猫のイラスト
エンジェルフォール

エンジェルフォール

この物語は、まだ大学生だった与田さんが、ホームステイ先のカナダで猛勉強をしたが、どうしても「会話」がマスターできずに、もがき苦しんだ時代のほろにがい紀行記である。しかし、今となっては楽しい想い出だ!

1. 与田さんがやってきた

昨年は東日本大震災をはじめとして、わが国は多くの不幸に見舞われた。そのせいか、2012年は年が明けてもなかなか春がやって来なかった。

春とは、新しい芽吹きや蕾をそこここに見つけるたびに暖かさを感じるものである。春とは、一枚また一枚と衣装を脱ぎ捨てていくたびに、心の軽やかさも感じ取るものである。

しかし、今年の春は、いつものような心がうきうきする華やぎがなかった。

事務所が入るビル
事務所が入るビル

そんな年のゴールデンウィークあけに「湯の街ネヲン」の総案事務所に、お隣りの県で、旅行会社を営む「与田さん」が、遊びに来た。

ここは、湯の街ネヲンの事務所が入るKSAビルの一室で、緑の公園に面したとても静かなところである。

現在は旅行業界全体が受難の時代である。なのに、旅行業者の与田さん、晴れ晴れとした顔をしていた。

「ねぇ、与田さん、あなたのその元気はどこから…?」と、湯の街ネヲンがたずねると、

「僕は、学生時代に苦難の乗り越え方を、この身をもって体験したからです」と、こともなげな顔で答えた。

ネヲン「え、その若さで苦境脱出法を悟ったというのかい?」

「ええ、なんとなくですけどね…」と、与田さんが答えた。

ネヲンは「うぅ~ん…」と感嘆の声を漏らしつつ腕組みをしながらしばし考えた。そして、ここは一番、与田さんにいろいろなことを教えてもらうことに決めた。

そうなると、なんでも知りたがりの湯の街ネヲンは、相手の年齢などにはお構いなく、なんでもズケズケと言ったり聞いたりできるタイプであった。

「その学生時代の体験談とやらは後で聞かせてもらうとして、最初に、現在のこの旅行業界の困った状況に対する与田さんの考えを聞かせてくれる」とズバリと切り込んだ。

与田さん、単純で明快な意見を述べた。

まずは、今日までの旅行業界のビジネスモデルが終わったということをはっきりと自覚することです。

終わってしまったことにいつまでも未練たらしくしがみ付こうとして、この状況を小手先で回避しようなどというさもしい根性が先を見る目を曇らせるのです。

だから、すべてを一からやり直す気概をもって真正面から堂々とこの現状に向き合えばいいのです。そうすれば、この業界の問題点がはっきりと浮かび上がってきます。

相手の正体さえみえれば、答えは自然と出ます。

世の中に永遠の既得権なんてありません。これまで旅行業で飯を食ってきたから、これからも…、なんて考えは通用しません。

考え方を変えて、新たな気持ちで努力したもののみに生きる権利を与えられます。

パソコンを活用しよう
パソコンと女性

旅行業界の人達の次の一手は、もう見えています。パソコンをいかに活用するかです。これしかありません!

この現実に目を背け、パソコンなんて嫌だとウダウダと理屈をこねている人は死(廃業)あるのみだ、と与田さんはキッパリと言い切った。

「やっぱり、パソコンか…、オレもそう思う」と、湯ノ街ネヲンも同調し続けた。

「ところで与田さん、パソコンの具体的な活用とは…?」

「決まっているじゃないですか、ホームページですよ、ホームページ!」

そして、さらに続けていった。「だから僕は今、ホーペジビルダーのソフトとワードプレスの本を買って猛勉強しています」

ネヲン「だったら、ホームページ制作会社に作らせたほうが早いんじゃない」と、余計な一言をいった。

与田さんは、一瞬、バカかオマエはという眼をして、「魚屋や八百屋(HP制作会社の意味)が作ったホームページで、旅行会社が戦えるわけがないでしょう!」、と与田さんが応じた。

そして続けた。「旅行会社のホームページは旅行のプロが作ってはじめて使えるんです」

剣豪の宮本武蔵でさえ、愛用の刀を携えていたでしょう。刀ななら、なんでもよかったなんて話を聞いたことがありますか?

見事に一本取られたが、そんなことに動じる湯の街ネヲンではない。むしろ、コイツ、若いのになかなかやるなと感心した。

ネヲン、聞くは一生の得、聞かぬは一生の損、という思考回路の持ち主であった。

2. カナダでの苦い思い出

話は戻るが、先ほどの「苦難の乗り越え方とやらを教えて」と、オレは興味津々で身を乗り出した。

「苦難の乗り越え方、そんなの簡単ですよ、絶望の中に希望を見つければいいのさ」と、与田さんはあっさりと言った。

「そんなこと言ったって、簡単には…」と、湯の街ネヲンがモゴモゴと言っていると…、

「まあ、口で言うほど簡単ではないが、自分のまわりにある数々の暗雲を一つ一つ取り除く努力をすれば、その先には、きっと希望の光が見える」ということだ、と与田さんは続けた。

「じゃあ、その学生時代の体験談をぜひ聞かせて」とオレは話の続きをお願いした。

与田さんは、今となっては楽しい想い出だが、当時は、たった一人でもがき苦しみ続けたという学生時代のにがい体験話をしてくれた。

「じつは僕、学生時代に英語の勉強をしようと、カナダでホームステイをしたことがあるんだ」というところから、その話は始まった。

トロント市街
トロント

カナダに渡って当初の3ヶ月は寝る間も惜しんで勉強した。朝は5時に起きて予習をし、学校での授業が終わると、もう一つの学校へも行きました。

そこで、なおも2時間も勉強をした。二校での勉強が終り、下宿に戻るとさらに復習や宿題にと精を出した。

僕のそんな努力が実りクラスの最優秀賞を貰った。ここまでは順調だったが、この後すぐに、どうしても乗り越えることの出来ない大きな壁にぶち当たってしまった。

その壁とは、ペーパーテストの成績はよかったが、話すこと(会話)が全く進歩しなかったことだ…。僕はかなり落ち込んだ。

だからといってカナダまで来て弱気になんかなっていられない。気を取り直し、二つ目の学校では先生を変えたりしてなお一層頑張った。が、なかなか成果が現れなかった。

特に、月に一度受けるトーイック(TOE I C)の点数が全く伸びなかった。先生に相談してみたが、先生も首をかしげるだけだった。

トーイックとは、国際コミュニケーション英語能力テストのことで、英語を母語としない人を対象としたもので、主催は ETS(米国の民間の教育研究機関)です。

同じ時期にホームステイしたほとんどの生徒たちが、長くても3ヶ月ぐらいで学校を変えたり、働きだしたりしていくの見ていて、僕も環境を変え気分を一新し再度やり直そうと考え、再挑戦のプランを練った。

