんに尋ねると、出席者80人ぐらいのうち三分の一は地元の商工業者から税理士、建築士、コンサルタントなどなどの若手経営者たちだと言った。

聞くところによると、地域を盛り上げるために若手経営者が月一の会合をもってそれぞれの立場で将来のを語り合う未来志向のグループだと胸を張って荒川さんは力強く言った。

ネヲン、温泉旅館や旅行業者はどちらかというと日陰の仕事だと思っていたが、いまや世間並みの職業として扱われていることが嬉しくなった。

同時に大友社長が「浮かれて万歳をするな」といったことを思い浮かべていた。

すると、隣席の山内さんが突然「オレもこんなパーティーをしたい」といった。

それが大友社長の言葉とかさなってネヲンは「馬鹿なことを言うんじゃないよ」ときつい言葉を返してしまった。

ネヲン、ハッとしたが山内さんは「じゃあ止す」と、あっさりと引き下がった。それを聞いてネヲンはホッとすると同時に肩の力が抜けるのを感じた。

天城さん

名刺交換
名刺交換

平成16年(2004年)には花と緑の浜名湖花博が開催され舘山寺温泉は大いににぎわったが、観光業界全体では団体客の減少が顕著となりそのライフサイクルが衰退期にむかいはじめていた。

そんな時期に、舘山寺の温泉旅館の支配人「天城さん」がやってきた。

天城さんは立派な経歴の持ち主である。先の東京オリンピックの時代に大手生命保険に入社し、関東地方の営業所で活躍し、所長からエリアマネージャーにまでのぼりつめたが、山一證券騒動のころには仕事をやめて(早期退職)故郷の浜松にUターンしていた。

その退職の理由が、三人の子供が独立したのを機に、夫婦して第二の人生を楽しむためだったというから素晴らしい。

だが、新しい人生を楽しもうとしばらくは農家の見習いをしていたが、会社時代のもろもろのわずらわしさが恋しくなり奥さんに願い出て許しをもらい旅館に再就職したという。

ネヲンは天城さんの来社を己に幸運が舞い込んだと喜んだ。総案の退勢傾向に歯どめをかけ尚且つ上昇させるために、神様が送りこんでくれた最強の助っ人だと思ったからだ。

同行セールス

タンチョウズルの親子
タンチョウズルの親子

ネヲン、生保の元所長という大物助っ人と同行セ-ルスに出た。

同行セールスとは、総案と温泉旅館の営業さんとが連れ立って旅行業者に誘客のセールスをかけるという、総案と旅館業界のまことに奇妙きてれつな営業形態である。

この同行セールスが奇妙だというのは、営業といえば普通は生まれてすぐに自分で餌を探して食べるヒヨコのように自らの力で動きまわって営業活動をするものである。

しかし、旅館の営業(同行セールス)といえば支配人だとか営業部長クラスの肩書を持った偉いさんでも、タンチョウやカモ、アヒルなどのヒナが、親から嘴わたしで餌を貰って食べるように総案に伴われ旅行業社からお客さんをもらっていたのである。

タンチョウなどのヒナは、2~3ヶ月もすると自分で餌を捜したり食べたりするようになるというのに、旅館の営業さんはいつまでも総案のあとをついてまわっていた。

百戦錬磨?

車中では生保業界から参入した天城さんに、まずは、この業界の救いようのない現状をるると説明した。そして営業先の旅行業者との会話は、この業界のありさまが天城さんに伝わるようにと気を配りながら話をすすめた。

一日の仕事の終わり天城さんに現況についての意見を求めた。

答えは「旅館は団体客が無いと成り立たないんです。だから頑張るのみです」との力強いものであった。その言葉にネヲン、困難に立ち向かうには、なにがなんでもやり抜くぞという強い意思が必要なのだということを感じとった。

凄いヤツ!

ネヲンは数えきれないほどの旅館の営業さんと同行セールスをしたが、凄いヤツだと思ったのはたったの二人だけだった。そこに天城さんが加わることがとてもうれしかった。

ネヲンは人様(ひとさま)に、なぜ? どうして? 教えて! と簡単に言えるタイプなので知恵の引き出しがまた一つ増えたからだ。

埼玉県には県民性によるものか、大きな旅行会社は皆無に等しく、そのほとんどが「三ちゃん企業」であった。だからどこも同じように事務所兼店舗となっている。

その凄いヤツの共通点は、他県では千人~二千人単位の集客能力があるのに、ネヲンとの同行セールス先では、店内を一瞥するだけでほとんど喋らないのである。

「なんでアピールしないの?」と、ネヲンがワケを聞くと客のない旅行業者と話をしても疲れるだけだとか、ウチ(当館)の方面に向く客が頭のなかにあれば、相手から声がかかるからだと答えた。

「じゃあ、客があるかないかの判断はどこでするの?」との問いには、まず月の予定が書かれた黒板をみて、あとは客のニオイがするかしないかだと凄いことを言った。

へそ曲がりのネヲンは、凄いヤツには事前に訪問先の情報をださない。

「ねぇ、なんで今しゃべらなかったの?」という退店後の楽しみがネヲンにはあるからだ。ここには、これこれという大きな客があるんだよと言うと、凄いヤツは「エッ!」といって一瞬しまったという顔をする。ネヲンその表情を見ると快感をおぼえた。

しかし、凄いヤツは頭も記憶力もいい。なにか用事でその旅行業者の近くを通りかかるとわざわざ立ち寄ってあの時の団体の話しを決めてくる。そして、ネヲンには話しが煮詰まったらここに電話を入れるそうだからとドヤ顔でいう。ネヲンとっても悔しかった。

そんな凄腕の営業マンがなぜネヲンと同行セールスをするのか?