そんな時、相談した先生の「頭を少し休めたら…」とのアドバイスを思い出した。そうだ、それが正解かもと思った。

そして、ここは一番、勉強以外のことにおもいきり羽根を伸ばしてみようと決めた。

タイミングも丁度よかった。カナダでは夏になると先生達もひと月の休暇をとったからだ。

そんな訳で、当初はカナダ中を旅行するかアメリカにでも行ってみようかと考えていた。

そんな折、以前クラスメートだった韓国人と街なかでバッタリと出会った。その彼が自慢げに南米旅行の話をした。

彼の話を聞くまでは南米なんて思いもよらなかったが、話を聞くうちに南米のことで頭の中が一杯になった。

そうだ、頭を休めるのには英語圏じゃない方がいい。また、今後こんなチャンスは二度とないだろうから、と自分で自分を納得させて、とにかく行けるだけ行ってみようと、無謀にも南米行きの行動を開始した。

そのときの僕の南米に対する知識は、本やテレビで見たエンジェルフォールとか、ガラパゴスやマチュピチュだけであった。

3. スケールの大きな気分転換

実は僕…。当時はだいぶ意気消沈していたうえに異国での一人旅、ただもう無我夢中で細かいことに気が回らなかった。おかげで大チョンボをやらかしてしまった。

たぶん、出入国のどさくさのさなかだと思うけどカメラを紛失してしまった。

南米へ出国する際のカナダのトロント・ピアソン国際空港で紛失したのか、ベネズエラのカラカスのシモン・ボリバル国際空港で盗難にあったのだと思う。

ベネズエラのホテルに着いて、一日の慌ただしさから解放され、ふと我にかえり荷物を探ったときには、すでに、カメラはなかったのです。

日本にいては、たかがカメラと思うでしょうが、未開の地ではインスタントカメラしか買えないのです。

おかげで、折角の大冒険をしたというのに記録の映像がほんの少ししか残っていません。残念なことです…。

与田さんは、数少ない写真の一枚を見せながら話を進めた。

エンジェルフォール
エンジェルフォール

このエンジェルフォールは、チョット見には「日光の華厳の滝か勝浦の那智の滝」のように見えますが、そのスケールたるや桁違いに大きいんです。

僕はギアナ高地の、979mの高さから流れ落ちるエンジェルフォールは「見に行く」というよりは「探検に出掛ける」と言った方が適切だと思った。

それほどこの旅は、日本人が持つ物見遊山の旅のイメージとはおおきく異なってた。

エンジェルフォールへの旅(探検)をするには、まず、その前衛基地となるカナイマという村に行かなくてはならない。

ここで体勢を整えて目的地へ向かうのです。

カナイマまでは、プエルト オルダス空港から四人乗りのセスナ機で1時間20分はどかけて行った。なにしろ道路が無いので飛行機で行くしかないからだ。

緑と真っ青な世界
緑のジャングルと、真っ青な空

セスナ機からの視界は、上空の青空と眼下の延々と広がった緑のジャングルの二色の世界になってしまった。

青と緑の世界は、日本の白と黒の墨絵のような雪景色とおなじで、口では言い表せない、緑と青の素晴らしいコントラストの世界でした。

乗客は、僕とイギリス人の新婚さんだった。だから、当然、僕はパイロットの横の席であった。

思い出はそれともう一つ、この新婚さんがまたとても格好良かった。インディージョーンズみたいな、サファリスタイルのペアルックでさ…。

カナイマの空港に着陸してビックリした。なんと、そこの滑走路は山奥の道路みたいにただ土をならしただけであった。

ここに着いてはじめてセスナ機に乗った意味が解りましたよ。

飛行機が止まると現地の人達が数人集まってきた。尋ねられるままに名前を言うと、僕とイギリス人の新婚さんは、二組(?)に分けられた。なんと同じセスナ機で来たのに…。

そのことを知ったのは、ガイドさんが別々に歩きはじめたからである。

この三人でずっと行動を共にするものと思っていた僕はチョット違和感を感じた。

ガイドに、空港から歩いて5分位のところにあるホテルに連れて行かれた。

ここでは、信じられないことの連続であった。

まず、部屋には窓がなかった。電気をつけないと真っ暗である。ただの、コンクリートで囲っただけという感じで、部屋というよりは牢屋ではないかと思った。そしたら、急に不安が募ってきた。

でも、シーツやタオルが清潔だったのを見てホッとした。その不安が少し和らいだ。

3. シモン・ボリバル国際空港

「チョ、チョット待ってよ、与田さん!」現地の怪しげなホテルにチェックインというところまで、話が一気に進んでしまったけど、面白そうな話なので先へ進む前にいくつか教えてもらいことがる。と言ってオレは与田さんの話しを遮った。

「まず、カナダからセスナに乗るところまでは、どうやって移動したの?」

「あ、ごめん。すこしはしょりすぎたね」と言って与田さんは、行程を少しまきもどしてくれた。

トロント・ピアソン国際空港
トロント・ピアソン国際空港

カナダからエンジェルフォールに行くには、まず、カナダ最大の空港、トロント・ピアソン国際空港へ行きます。

そこから飛行機に乗って、5時間20分ほどフライト時間をかけて、ベネズエラの首都・カラカスにあるシモン・ボリバル国際空港へと移動するんです。

予約した切符を見ると、カラカスへは夜中の到着となるのがわかったので、ホテルの予約はもちろんのこと、ホテルまでのピックアップ(迎えの車)も手配した。

ピックアップまで予約したのは、話しによるとカラカスは世界でも名高い危険な都市だったからです。

噂話どうりというか、到着が真夜中であったというせいか、空港に降り立つとそこには危険な匂が漂っていた。本能的に身がひきしまった。

でも、トロントからカラカスへの移動は、たったの5時間余りだったし、おまけに時差もなかったので、空の旅はとっても快適だったよ。

先ほども話したが、デジカメの紛失に気が付いたのは、カラカスのホテルにチェックインして、荷物を開けた時のことでした。

ベットの上にすべて荷物をひろげ、思い違いであるようにと祈る気持ちで、一つ一つの入れ物をすべてチェックした。どこで失くしたのかを思いめぐらしながら…。

そんなとき、ふと思い当たることが浮かんだ。カナダのトロントにあるピアソン国際空港での出来事です。

それは、テロ騒動以来、液体類は機内に持ち込めないということを、すっかり忘れてしまい、カナダで買ったアイスワインのセットを機内に持ち込もうとしたときのことでした。

禁止事項に気が付いたときは、すでに、荷物を預けてしまった後なので慌てふためいてしまった。

たぶん真っ青な顔をしていたのだと思う。そんな僕の様子に気がついたのか、とても親切な係員がいて、特別に段ボールを用意してワインセットを預かってくれることになった。

有難かった。まさに地獄で仏であった。

その時、あせる気持ちがいっぱいで荷物の入れ替えをした。パスポートやチケットなどの大事なもののほうにばかり気がいって、カメラを置き忘れたことに気がつかなかったのだと思う。