それは、埼玉県人は一人で黙々と仕事をするタイプが多いという県民性なので、旅行業者へのアプローチ法はネヲンのように個別訪問を繰り返すしか答えがとれないからである。

凄いヤツはこんな市場ではどんな営業をしてもネヲン以上の結果を出せないこと承知しているので、情報収集と引き続きよろしく! との表敬訪問である。優秀なヤツはどこまでも優秀だ。

すごいヤツ?

天城さんの営業法は先ほどの押し黙っている凄いヤツ等とは全く違った。

天城さんの脳内にはポータブルカセットプレーヤーが設置されており、そこにはセールストーク用のテープがセットされていた。訪問先でそのプレーヤーのスイッチを「ON」にして完璧に再生すると機嫌がよかった。頑張って仕事をしたという満足顔になる。

しかし、ネヲンがそのテープを途中で「OFF」にするような言動をするともう大変であった。あとで「営業は遊びではない、まじめにやれ」とこっぴどくやられた。

天城さんは、なにがなんでも客を説き伏せて契約させるという生保業界特有の営業手法が最上だと信じているので、セールス先では仕込んでおいた営業トークをすべて吐き出さないと気が済まないのである。業界には業界特有の営業手法があることを理解しようとしない。

そして、天城さんは同行セ-ルスの回数を重ねても、現状脱却のための具体的な方策を口にしなかった。相変わらず「それでも頑張るんです」の一点張りであった。

総案や旅行業者は在庫品を抱える商売でもなく、ほほ自宅兼店舗という営業形態をとっていたので、衰退期に入ったとはいえ両者は切羽詰まった状況ではなかった。

なので、付き合いが長くひま人同士の会話ほ他愛のない世間話になる。しかし、堅物の天城さんには営業現場でのそんな会話は不謹慎であるとして到底許せないのである。

天城さん「こんな営業をしているから成績がつるべ落としなんだ」と怒った。最後には「寝ないで仕事をしろ」といい放った。

地震雷火事親父
こわいもの

天城さんは、ネヲンのセールス方法がいちいち気に入らないのでイラついていたのだ。

ちなみに、総案(ネヲン)と旅館(天城さん)の間には上下・主従の関係はない。汚い言葉でいえば、総案と旅館とがグルになって旅行業者から客をとり、総案は旅館からその利益の一部を営業経費としてもらうという関係である。

なのでネヲンは営業方法について本来は天城さんにとやかく言われる筋合いではないのだ。文句があり気にいらなければ一人で勝手に営業すればいいだけの話しである。

生保の所長といえば世間では営業の鬼ように思われている。そんな人が、先の凄いヤツ等とは明らかに違う同行セ-ルスを続けているのがネヲンには不思議であった。

ネヲンが突き放すように一人で営業すればというと、私は「当地での所長(ネヲン)の信用力と私の営業力をプラスして集客するんです」ともっともらしい屁理屈をこねた。

「えっ、天城さんの営業力ってなに?」とネヲンがとぼけていうと、

「・・・」天城さんはしばらく沈黙する。

そして、タイミングよく頃合いを見計らって天城さんは、ネヲンの問いには答えず「営業の基本はフェースツーフェースだからこれを続けることに意義がある」と言った。

ネヲンはさらにかみついた。

一介のセールスマンが言うのなら分かるが、天城さんは生保の元所長で現在は旅館の支配人なんだろう。結果を求められている立場の人の言う事じゃないだろうと。

天城さんはまたしても「・・・」であった。

愛知の大学を卒業したという天城さんは大卒らしからぬ白か黒かの二者択一論法展開をする。ネヲンが思うに、それは会社の所長研修講座などでたたき込まれた部下掌握法ではないかと推察した。

例えば、日本一の果物は何かという話になったとき…。

ネヲンが「リンゴって美味しいよね」というと、すかさず天城さんは「リンゴが美味しいということは、ミカンは嫌いなんですね」と、二者択一論法で有無を言わせず強引に自分の世界へ引きずり込む。

ネヲン、想定外の言葉にもたつき、そんなことは言ってねえよと反論するより早く、天城さんは「釈迦に説法でしょうが」と下手に出て相手を持ち上げるような前置きを入れ、ネヲンがなんとなくホッとしている隙に…。

したり顔で「リンゴは皮をむいて幾つかにカットしないと食べられないですよね」と、食べるまでの手間をゆっくりと語り、そこへいくと「ミカンならこたつに入っていても皮をむけばすぐに食べられますよね」と、簡単い食べられるこを強調し、更に「静岡生まれの私としてはミカンが一番だと思います」と自分の考えを相手に押し付けてしまう。

こんなことを言う上司には、並のサラリーマンの部下なら逆らうような反論はせずに分かったような顔をして引き下がるだろう。上司に花を持たせるのも部下の処世術である。

参考までに、Mr.ChildrenのGIFTの歌詞に「白と黒のその間に無限の色が広がって」というのがあるように、白く黒かという二者択一の論法はとても乱暴である。

突然ですが

迷彩服のイメージ
迷彩模様

大会社の営業所を、わかりやすく「軍隊」に例えれば「小隊(30~60人)」に相当する。その編制(組織)は下記のとおりだ。

「尉官」一部隊の戦術レベルの作戦指導、立案、指揮するひと。

「下士官」現場の指揮をする人で、兵から昇進した現場の中間管理職みたいなひと。

「兵」直接の戦闘員である。

営業所長を軍隊式にたとえれば「尉官」である。よって営業所長の仕事は上記のとおり、戦術レベルの作戦指導、立案、指揮である。

ざっくばらん言えば、戦地での小隊の任務は局地戦に勝利するために戦うことである。企業の営業所は儲けるために最前線で営業活動をすることだ。

となると「尉官」相当の営業所長の仕事は、儲かる商品を社員に持たせ、それぞれの社員に合わせて売れそうな地域を割当てて営業活動を行わせることである。

そして「下士官」に相当する営業所の課長や係長は、それぞれの社員が所長の指示通りに動くように指導しかつ叱咤激励するのが仕事である。

わかった

豆電球のアイコン
わかった

こんな悪態をつく天城さんは相当なくそったれオヤジのようだが、実際は真逆で性格温厚、生真面目で品行方正、仕事熱心な人である。そんな模範的なオヤジがネヲンに暴言を吐いたは、天城さんは生来の気質がガチガチの「下士官」タイプだからだ。

下士官タイプだと聞いて「えっ、天城さんって生保の元所長さんだったんでしょう。所長なら尉官でしょう」と不思議に思うでしょう。

戦場において戦況が不利のなったとき、

尉官は、戦況を好転させるため、また被害を最小にするために作戦変更し指揮をとる。

下士官は、こんなときだから一層奮闘努力せよと督励する。

本来であれば下士官は尉官にはなれないが、時代がそれ許したのだ。

天城さんが所長の時代は、お客さんがうじゃうじゃいて、まじめに仕事をしていれば誰もが目標を達成できた時期だった。もちろんネヲンも山内さんもその恩恵を受けていたが…。

目標に達しないのはパチンコなどをやって遊んでいるヤツだけである。

こんな時代の所長には作戦指導、立案、指揮などの能力は全く必要なく、怠けているヤツの尻を叩いていればよかったのだ。尻を叩くのは尉官よりも下士官のほうが得意である。そう、この時代の所長は下士官タイプの所長のほうが適任であった。

本来なら下士官タイプの天城さんは、営業所の課長どまりだったが、サラリーマンの神様に微笑まれた幸運な人だった。その幸運は、所長からエリアマネージャーへと続いた。

なかでも一番の幸運は、早期退職の時期がきわめてよかったので山一証券の野沢社長みたいな悲劇が避けられたことだ。

すなわち、時代が変わり景気が悪くなっても相変わらずの下士官的な指揮で「それでもやるんです!」の一点張りでは全員玉砕だ。最悪の事態に遭遇せずに済んだのだ。

さて、思い起こせば、我々は小さいときからいい学校へ進む人は「頭がいいヤツ」で、いい会社に就職した人は「優秀なヤツ」だとインプットされてきた。だから、天城さんも例外ではなく自分自身でもオレは優秀だと思い込んでいる。

なおかつ、大きな会社の大きなビルの大きな事務室で大勢で仕事をしていた天城さんは、世間の人たちからも優秀で選ばれた人だと思われている。

だから、自他ともに優秀だと自負しているヤツは、マンションの一室や小さな店舗で働いているヤツ等よりはオレのほうが十倍も賢いと思い込んでいても何の不思議はない。

無意識であろうがこんな思考に支配され、かつ下士官タイプの天城さんは、デキが悪いと決めつけているネヲンを放っておけずに根性を叩き直したくなるのだ。

話し変わって、天城さんのチョットの不幸といえば、変人のネヲンにかかわってしまったことで、過去の栄光を肴に飲む酒にほんの少し苦みが加わったことである。

天城さんはこの後、60歳で支配人職を返上し70歳なる前日までヒラのフロントマンとして持てる才能(下士官的)をフルに発揮して活躍した。退職の日には前代未聞、旅館創業以来初の送別会を催してもらって送り出された。