ベットの上で暫く思いをめぐらしていたが、残念ながら諦めざるを得なかった。

明日はここから、プエルト・オルダス空港を経由してギアナ高地への拠点、カナイマまで移動しなければならない。

気持ちを切り替えてはやばやと寝た。

ベネズエラ カラカス市内
カラカス市内

翌早朝、迎えの車に乗って、シモン・ボリバル国際空港にむかった。空港までの移動中に見たカラカスの街並みは、昨夜の印象とはまったく違った。

とても爽やかで、世界一のヤバイ国という印象はない。いい旅になることの前兆であるような気がした。

ネヲンさん、ここからは、当時の僕が、ただ単に無気力なって現実逃避の生活をしていたのではない、ということを証明する話しだからよく聞いていてね。

と与田さんがことわりを入れ、シモン・ボリバル国際空港での出来事を話しはじめた。

シモン・ボリバル国際空港
シモン・ボリバル国際空港

僕はプエルト・オルダス空港行きのチェックインをしようと空港のカウンターに並んだ。その場の雰囲気が、何となく変化したことに気付いた。

変化の原因がナニが何なのかは、まわりの人たちの会話がスペイン語なので、僕には全く理解出来なかった。

その異様なものの正体を探るべく、僕は本能のアンテナを全開にした。

そうこうしているうちに、僕の前に並んでいた数人の人達が係員と話しながらどこかへ移動しようとするそぶりを示した。

それに気づいた僕はとっさの行動に出た。

移動を始めようとする人達のなかのひとり、大柄な男性の袖を引っ張って僕のチケットを見せた。

すると、その大柄の男性は、空港の係員にむかって何やら大声でワアワアと喋った。

僕にはなにがなにやらチンプンカンプンであった。そして、その大男は僕にも付いてくるようにと身振りで示した。

事の顛末は、僕の予約していた便が欠航であったのだ。

親切な外国人(僕から見て)のお蔭で僕は、同じ時間帯の他社の飛行機、それも、たった5人分の空席しか残っていなかった飛行機に乗ることが出来た。

これは、言葉が全く解らないという緊張感からか、五感が異常に研ぎ澄まされていた結果だと思った。本当にラッキーでした。

「無気力って、五感が働かない状態だよね。そうだよね、ネヲンさん!」と、与田さんが念を押した。

4. カナイマ湖畔にて

話は怪しげなホテルに投宿し不安に駆られてしまった、というところへ戻ります。

僕はカナイマ湖畔の怪しげなホテルに連れ込まれてしまったのでは、という不安から握ったこぶしに力が入った。そこが、あまりにも日本のホテルの様式とはかけ離れていたからだ。

少し経って解ったことだが、ここらのホテルは、どこも、これがごくあたりまえのスタイルのようだった。

日本の観光地とは全く趣が違ったので不安に駆られたが、ここは、れっきとしたギアナ高地観光の中心となる場所でした。

カナイマ村の風景
カナイマ村

カナイマ村はエンジェルフォールへの玄関口で、エンジェルフォールへ行くには、ここカナイマに集結します。

エンジェルフォールへは、ここから水路を遡っていくしか方法がないからで、しかも、水量の豊富な雨季しか行くことができないからです。

僕たち日本人は、旅行とは必ず添乗員さんが寄り添ってくれて、道みち手取り足取り面倒を見てくれるものだと思い込んでいる。

さらに、旅行とは添乗員さんやバスガイドさんの指示に従っていれば、気楽で安心安全な旅が保証されると信じ切っていた。

僕は日本でのそんな旅行に慣れきっていたので、今回のように、すべてが自己責任という旅に面食らっていた。

道中幾つかの苦難に出会ったが、そのたびに歯をくいしばって頑張れたのは、目的地のホテルにたどり着きさえすれば…、という淡い期待があったからだ。

なのに、やっとこさカナイマにたどり着いたというのに、そこには、日本の旅館のように待っていてくれるはずの暖かさや安心感がまったくなかった。

見ず知らずの土地にたった一人で放り出されてしまったような気がして、余計に不安感に襲われた。

異国でしみじみと思った。日本の温泉旅館って、いいな~って。

ホテルの前で、別れ際にガイドが言った。「午後からは、ここカナイマ湖からカラオ川をボートで30分ぐらい下ったところにある、ユリの滝を見学に行くので、お昼なったら○○レストランに来い」と…。

神経が研ぎ澄まされてきた僕は、その言葉にすぐに反応して、腕時計の針の位置を確認した。そして、すかさず聞き返した。「その時刻まで、どこでなにをしてればいいのか?」と、

ガイドは、あっさりと答えた。「その辺で、ぶらぶらしていろ」と、異国に地でたった一人にされてしまった。

多くの人々は口々に自由を求めるが、本当の自由とは恐ろしいものだとおもった。

我々が求めている自由とは、しがらみだとか煩わしさの中での解放感であるとおもった。複雑な人間関係が急に懐かしくなった。

孤独な時間がゆるゆると過ぎて、やっと、指定されたレストランへ出向く時刻となった。

レストランへ入って一人ポツンとしていると驚くことがおこった。一気に孤独から開放された。

どこにいたのか、色とりどりの格好をした大柄で陽気そうな南米人らしき一団と白人らしき人が二人…、ざっと見渡したところ15~6人の異国人がぞろぞろと入ってきた。

このグループの人達と明らかに外見が違ったのは、僕とオランダ人とイスラエル人の男性の三人であった。

もちろん、彼等がオランダ人とイスラエル人であるということを知ったのはツアーの途中でのことです。

僕はこの場の雰囲気からして、この人達と一緒にエンジェルフォールへ行くのでは…、ということを察した。

南米の人達のグループに入り込む余地はなかった。

ならばと、僕は勇気を出して二人の白人にカタコトの英語で話しかけた。同じ環境下に置かれていたせか二人はすぐにうちとけてくれた。

異国でたった一人というのは案外厳しいものがある。そんな時、話し相手が出来たということはラッキーであり本当に心強かった。助かった。緊張感がほぐれた。

そのときの昼飯でナニを食べたのかは思い出せない。ただ、日本のレストランでとる食事とは大きくイメージが違っていた、という記憶しかない。

ボリュームはタップリであったが全体的な感じはごく質素だった気がする。

食事の内容の記憶がないのは、たぶんの周りの人達に気を取られていたからだろう。

手と口は食事を摂ることに使い、目と耳と脳はあたりの人達を観察するために動かしていたのだろう。

ほとんどの人達がスペイン語で陽気に会話をしていた。もちろん、僕はこのときスペイン語なんては解っていなかった。南米という土地柄と風体から、彼らたちのおしゃべりをそのように想像したのだ。