ネヲンは、戦前の徴兵検査では、甲乙丙と分けられていたのは知っていたが、同時に、将的、下士官的、兵的にも分けられていたことを大友社長から聞いていた。

踊り始めた

阿波踊り
阿波踊り

平成20年(2006年)2月に行われた冬季五輪トリノ大会のフィギュアスケート女子で「イナバウアー」を決めた荒川選手が金メダルを獲得した。

そしてこの年、仕事一筋に燃えていたあの山内さんが踊りを舞いはじめてしまった。

オリンピックの興奮もさめ葉桜の時期になったある日、山内さんがあっけらかんと「県の旅行業協会の会長になったよ」とネヲンにいった。ネヲンは「エッ!?」という驚きと大友社長の「浮かれて万歳をするな」が脳裏をよぎり心配と不安が重なった。

旅行業界に団体旅行時代の終わりの風が赤城下ろしのように厳しく吹きはじめると、まちの旅行業者たちはほぼ壊滅状態になった。娯楽型の団体旅行をひかえるという一つの流れができると世間の人たちは我も我もとその流れを加速させたからだ。

先見の明があった山内さんは、いち早く個人参加型ツアーにシフトしていたので世間の風に負けず元気だった。その元気にあやかろうとする仲間たちの懇願より会長になったという。

ネヲンは、山内さんのことだから当然一期でやめるだろうと高を括っていたら、疲弊している仲間たちの力になるんだと張り切って、二期、三期と続けた。

旅行業協会長としての山内さんは、「白バス」(道路運送法違反)の摘発と「無登録業者」(旅行業法違反)の撲滅運動にまじめに取り組んだ。

白バスだとか無登録業者の不正行為というは、白バスの乗ったら屋根に穴があいていて雨漏りがしたとか、無登録業者に手配してもらって旅館に行ったら部屋が無かったというものではない。無理を承知でいえば旅行業界全体の信用低下を著しく招くものではない。

白バスを摘発したり、無登録業者を追放したからといって協会員にどれ程のメリットがあるのか疑問である。だが、日本は法治国家だから悪いことは絶対にイカンのだ。だったら法に触れることはお巡りさんに任せておけばいいじゃないかとネヲンは思った。

さらにさらに

不正行為撲滅運動で成果をあげ、業界の仕事にやりがいを見つけた山内さんは、近ごろとんでもないことを言いだした。協会からの日当や役員報酬がいつもポケットにあって、小遣いには困らないと真面目な顔でいった。上機嫌であった。

ネヲンは、あ~あ! はした金で本業の仕事時間の半分のを売り渡してしまってと思った。

幸いだったことは、会社の規模が社員まかせで会長職に専念できるほど大きくなかったことだ。ツアーの企画は山内さんにしかできなかったし、あとは経理の奥さんと添乗メイン女性社員との三人だけだったから、会社のことは顧みずというわけにはいかなかった。

魅力あるツアーさえ提供し続ければゴロゴロツアーは安泰であるという考えに陥ってしまった山内さん、たぐいまれなる才能も善し悪しである。販売努力や次の時代を予測する時間を無駄に使ってしまった。能力はむしろほどほどがいい。

もしここで本業に専念していたら、なぜ社員旅行や娯楽宴会型の団体旅行が少なくなったのか? とか、なぜどのツアー会社にも客があるのかと? と考えたであろう。さらに、ゴロゴロツアーはオレの企画力がすべてだ! との考えにも疑問を持ったであろう。

花ちゃん

ゴリラ
体の大きな若者

山内さんが旅行業協会の仕事に現を抜かしている頃、ネヲンの事務所に伊豆長岡温泉の旅館の営業マンで通称「花ちゃん」というネヲンの子供位の若者が顔を出すようになった。

身長180㎝、体重100㎏をともに超えた巨漢であったが、色白でやさしそうな顔をしていたので圧迫感はなかった。本人曰く、体重も100kgを越えたら気にならなくなったそうだ。

花ちゃんは来所すると間もなく、力づくでネヲンにパソコンを導入させた。

ネヲン、老眼と固くなった頭をたたきながら創業時のように頑張った。花ちゃんは次に来た時「何をやってんですか」と本気で怒るからである。どこの親も子には弱い。

そして、ネヲンは自力でホームページ(HP)が作れるようになった。ただし、HPが作れるようになったのは花ちゃんではなく「トーマス先生」の指導のおかげであった。

トーマス先生が凄いのは、HPを作るのにホームページビルダーというソフトを使うのではなく、紙に鉛筆で書くように、無地のテキストファイルにHTMLとCSSを書き込むだけで出来上がる本格的な制作方法を教えてくれたことです。

もっと凄いのは、ネヲンのなぜ? どうして? なんで? 分からない! といったメールの問いに、なんと3年以上も適切で分かりやすい返事を毎回くれたことです。

なお、知ったふりをして胸を張っているヤツには注意が必要だ。3回も質問をすると「うるさい!」といって怒り出す。これって、本当に頭のいい人を見分ける極意です。

人って普通は、なぜ? という疑問を持つとそのあと答えを探す努力をいろいろとする。

ネヲンには、「なぜ?」と疑問を持ったあとの答えを自分で探すという発想が無い。そう、三歳児のようにすぐに周りの人に「どうして?」と教えを乞うタイプである。

人間っておもしろい。花ちゃん先生は、HP部門でネヲンに追い越されるとHP作りの勉強をなぜか辞めてしまった。ジジイに負けたことが悔しかったのかな?