レストランでの昼食時間が過ぎると、思ったとおりここに集まった人達が一団となってツアーが開始された。

この日は、この近くにある「三つの滝めぐり」へと出かけました。

まずレストランの裏手から5分ほど歩いてカナイマ湖にむかった。湖はさすが南米だけあってとほうもなく大きく感じた。

カナイマ湖と滝
カナイマ湖と滝

この湖を一目見たときは水面が真茶色で、汚く濁っているのかと思った。まるで湖が紅茶かアメリカンコーヒーで出来ているかのような印象だった。

しかし、手の届くところでみるとすっごく透明であった。湖畔では透明な水が静かに波打っていた。浜辺の砂は淡いピンク色をしていた。

ガイドの説明によると、生い茂るジャングルの木々からタンニンという物質がが溶け出して、このような茶色になるとのことでした。

そこで、我々の一行は二組みに分かれて木製のボートに乗り対岸へ行った。30分はゆうにかかった。途中、大きな滝から大量の水が湖に流れ込んでいるのが見えた。

ボートを降りるとしばらく平らな道を歩かされた。やがてその道は細くなり山道とになった。山道を登りきるとそこは薄暗く轟音に包まれたジメジメとした大空間だった。

右手は断崖絶壁であり、左側は轟音と共に大量の水が落下していた。そこは、大きな大きなサポ(かえる)の滝の裏側でした。

水のカーテンなどという生やさしいものではない。想像を絶する水しぶきを浴びながら黙々と歩いた。

やっと滝の裏側を抜けだすと、そこには、かって見たこともない壮大で素晴らしい南米の景色が広がっていた。

大自然って広大でとっても凄いと思った。日本では大自然は美しいという表現をするが、それとは全く印象が違う。

帰路は、湖の岸辺にそっての歩きであった。

先ほどの裏見の滝から眺めた広大な自然のなかに溶け込むかのように歩き続けると、三つの滝のうちの一番おだやかなユリの滝の前に出た。

われわれ一行はその滝のおおきな滝つぼで子供のようにはしゃぎまわって遊んだ。大自然のなかで童心にかえることは、年齢や男女、人種を問わずみんな同じであった。

たっぷり遊んだあとの爽快な気分で一行は歩を進めた。このツアーは驚きの連続である。

歩くことしばし、今度はなんと往路、湖上から眺めたアチャの滝の上にでた。湖上からの景色とは真逆である。

今度は、滝の気持ちになって湖上をながめた。絶景かな! 絶景かな! であった。

そして最後は、ツアー会社が用意したホテルでの夕食をすませた後、それぞれが明日はいよいよエンジェルフォールだ、との想いを胸に各自の投宿先へ散っていった。

僕は一日の締めくくりとして湖のほとりに建つとあるホテルのバーに繰り出した。二人の若いバーテンを相手に一杯やってから、監獄のような部屋に戻り眠りにつきました。

一杯やったホテルは、僕が泊まるホテルより数ランク上でたぶんカナイマで一番であろうと思われた。それでも、日本の民宿かコテージのレベルです。

ホテルのバーテンの話だと日本人のツアー客もよく来るとのことでした。

でも、僕のいまの心境は、観光での心地よい疲れとアルコールの入った気分のよさで、眠れさえすればそんなことはどうでもよいことであった。

5. いざ、エンジェルフォールへ

「与田さん、眠りにつく前に教えてもらいたいことがある」とまたしても知りたがりの湯の街ネヲンが話しの腰を折った。

与田さんは、未開のジャングルみたいな所へ踏み入ったわけだよね。ところで、そこには蚊や虻、ヒルなどの毒虫がいっぱいいたんじゃないの。

そいつらに刺されたり食いつかれたりはしなかったの? と、聞いてさらに続けた。

それからさ、大きな滝の裏側をくぐり抜けたり、滝つぼではウォータースライダーみたいなことをやって遊んだんでしょう。

一日中そんなことをやっていたら大量の水をあびて、服や靴はもちろん、シャツやパンツまでグチョグチョになってしまったでしょう。

熱帯のジャングルは湿気も多そうだし気持ち悪くなかったの? と、ネヲンは現地での様子に興味津々であった。

「あ、ゴメンネ!」なにしろ話すことが一杯あって、ついついはしょってしまった。

で、疑問があったらその都度なんでも聞いてと、与田さんは快く応じながら話しを続けてくれた。

現地では、ガイドさんから特別な防虫予防の指示があったわけでもないし、また、僕自身もこれといった虫除け対策に気を使ったことは一度もなかった。

なのに、日本の夏ように蚊やハエなどに悩まされたという記憶は全くない。今思うと、とっても不思議な気がします。と与田さんが答えた。

熱帯のジャングルというと日本人は、うだるような蒸し暑い日々と、蚊などの害虫に悩まされる日本の夏を思い浮かべ、それ以上に苛酷な世界だろうと想像するだろうが、旅行中の現地では、そんなことをちっとも感じさせない日々だった。

ちなみに、湖の水は酸性なので蚊は湧かないそうです。

虫の心配よりも、多くの観光客は日焼けに悩まされていた。日本人の僕はへっちゃらだったが、白人なんかすぐに真っ赤になってとても痛々しかったよ。

そして、服と履き物の件だけどと、話し始めて与田さんは、その前にネヲンさん、僕が体験したこの旅行は、日本のツァー会社が募集する安直なインスタントのツァーとはまったく趣が違うものだから、しっかり頭を切り換えて聞いてね、とことわりを入れた。

まず履き物ですが…、

水遊びといえばビーチサンダルですよね。だからといってネヲンさん、ひと夏限りの安物のスポンジ製のビーチサンダルを想像してはダメですよ。

あんなものは大自然のなかでは使い物になりません。代表的なやつはアメリカのクロックスブランドの合成樹脂製サンダルですよ!