ホームページ

雷さま
ホームページ

山内さんの仕事のことにネヲンが口を出すのは、これまでの付き合いと年齢的なことが重なって兄弟みたいな関係ができていたからである。

現在、山内さん主催のツアーは、トナーで顔を汚しながら作り上げたダイレクトメール手法での集客がうまく機能していた。さらに山内さんは、そのシステムにオレのツアーの企画力がプラスされれば鬼に金棒だと思っていた。しかし、永遠の完璧はない。

ある時ネヲンは、いつまでも会長職にとどまっている山内さんをみかねて、このままでは将来的に禍根を残すよ、だからホームページを作ったらと強くすすめた。

山内さんはネヲンのきつい口調と自分でも近ごろ見聞きするホームページのことが気になったのか、すぐに反応して近所の業者に簡単なHPを作らせた。

しかし、HPはすぐに結果が出ないのと会長職のほうに気がいっていたので、HPの件は女子社員に丸投げしてしまった。彼女は優秀であったが添乗業務に忙殺されてHP作りには身が入らなかった。残念!

ネヲンが提案したHPの内容は、ツアーでの思い出、すなわち、美しい景色、未知の世界、グルメ、お土産、車内のおしゃべりなどの楽しかった場面、場面をカメラで切り取り、それをHPにアップして参加者に見てもらうことであった。

その狙いは、ツアー参加者がパソコンの前にお土産の菓子をひろげて思い出のページを見せながら、子や孫にツアーのことを話して聞かせれば、子や孫たちの脳裏にはゴロゴロツアーのことが自然とインプットされる。ゴロゴロツアー第二世代の育成策である。

しかし、山内さんには、そもそもツアー参加者たちはおじさんやおばさんである。この年代の人たちにHPを見てくれといっても、おいそれとは見ないだろうと強く思っていた。

でも、ツアー客にゴロゴロツアーのHPを見させることは思うほど難しくない。

それは、山内さんたちがツアー参加者宅を一軒一軒まわって、パソコンをONにすれば、あとはワンクリックでHPが見られるようにセッティングしてあげればいいのだ。

ツアー客には添乗員の話しは神の言葉である。添乗員とはヒーローであり天皇陛下みたいに敬われている人である。ツアーの車中でホームページのことを話してやれば、われ先にと訪問設定の希望者が手をあげる。

次の時代を切り開くとは無理難題を解決することである。当初は膨大なエネルギーがいる。

また、ツアー会員のなかから世話好きでパソコンをかじってる人を誘って、その人に設定の手助けをしてもらえば、その人を中心に一つのグループができあがる。強力なツアー支援者も生まれれば一石二鳥である。

めでたくツアー客がHPを見てくれるようになれば万々歳だ。これって作ってしまえば、あとは仕組みを改良するだけでほったらかしでいても自然とゴロゴロツアー第二世代へと継承される。莫大なお金をかけて放映するTVコマーシャルと同じシステムだ。

花ちゃん

ゴリラ
体の大きな若者

花ちゃんのもう一つの顔は、通称【FF11】というオンラインゲームの世界で活躍する【ヴァナ芸人Yukihide】として超有名人であった。ネヲン詳しいことは分からなかった。

インベーダーゲームぐらいしか知らないネヲンに、その証拠としてアクセスカウンターを見せてくれた。表示された数字が目の前で、スロットのリールのように高速で回転していた。

そんな花ちゃんが最近、これからは画像の時代だと言いはじめた。

文庫本育ちのネヲンはそんな時代になるわけがないだろうと反発した。だって、画像を何枚も並べたって思いは伝わらない、文章があってこその意思の疎通だろうと、同行セールス中の車内ではいつも親子喧嘩みたいだった。

そして更に、これからはユーチューブの時代だと言った。YouTubeはお金になると言った。具体的にはワンクリックで広告料が0.1円になると言った。

ネヲンは頭のなかで、1000クリックで100円かと計算して、すぐに、ダメ、ダメだと花ちゃんの提案を拒否した。

拒否の理由は、以前花ちゃんが、ブログをやれと言ってヤプログを開設してくれた。これに答えて関東の88ヶ所のお寺さんをまわって「東国へんろ」としてアップした。3年ぐらいかけてアップし続けたが読者はわずかに20人足らずであったからだ。

3年も努力した東国へんろの結果を見れば、ユーチューブをやってもクリックしてくれる人はいないと思った。ユーチューブとは、といことを知らないネヲンの結論であった。

なお、先ほどの花ちゃんのオンラインゲームの世界では、広告的なものをアップするとすぐにボイコットされたそうです。

小さな野望

花ちゃんが来所すると、昼飯時をねらって県境の神流川を渡って必ず山内さんのところ二人して営業に行った。これにはネヲンの胸に秘めた小さな野望があったからだ。

そのまえに、総案の営業テリトリーは立地する総案の県内とするのが一般的であった。今回のこのような越境営業は珍しいことであるが、特に目くじらを立てることでもない。そもそも総案には法的な規制が何もなかったからだ。

山内さん訪問の目的は、ネヲンが山内さんと花ちゃんの三人でネット旅行会社の設立を目論んでいたからだ。そのために山内さんと花ちゃんを近づけようと昼飯時をねらったのだ。

この夢ははかなく消えた。山内さんがいっこうに興味を示さなかったからだ。

この結果の良し悪しの判定は難しい。大友社長の三つの教えの補足として「共同事業はするな」というのがあったからである。

荒川さん

舞い散る紙
舞い散る紙

平成20年(2008年)は、東京株式市場で株価が大暴落して、日経平均株価は、終値ではバブル後最安値となる7162円90銭まで下落した。

かって、創立15周年記念パーティを催した「荒川さん」が、最近、まちの旅行業者には不似合いなビジネスだとか商取引などという言葉を口にするようになった。ネヲンはチョット違和感を覚えた。旅行業者はお客さんを探して旅館へ送り込むだけの商売だからだ。

さて、JTBなどの大手旅行会社の旅館の販売方法を簡単に言えば、不動産会社の中古住宅販売のチラシみたいのを作って、その中からお客さんに選ばせるという手法である。

しかし、まちの旅行会社の販売方法は、旅館(総案も含む)と旅行会社の間に生まれた人間関係、すなわちオレとオマエの間柄でお客さんには関係なく宿泊先が決まる。もちろんお客さんが指定する温泉地だとか宿泊料金などは重んずるが。

宿泊料金は、お客さんが現地で直接支払うこともあるが、一般的には、無断不泊などのトラブル防止を理由に、いったん旅行会社を経由して、お客さん→旅行業者→旅館と流れる。この流れは大小の旅行会社とも同じである。

が、旅行会社から旅館に支払われる宿泊料金の決済方法には大きな違いがあった。

大手旅行会社がお客さんに持たせたクーポン券は、すぐに現金化できる金券であったが、まちの旅行会社のそれは、法的にはなんの保証もないただの紙切れであった。

このような、まちの旅行会社と温泉旅館との間に生まれた怪しげなクーポン券制度がのちのちあちこちでトラブルや悲劇をもたらした。

自己破産

荒川さんが不動産投資の失敗でお店をたたむことになった。

倒産の影響は、ごくわずかであるがネヲンにも及んだ。あの時の荒川さんの言葉のおくには、我々の取引は相互信頼のうえに立つものではなく、機械的、すなわちドライなビジネス的な取引と思うことで、少しでも気持ちを楽にしたかったのだろう。

荒川さんは、山内さんと同じくネヲンの熱川温泉時代からの長い付き合いだった。城ヶ崎海岸の吊橋が大のお気に入りでによくホテルオートモに団体さんを連れて来ていた。

倒産の原因は、大友社長が言った「金を残そうと思うな」であった。地元の商工会仲間の税理士を信用しすぎてしまったのである。

まちの旅行業者(荒川さん)には、あやしげなクーポン券制度のせいで預金通帳にはいつもおおきな預金残高があった。お客さんから預かった宿泊料金の日にちと旅館に支払う日にちの間に大きな期間的なずれがあったからだ。景気のよい時代はその金額が膨大であった。

それを目にした税理士が、膨大な預金残高が宿泊料の預り金であることを知ってか知らずか、物知り顔で荒川さんに不動産投資をすすめたのである。旅行業者の売り上げは預り金の15%が最大であった。

不動産投資の話を小耳に挟んだネヲンは大友社長の話をしたが、荒川さんは、カネの専門家が言うのだから間違いないと聞き入れてくれなかった。残念!

税理士って、お金の専門家なのだろうか?

実はネヲン、学生時代に税理士をめざし村田簿記学校の夜間部に入学した。が、入学初日の担当教師の話を聞いて一日でやめてしまった。

先生曰く、人差し指をまるめながら税理士をめざす奴は、尻の穴が小さくなければ駄目だといった。借方貸方の合計が1円でも合わないと夜も寝られない仕事だから、1円、2円ぐらいでグズグズ言うなという性格のヤツはダメだと。さらに、尻の穴が小さいヤツは博才もないとも言った。

それを聞いたネヲン、博才はないがオレは性格がいい加減だからこれはダメだと思ったからである。

そして旅館では経理係だったネヲンは、年度末になると大友社長と決算のことで会計事務所に行った。そこでの社長と元税務署所長だった所長との会話を、こんなことが許されるのだろうかとの思いでの目を丸くして聞いていた。

大友社長は、今期は利益が出すぎたから30%ぐらい圧縮しろといった。元税務署所長の所長は「そんなことは無理ですよ社長さん」と抵抗したが、大友社長は「税務の後始末をするのがあなたの仕事だろう」黙ってやれと突っぱねた。社長も所長もすごい人だと思った。

この話のシリはネヲンにまわってきた。所長の指示で在庫調整などの書類の書き換えをしなければならなかったからだ。辻褄を合わすることは結構大変なことだった。

税理士はお金の専門家ではない。税務の後始末屋である。税理士にすすめられて東京のマンションを買って大損をしたという旅館の社長もいるが、経営は自己責任である。

いい税理士もいる。ネヲンの同窓会も60歳を過ぎると元気になったおばさんがたくさんいた。税理士君を取り囲んで儲かる株を教えろと迫っていた。税理士君、オレはそんな柄じゃないと逃げ回っていた。えらいぞ税理士君!