ただ、僕が履いていたのはイタリア製でしたが、底が頑丈で足首とつま先が固定できたのでとても便利でしたよ。

また履き物といえば、ここのホテルでは、日本の旅館・ホテルのように館内ではスリッパ、外出時は下駄というように、いちいち履き替える必要がないのでとても快適だった。

だって、床が汚れていても気にならず、シャワーを浴びるのもサンダル履きのままでOKなんだもの…。

それと、旅行中に身につけていたのは、おもにTシャツと海水パンツでした。なにしろ熱帯ですからね。あっ、もちろん、海水パンツはロングのヤツでしたよ。

若いということは素晴らしい。ベッドにもぐり込んだと思ったら、あっという間に朝が来た。

いよいよエンジェルフォールにむかう日が来た。

出発の際にガイドから指示があった。帰りは明日になるが、最終的にはまたここへ戻るので、貴重品と余分な荷物の類は、すべてフロントに預けて置くようにと…。

そんな訳で、身なりは相変わらずTシャツにロングの海パンという気軽なスタイルでした。

いくら熱帯のジャングルの旅とはいえ、そこはそれ一泊のツァーなので、夜の備えを怠ってはいけないので、長ズボンと長そでシャツ、それと、防寒用のジャンパーなどをザックに詰め込み背負った。

身の回りの手荷物はこれだけであった。

やがて、まるでオランウータンかチンパンジーの集団かとみまちがうような我々ツァー客たちは、旅の第一歩を踏み出した。

エンジェルフォール行きの舟(木造なので船ではない)に乗るために、きのう遊んだ滝のところにある船着場へむかった。道のりは20分ほどである。

ホテルを出るとすぐにガイドは、これから皆さんをパラダイスにご案内しますといった。

謎のパラダイス
お店

それを聞いた僕は、極彩色の蝶や小鳥が飛び交い原色の花々が咲き乱れる熱帯のジャングル園を想像した。

しかし、案内されたところは、僕がきのう泊まったホテルのすぐ裏手にあるごく普通の小屋で、裏手には現地人の小屋が幾つか建ち並んでいるぞと思って見ていたうちの一軒だった。

外見はただの小屋でしたが、実は、そこは売店だったのです。

ガイドに案内されるままに立ち入ると、屋内(おくない)はとても薄暗かったが、ややして目が慣れると、そこにはさまざまな生活雑貨や食料品が無造作に並べられていた。

僕は、なんでここがパラダイスなんだと、いぶかしんだ。「ネヲンさんだってそう思うでしょう」だってこの建物ですよと写真を指差した。

しばらくして僕は、ガイドが言ったパラダイスの言葉の意味がようやく解った。

実は、ここは国立公園内なので、法律により、ホテルの館内以外でのアルコール類の販売は一切禁じられていたのだ。

だから僕は、エンジェルホールツァー中の二日間は禁酒を覚悟していました。

が、ここで買えたのです。ビールが!!!

嬉しさがこみあげてきて、さらに気分はウキウキとなりました。あっ、ネヲンさん、僕はアル中ではないので心配は無用ですよ。

これに応じて湯ノ街ネヲンが聞いた。

「貴重品はすべてフロントに預けたのでは?」と、

「その通りです!」と言って、与田さんが話を続けた。ガイドの指示があって、お金は、すべてホテルに預けました。だから僕は、本当に一銭も持っていませんでした。

が、店内に入るとガイドが言った。ここでの買い物の代金は、すべてガイドが立て替えますと…。勿論、僕だけでなく誰にでも貸してあげると言った。

狭い店内は昨日のツァーで顔見知りになった人達で溢れかえった。それぞれが夢中になって買物していた。

そのときふと僕は、店の片隅でなにやらひそひそ話をしている、身体の大きなメキシコ人の夫婦とガイドのことが気になった。

なにやらコソコソと悪だくみをしている雰囲気だったからである。

声は聞こえてくるが、もちろん僕には、話の内容は全く解りません。その会話がスペイン語で交わされているからです。

余談ですが、南米の国々の人達の日常生活は、スペイン語で成り立っています。

そして、これらの国々の人達は、英語を理解しようという考えは全くないそうです。だから、このメキシコ人夫婦が喋っているは、間違いなくスペイン語なのです。

英語がやっとの僕には解らなくて当たり前です。だけど僕には、密談という雰囲気が伝わってきたので、そしらぬ顔で様子を窺っていた。

そのうちガイドが、店の人に何かを告げた。

すると、なんと、なんと!!!

いったん店の奥に消えた店主が、さりげなくウィスキーをぶら下げて再びあらわれたではないか。

これで商談成立かと思いきや、ウイスキーを目のまえにしてメキシコ人の態度がちょっとおかしかった。

その様子から察するに、ウィスキーの値段を聞いて買うかどうかで迷っているようだった。

このとき、酒好きの僕のカンが働いた。その一角にそっと近寄った。

そして、「オレもウィスキーが飲みたい!」と、単刀直入にガイドにせまった。

ガイドは慌てる様子もなく、僕のこの要望を店主とメキシコ人とに通訳をした。

するとそこへ、オランダ人も寄ってきて、オレも飲みたいと言って参加を求めてきた。

酒飲み同士、相通じるモノがあるらしい。結局、3人の割勘でウィスキーを買うことにした。

お金をホテルに預けてしまった僕とオランダ人はそれぞれ持ち合わせがなかった。

それを知ったメキシコ人は、なんと、リュックの中からごそっとキャッシュの束を取り出して、二人分を立替えて代表でウィスキーを買った。

その代金は、エンジェルフォールから戻ってから、それぞれが、メキシコ人に払うということで決着した。国際的な闇取引が成立した瞬間である。

ちなみに、この時の様子から、このメキシコ人夫婦は相当なお金持ちらしかった。

もう一つおまけに、このウイスキーの値段は、日本円で千円ちょいだった。僕はこのとき、日本人はとっても凄いと思った。

6. ラテン系の人たち

「ところで与田さん」と、湯の街ネヲンは問いかけさらに続けた。「そのツアーガイドはなんでそこまでするの? 国民性かい?」

だって、この先に売店がないことを知っているんだから、お客さんを売店に案内するのは解るが、みんなの買い物の代金を立替えたり、与田さんたちの闇取引の仲介をしたりとか、やけに親切じゃない?