平成23年(2011年)3月11日14時46分頃に東日本大震災が発生した。

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第四章 今も昔

終盤

閂(かんぬき)
閂(かんぬき)

今も昔、平成24年(2012年)である。5月22日には、既存の電波塔・東京タワーにかわる世界一高い新タワー・東京スカイツリーが開業した。これは観光業界にとっては大きな観光資源となったが、業界全体にその効果が波及するほどには至らなかった。

ネヲンと山内さんが起業して30年が経った。前年の東日本大震災以降、観光業界は一段と厳しさを増した。特に宿泊を伴う娯楽宴会型の団体旅行は無きに等しくなった。

平成26年(2014年)2月には、クリミア半島にロシアが軍事介入しウクライナ危機がおこり冷戦後の国際秩序が大きく揺らいだ。

東日本大震災とかウクライナ危機の影響ではないだろうが、ネヲンの事務所では日に電話が数回しか鳴らなくなった。開業時は熱き心で電話が鳴るのを待ち続けたが、今では電話が鳴るのを待ち続けるということが拷問に等しくなっていた。

「携帯があるじゃない」という声が聞こえそうだが、速い、正確、丁寧がモットーの総案業務では「後ほどお電話します」というは通用しないから辛いのである。

真夏の強い日差しが照りつける平成27年(2015年)のある日、電話係り謙経理係りの家内が「もう仕事をやめたら」といった。

創業時の貧乏に耐え抜いた家内のその言葉に、老後の年金生活にも目処(目途)が立っていそうだし、ネヲンの後期高齢者入りもまじかだったので、あっさりと廃業を決めた。

ネヲンは思い起こした。退職時に大友社長がいった「総案は虚業だぞ、どうせなら、旅行業者になれ」との忠告を受けた。そのときのネヲンは、自分は旅行業者になれるほどタフではないと思っていたので社長のアドバイスは聞き流した。

やはり社長の言葉通り虚業の総案は弱かった。観光業界の終末を告げる風が一番初めに吹きつけた。ネヲンは社長のアドバイスを無視したことを悔いているのではない。自分の実力相応に鶏の頭として精一杯生きてきたことに誇りに思っていた。

うれしい便り

桜の花
桜の花

自己破産した荒川さんが復権に向けて動き始めていた。狭い田舎のことなので地域の皆さんとの信用回復を一番に努めているという。とは言っても、一度失った信用を回復することは並大抵ではない。まずは黙って、5年、10年と地道に働く覚悟だと言った

天城さんからも届いた。70歳を過ぎても体力的な衰えはなく、シルバー人材センターの紹介による高齢者宅の草むしりで活躍しているという。一番の喜びはお客さんの「ありがとう」だそうだ。最近は草むしりを通して高齢者の見守りにも注力をしているそうだ。

参考までに「草むしり」とは、全国的に通用する関東地方の方言で九州では「草取り」北海道では「草刈り」というそうだ。

再挑戦

ドアの向こうは光る海
再挑戦

平成30年(2018年)は、平昌五輪でフィギュア男子の羽生結弦が連覇し、大谷翔平がメジャー新人王に輝いた。確実に新しい時代が到来していた。

山内さんは、ゴロゴロツアーの象徴である初詣ツアーの実績が三分の一になってしまい、さすがに、これはいかんと旅行業協会の会長職も辞し、ゴロゴロツアーの再構築に着手したが、どこをどうすればというのは全く見えず、すべてが手探りであった。

山内さんが再スタートに意欲を燃やすのは、自営業者には、サラリーマンには計り知れないもうひと花咲かそうとする仕事のムシが住み着いてその虫が動き始めたのだ。

よくよく考えたら、近所のヘッポコ業者もゴロゴロツアーの真似事をしてそこそこお客さんを集めていた。ということは、オレの企画にほれ込んでお客さんが集まったというより、戦後育ちの苦労人たちが手ごろな娯楽として群がったということが正解であると分かった。

そして、ゴロゴロツアー衰退の原因が時代の変化によるものなので、解決方法は新しい時代の流れを見つけ出しそれをつかみ取るしか無い。過ぎさったことは参考にならない。

先を見据えようとする山内さん、考え中! 下手の考え休むに似たりなんて笑うな!

江戸時代に弥次さん喜多さんが日本初の「旅ブーム」をおこした。以来、庶民の旅ブームは明治以降も次々に形を変えておこったり消えたりしている。

最近だけでも、スキーブーム、北海道の蟹ブーム、団体客の温泉旅館ブームなど、さまざまなブームの盛衰が繰り返されてきた。さて、次はどんなブームがおこるのだろうか?