「ネヲンさん、ネヲンさんともあろうお人がなんてことを言うの…」と与田さんは、そんなことは百も承知だろうと、湯ノ街ネヲンをにらむようにして言った。

「でも、もし僕が旅行業者でなかったら、僕の心にはずっといいガイドさんとして残ったと思う」とも言った。

二人は顔を見合わせ、旅行業者って職業は世界共通なんだとニヤリとした。今二人は、旅行業界の収益の上げ方が万国共通だという話をしています。

皆様方の楽しい旅行に少々水をさす話しになるかも知れませんがご勘弁ください。どこの旅行会社の添乗員も親切な理由をお話します。

この話で二人は旅行業者って職業は世界共通だということを知った。

すなわち、旅行業者は、売店等での物品の販売高に応じてマージンをとることを生業の一つとしている。それが万国共通であることを知ったのである。

が二人は、そのマージンの算出方法に、お国柄が出るということを知って面白いと思ったのである。

日本人は基本的には性善説に支配されているので、店主の自己申告を信じて黙ってマージンを受け取る。

しかし、南米のこのガイドさんは違った。たぶん、他人は信用できないという考え方なのであろう。だから、売り上げ代金をたて替えるのである。

ガイドさんのとったすべての行為・行動が、商店のオヤジさんに手数料の対象である売上金額をごまかされないための方法だったと考えれば納得できるでしょう。

二人は、いつでも何処でも、考えるヤツが勝つということを知ったのです。そのために、お互いおおいに学習しどこまでも高め合おうと無言で語りあったのです。

ツアーの話に戻ります。

それぞれが欲しいものを手にしたツアー客達は、商品をぶらぶらとさせながらゆったりと歩き始めた。しかも大きな声で喋りながら…。

このツアー客達は「キビキビ」とか「先を急ぐ」とかという言葉を知らない一団のようであった。

20分ほど歩くと昨日遊んだ滝のそばにある船着き場に出ました。

きのうの観光は、湖のまわりを周遊するということだったので、ちゃっちい舟だな~とは思ったが、それ以上のことは気にもとめなかった。

が、今日は違う。日本では想像もできない未開のジャングルの奥深くに突入するのだ。どんな船で行くのかと気になった。

僕はその場に到着して我が目を疑った。なんとそこには、きのう乗った舟と同じ型の舟が、ただ、ゆらゆらと繋がれているだけだった。

僕は、えぇ~っと思いながらそのボートのような舟をまじまじと見た。

それは、日本の観光地の湖でよくみる手漕ぎボートを少し長くしただけのものであった。

もちろん木造舟である。全長は5~6m位である。幅は二人並んで座るのがやっとである。

もし、途中でワニや大蛇に襲われたら…、と想像したら僕は少々ビビった!

僕のそんな不安な察してかどうか、船頭さんは真剣な顔つきで我々一行を見回していた。

もしもの時は、覚悟してくれとその目はいっているようであった。

そうこうしているうちに船頭さんは、男だとか女だとか、また、グループだとかにはお構いなしに、一人ずつ指さし招き、舟の座席を指定し有無をいわせず着席させた。

座席といってもただ板を渡しただけのベンチであった。

この時の船頭さんの判断は非常に重要であった。小さい舟である。当然、舳先のほうから順に座らせた。

我々総勢14、5人は、船頭さんの指示に黙々と従った。

前後・左右のバランスを考えて全員がうまく座らないと、舟が、簡単に転覆してしまうだろうということが、誰の目にも明らかであったからだ。

ツアーの中間達(舟の乗客)
舟の乗客

いよいよエンジェルフォールの旅が始まった。しばらく舟は何事もなくすべるように進んだ。隣に座ったガイドが、カナイマ湖から目的地に向うカラオ川に入ったことを教えてくれた。

でも、そこの川幅はとてつもなく広く100メートル位はゆうにあった。僕には、湖と川の区別がつかなかった。

僕は、外国人に比べて身体が小さかったので、一番前の席にガイドさんと一緒に座った。

舳先の尖がった場所には、長いサオを持った船頭さんの息子らしき少年がちょこんと座っていた。

暫く川を遡って行くと、逆「くの字」型に大きく折れ曲がるような場所に出た。マコバの早瀬と呼ばれる場所である。

ボートはこの曲がり角の少し手前で接岸した。ガイドの指示で全員が船を下りた。

ガイドは下船の理由を、この先この川は、浅瀬となり急流となるので危険を避けるためだと言った。

が、僕は、浅瀬が長く続くので多くのお客さんを載せていたのでは、重量オーバーで舟底をこすって進めなくなるからだと思った。

岸に上がった我々の一行は、幅3メートルほどの草むらの中の道を歩いた。逆「くの字」に曲がった川を、ショートカットするように歩きました。

ジャングルを歩く
けものみち

今日まで僕は歩くということを深く考えたことが無かった。歩くことは、世界中の人々がみな同じ行動をとるものだと思っていたからだ。

でも、人類共通の行動である歩くということにも、国民性があるということを知った。とても愉快であった。

僕とオランダ人とイスラエル人の三人は、共に、シャキシャキと歩いて、とにかくどんどん先へと進んだ。

しかし、残りのラテン系の人達は、おしゃべりをしながらダラダラと歩いていた。とにかく、飽きもせずよくおしゃべりをする人達です。

そんな訳ですから、後ろを振り返ってみると、アッという間にその一団の姿かたちが見えなくなりました。

この日また一つ新しいことを知った。

日本人にはとうてい考えられないことだが「30分ほど歩けば、目的地に到着します」という案内方法が通用しない世界があったのだ。

僕たち普通に歩いた三人は、途中、エンジェルフォールから帰ってくるツアーの一団とすれ違ったりしながら、予定通り30分程で、再びボートに乗り込むという川岸に着いた。

が、残りの人達は、歩くスピードが相当違ったのか、20分以上待ってもやってこない。

ラテン系の人達は、生きることを楽しんでいるようであった。とにかく、あくせくしない。僕たち三人のことなど眼中にないようである。

彼等彼女達は、到着するやいなや、みんながめいめいに座り込んで水をがぶがぶと飲み始めた。

ところで水といえば、ここでの飲料水はすべてミネラルウォーターである。

それは常にガイドが充分に用意していて、いつでも誰でもが自由に好きなだけ飲めました。

僕たち三人は、大らかなラテン系の国の人達を待ったこの僅かな間に、いろいろな会話を交した。

例えば、背丈が195センチもあるというオランダ人に、僕は、ピーター・アーツ(オランダ人の K1 選手)のファンだというと、彼は、頭の上10センチ位のところに手をかざし、ピーター・アーツは僕よりこんなに大きいよと言った。

僕は、改めてオランダ人って大きいんだと感心した。

そして、日本人の平均的な若者ぐらいの背格好のイスラエル人に、いつかあなたの母国イスラエルに行ってみたいと話しかけたら、余程、嬉しかったのか、地図を書きながら丁寧にお国のことを説明してくれました。

イスラエルは小さい国だから10日もあれば全国隅々まで回れると言って笑いました。

ともかく二人とも、すらっとしたスポーツマンタイプで、僕を含めたほかのツアー参加者とは明らかに体つきが違っていました。

また、オランダ人が、去年はコロンビアに行ったというので、そこの様子をたずねると、彼は、今まで行った国の中で一番やばいところだったと答えた。

そして僕が、ここへ来る途中に一泊したカラカスへは行ったのか?、と聞くと、急に真顔になって、あそこはやばすぎるので絶対に行かないと言った。そして、僕にもカラカスだけは行くなと、真剣に忠告してくれた。

夢中になって話をしているあいだにフト気が付いたことがある。会話の途中では、英語だとかスペイン語だとかという言語の意識が全くなった。

そして、単純だけど、ああ人間って、みんな同じ人類なんだなと…、思った。

振り返ってみれば、もちろん、その間だけだったけど…。

7. 幸せの滝つぼでランチ

舟はジャングルの奥へ奥へと、コーヒー色をした川面のうえを、どんどん、どんどんと進んだ。

そこは見るもののすべてが未知の世界であった。瞬きを忘れそうであった。

この頃になると、先ほどの心配事などはどこかへきれいサッパリと吹っ飛んでいた。あっという間に時間が過ぎさった。

我々の乗った舟は、行く手の左側から合流してくる小さな川の岸辺でとまった。「幸せの滝つぼ」と呼ばれる所であった。

ガイドが、ランチをとり、水遊びをするところだと説明した。

さあ、水遊びだ、ランチだ!
下船中

舟を降りると、そこは平らな岩場になっていたが、その面積たるや想像を絶する広大で、その一角には、スベスベとした巨岩がせり出していた。

その上から、薄手の白いカーテンのように巨岩を包み込むようにして水が流れ落ちていた。大きな大きな半円を描いたような滝だった。

その滝の落下点には、もう一つの川が流れ込んでいて大きな滝つぼになっていて、いわば、超・超・チョ~巨大なウォータースライダー付きの天然のプールのようなところでした。

日本では水遊びというと、庭先にビニール製のプールを置いてパチャパチャとやるやつだが、ここでの水遊びは桁違いである。

そのスケールたるや、男女だとか年齢だとか、ましてや国籍などは全く関係なく、すべての人間が大自然のなかで等しく神の子となるほどである。

僕も神の子となって、滝に打たれたり、岩の上から滑り降りたりして、大はしゃぎをしながら思う存分遊びほうけた。

みんなで無邪気にひと遊びしたあとは、日よけ用の覆いだけという、いわば天然のレストラン会場のようなところで、パンと質素な器に鳥肉と野菜だけが無造作にもられただけのごく簡単なランチをとった。

そこは、さしずめ川の中のドライブインのようであった。別のツアーのボートも入ってきた。

未開の広大なジャングルの一角の河岸で、子供のように大はしゃぎをしながら水遊びをした。

大自然のなかで遊びほうけるというほど愉快で爽快なことはない。

圧倒的な樹木や岩石や岩畳、そして、豊かな水流、人造物が視界を遮ることのない大きな青空の下で昼飯を食った。

すきっ腹にかっ込むメシほどうまいものはない。

腹ごしらえをした我々ツアー客一行は、再び、パック詰めにされた鶏卵のように行儀よく並んでボートに着席した。

ボートはエンジェルフォールをめざし、広々とした川面を滑るように走り出した。

船のへさき
船のへさき

舳先には船頭さんの息子とおぼしき少年が足をブラブラとさせながらチョコンと座っていた。長い竹竿で水面をピチャピチャと叩きながら。

ガイドに親子かと尋た。ガイドは大きなこっくりをした。穏やかな日よりの大自然は、すべてのもをゆったりとさせ、人々の心をのんびりとさせる。

この船頭さんの親子を見ていると、文明社会もいいが、大自然に抱かれながら親子仲良く生きている姿もとても素晴らしいものに思えた。

心地よい遊びの疲れと満腹感からか、僕は、ふるさとの里山で寝ころんでいるかのような気分になった。

心の底から大自然を満喫した。

日本人の旅行観のなかでは、旅先での食事の良し悪しなどが、とても大きなウエートをしめている。

極論を言えば、旅行とは、豪華な料理を食べに行くという感がある。

ここで僕は、その日本人流の旅の組み立て方が明らかに間違っていると思った。

今日のランチはとても質素であった。しかし、不満は少しもなかった。たぶん、ここが文明社会とは全く違った未開のジャングルの真っ只なかだったからだろう。

ざっくばらん言えば、今、我々は冒険旅行をしているのだから、腹はくちくなればいいだけのことで、美味い不味いは問題外であった。

それより何より、ここには、食べること以外に興味をそそられることが山ほどあったからだ。

食後のうたかたなひとときが過ぎ去った。

ふと我にかえると、ボートはとてつもなく広大な川面を進んでいるのに、なぜか、我々を乗せたボートは左岸に添って走ったり、右岸に寄ったりしながら進んでいることに気がついた。

僕は一瞬「船頭のヤツ、酔っぱらっているな」と勘ぐった。

もし、素面(しらふ)であるならば、こんなに広い川なのだから、真ん中をフルスピードで進むハズであると思ったからだ。

僕は、疑問を解決しようと、最後尾の船頭のほうを振り返った。

しかし結果は、小柄であるうえに一番前の席に座っていた僕には、すぐ後ろの大柄で陽気なラテン系の人達の姿しか見えなかった。

が、???、どこからか得体の知れぬ緊張感が伝わってくる。ナンだナンだこの緊張感はと、僕は、全神経をそばだてた。

ナンと、その緊張感は、お父さんの後について、ただ遊んでいるだけの子供だと思っていた舳先の少年が発していた。

ジャングルを進む
アマゾン川

僕は、川とは岸辺から中央にむかって必ず深くなっていて、大きな川ほどこの傾向は顕著なモノだと思っていた。

それは、僕が今まで急流で名高い日本の川しか見たことがなかったからだ。ここでの体験で、その考えが間違っていることに気がついた。

なんと、ここの川底は、地表を覆うような巨大な岩盤になっており、端から端までほぼ平坦になっていた。

そう、板の上に水を流したような状態の川だったのです。

川の中央部分が必ずしも深いとは限らないということに気が付いた。そして、突然、ボートが進路を変更するワケにも合点がいった。

父親の後を追ってボートに乗り込み、長い竹竿で水面をたたきながら遊んでいるものだとばかり思っていた少年が、実は重要な任務をこなしていたのだった。

少年が微妙なタッチで動かす竹竿のあとを追った。

少年が竹竿でたたく水面に目を凝らした。川底の岩盤に、大小無数の亀裂が無秩序に走っているのが見えた。

船頭さんは、その岩盤の裂け目に沿ってぬうように進路をとっていたのだ。

いわば、川底にできた無秩序な道筋を選んで進んでいたのです。

船頭さんには、この川底の道がすべて頭に入っている様であった。

そして船頭の息子は、不慮の事故を避けるために、舳先に座って長い竹竿を使って、川底の状況をチェックしていたのだ。

時折、何か変わったことがあると、最後尾の父親にその竹竿をかざして合図を送っていた。

改めて、息子の動きとボートの進み具合をみると、とても良く息の合った親子であることが伝わってきた。

船頭が酔っぱらっているのかと思ったのは間違いだった。優秀な船頭親子の操るボートであった。

8. 神秘の絶景、感激の絶景

我々一行を乗せたボートは、熱帯雨林のなかを網の目のように縫って流れる、南アメリカで第三の大河であるオリノコ水系の一つであるカラオ川の広大な川面を快調につき進んでいた。

しかし、僕には地形的なことはさっぱり理解できなかった。

それは、左岸は濃い緑色の木々ですべてが埋め尽くされたジャングルであり、前方は見渡す限りの川面、そして、右手にも延々とジャングルが続くだけであり、さらに上空を見上げても、そこには、ただ空があるだけという世界だったからです。