いま山内さんは次の旅ブームを探し出すことの手引きとして「坂の上の雲」の主人公、秋山兄弟を選んだ。この兄弟は、今よりもっと過酷な日露戦争で日本の命運をかけた決戦場で敵の進路を予測し撃退した二人だったからだ。

有名なのは、日本海海戦で東郷平八郎率いる連合艦隊を勝利に導く作戦を立案した弟・秋山真之であるが、山内さんは「日本騎兵の父」と呼ばれた兄・秋山好古に注目した。

1905年1月、厳冬の満州で十万ものロシア軍が、日本軍の弱点はここにありと、わずか八千の兵力で守る秋山好古の支隊に襲いかかった。

しかしこの戦いの初期には、山内さんが新しい流れをつかめないように、40㎞もの戦線を守る秋山好古にはロシア軍がどこを突破口にしているかは分からないのだ。それが厳しい。戦線を突破されてしまえば日本軍は壊滅である。

特に厄介なのが、機動力のあるミシチェンコ少将率いるウクライナ平原育ちの世界最強のコサック騎兵集団に防衛ラインを突破され後方に回り込まれることを防ぐことである。

日本騎兵の創立者である秋山好古はロバのように貧弱な日本馬にのる日本騎兵を率いて、大柄な馬を操るコサック騎兵の侵攻を食い止めなければならない。

そのためにはまずコサック騎兵が40㎞にも及ぶ防衛ラインのどこに現れるかを正確に予測することである。失敗が許されない好古は毎夜幕舎で酒をあおりながら考えぬいた。

会戦場をここだと確信した好古は、彼我の騎馬の体格差を考慮し、騎兵を馬から降ろし砲兵として前進させ、負けないための防御戦略を展開した。好古のたぐいまれなる柔軟な思考力である。この黒溝台会戦での勝利が、日露戦争の勝敗を決定付けたと言われる。

山内さんは、秋山好古が騎兵戦の定石を捨てたように、まずゴロゴロツアーはオレの企画力で持っているという考えを捨てた。なにかプライドを捨てたようだが、馬を降りて戦った騎兵さんのことを思えば屁でもなかった。

山内さん、嗅覚を働かせ模索中!

好古が夜ごとに幕舎の中で水筒の酒を飲みながら地図を広げてコサック騎兵の進路を推しはかったように、山内さんも毎晩ビール缶を片手に新聞を広げ、JTBなどの大手旅行会社の全面広告を嗅覚を研ぎ澄まし、多様化時代の難しい流れをくみ取るべく見続けた。

山内さん、脳みそをフル回転させて考え中!

好古が騎兵を馬から降ろして迎え撃ったように、新しいお客さんの発掘法とそのお客さんへのアピール方法を考えていた。

わかった

わかった
わかった

「うぅん」と山内さんは首をひねって更に考えた。

「よし、分かった」と山内さんは右手のこぶしで、左手のひらをたたいて声をあげた。

好古がコサック騎兵の進路を見極めたように、山内さんもツアー客の流れを読み取った。

ゴロゴロツアー客が激減した理由は、山内さんと共に歩んだお客さんが、高齢化と観光地を見つくし行楽地で楽し見つくしてしまったからだ。世界旅行まで足を延ばせば別だが…。

好古が騎兵を馬から降ろして迎撃したように、山内さんもツアー客を増やすことを考えた。

ツアー客を増やすには、ゴロゴロツアーの第二世代を獲得するしかない。だがこれは、考えれば考えるほど絶望的である。若者は年配者に受け入れられるが、年配者はある特定の人を除き若い人たちには受け入れてもらえないからだ。

さらに悪いことは、ゴロゴロツアーの第二世代ともくされる30代後半から40代前半の人たちはジジイが大嫌いだ。現に、若き日のネヲン、山内さん、荒川さんたちの飲み会はジジイ攻撃から始まった。そして、あんなジジイにならないように頑張ろで終わった。

特定の年配者とは、それを象徴的に言えば3万円位のネクタイを当たり前のように身につける人である。金ピカという意味ではない。住む世界が違うという雰囲気を醸し出している人である。若者には普通の年配の男はきたねえジジイに見えるのである。

では、どうする!

簡単なのは、長いお付き合いのツアーのお客さんと共に消えてなくなることだ。

ゴロゴロツアー存続の可能性が最も高いのは、ツアーの代表者をゴロゴロツアーの第二世代に近い年齢の人に交代することだ。同年代という仲間意識を高め人の輪を広げることだ。そして、山内さんは一歩下がって影の人になって新代表を盛り立てればいいのだ。

ゴロゴロツアーの第一世代の人たちは、すべてが山内さんに負んぶに抱っこであった。しかし、ゴロゴロツアーの第二世代の人たちは、自分たちの力で行動がおこせるのである。

自力で観光ができる世代とはいっても、虎ノ門ヒルズ→豊洲市場・千客万来→渋谷駅前スクランブル交差点などという観光コースは荷が重い。また、旅行経験が浅いので京都・奈良などをはじめとして基本の観光旅行をコスパよくツアーとして提供すればいいのだ。

新ゴロゴロツアー構築の段取りができた。またいちから始めよう。ファイト!

春よ来い、花よ咲け!

〈完〉

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