僕たちは、ベネズエラ南東部に位置する世界最後の秘境といわれるカナイマ国立公園にあるギアナ高地の台形状の山々・テーブルマウンテンを目指して進んでいた。

もちろん、世界最大級の滝・エンジェルフォールをこの目にしっかりと焼き付け記憶に残すためです。

テーブルマウンテンとは、地盤のやわらかい部分が風雨で削り取られ、固い地盤だけが台形状に残った山だそうで、ここ以外には、南アフリカのケープタウンを見下ろす位置にあるテーブルマウンテンが、有名だそうです。

このときの僕は、ひとときも気の抜けない危険な川面を懸命に操船する船頭さん親子をながめやりながら、映画やテレビで見た、アマゾン探検隊の隊長気分になって、あれこれと危険回避の指示をしているよう錯覚におちいっていた。

やがて広大な川面は徐々に狭くなってきた。ここでいっている、川幅が狭くなってきたというニュアンスは、日本でのそれとは全く意味が違います。

依然として、河口近くの信濃川や利根川ぐらいの広さがあったからです。

やがて隣に座っていたガイドが、間もなくエンジェルフォールへのベースキャンプに到着する、と教えてくれた。

それを聞いた僕は、未開のジャングルの中にどんな村落が出現するのかと、期待に胸躍らせてあたりに眼を凝らした。しかし、川の両岸には、屋根と柱だけの建物しか見えなかった。

あたりは依然として広い川の中流域の風景であったが、そんな場所でボートは停止した。このツアーのボートの終点であった。

そこには粗末な桟橋さえもなかった。船を降り自力で浅瀬をジャブジャブと渡り、そのままジャングルに入った。

ジャングルに入ると、すぐにガイドが立ち止まりナニかをそっと指差した。

ホバリング中のハチドリ
ハチドリ

ガイドの手元を必死に見ると、そこにはヘリコプターがホバリングしているかのような、小さなハチドリがいた。

ず~っと同じ位置で泊まっているようなハチドリの鮮やかな羽の色が、森の緑ときれいな水の流れにマッチして、それはとても美しかった。

シャッターを押した僕には、いまでもそのときの情景が目に浮かびます。

さて、下段のエンジェルフォールは、所謂、インスタントカメラで撮ったものです。

残念ながら足跡を残すのみで臨場感というモノが全く表現できていません。この時ほど、カメラを紛失した自分自身のことが情けなく思ったことはありませんでした。

さて、一時間ほどゆるやかな坂道を登ると、突然、目の前に大きな岩山が立ちはだかった。

エンジェルフォール
エンジェルフォール

その岩山の岩肌に取り付くようにして急斜面を100メートルほど登ると、そこは、断崖絶壁に突き出した広く大きな岩畳で、清水寺の舞台のようでした。

ここまで舞台裏みたいなジャングルのなかを歩いていたので、まったく気が付かなかったが、ふと見やった先には、なんと、エンジェルフォールの一大パノラマが広がっていた。

そして、この眺望の舞台が今回のツアーの最終地点でした。

ここで僕が初めてエンジェルフォールを目にしたときの印象は、どういう訳か、山頂を征服したときのような、晴れやかですがすがしい感動とか感激というものはなかった。

エンジェルホールと一人静かに対峙している僕の心の中には、なぜか表現のしようがない昔なじみのものと、物静かな対面をしているという感じでした。

それはたぶん、太古の昔からの変わらぬ威容でそそり立つエンジェルフォールの神秘な姿を仰ぎ見たからだと思う。

そして、こんな気分はかってあじわったことがあるぞと、ふと僕は思った。

そして、思いあたった。

西国三十三観音の一番札所、青岸渡寺から那智の滝を見たときのことだった。

青岸渡寺と那智の滝
青岸渡寺と那智の滝

我々が滝といえば、高所から轟音と共に大量の水が飛沫をまき上げながら落下してきて、滝つぼに激突している様子を想像すると思います。

ところがエンジェルフォールは、僕たちが今まで見てきた滝から想像する滝とはまったく違っていました。

まず第一に、とにかくエンジェルフォールは、とてつもなく大きくて、とてつもなく高いところに存在しているということです。

そして、不思議なことは、超巨大な滝なのに水の落下する音が全く聞こえないということです。

確かに僕達が立っているこの場所は、エンジェルフォールから500メートルも離れていますが、写真でご覧のとおり、僕の視界の大部分はエンジェルフォールが占めています。それほど巨大なのです。

なのに、聞こえてくる音はといえば、谷底から沸き起こってくる轟音だけなのです。

不思議な現象に、首をかしげながら眼を凝らしてよくよくエンジェルフォールを眺めると、それは、遥か上空から巨大な水流が落下しているように見えたが、実は、水流が落下していたのではなかったのです。

なんと、ものすごく濃密な霧の塊が、山の頂上から地表まで巨大な一本の柱かカーテンのようになっていたのです。

だから、いわゆる滝特有の水が落ちる音が聞こえなかったのです。

いわば僕たちには、エンジェルフォールが見せる無声映画のスクリーンを仰ぎ見ていたのです。

このとき僕は思った。青岸渡寺からの那智の滝とエンジェルフォールの神秘さは、見る人達に、強烈に自己主張するかのような滝特有の轟音を消し去っているからだと。

エンジェルフォールは、このように一旦消し去ってしまったかのよな轟音を、今度は、一気に大音量に増幅して観客に聞かせ驚かせてくれました。

それは、滝の水をいったん濃密な霧に変え、静かに地表にしみ込ませ、それを今度は、ひとまとめの莫大な水量にして一気に地表に噴き出させるのです。

エンジェルフォールの滝壺
エンジェルフォール

その轟音の舞台は、エンジェルフォールを見渡す僕たちが立つ岩の上からは、ゆうに200メートルはあった。

ここでは、あの地表にしみ込こんだ水が、岩盤の隙間から一団となって一気に噴出して、轟音と共に激流を作り出すのが見られるんです。

とてつもない第2の源流の誕生の瞬間でした。

圧倒的なエンジェルフォールの自然景観にけおされ、僕は息を凝らしてただ呆然と立ちつくしていた。

どれくらいの時が過ぎたのだろうか…、ふと我に返りあたりを見回せば、この舞台に立って地球の神秘な絶景を独占していたのは、僕とオランダ人とイスラエル人のたった三人だけだった。

なにごとにも勤勉な国民性を発揮するものたちだけであった。

しばらくして探求心旺盛な国民性がそうさせるのだろうか三人は、はるか谷底から沸きあがる轟音をも意に介せず怒鳴りあうようにして話しあった。

「ここから滝まではわずか500メートル位だ、なんとかすれば滝壺までたどり着けるはずだ!」と、オランダ人が口火を切ったのだ。

僕とイスラエル人は「そうだ、そうだ!」と、なんども相槌をうった。

三人が身振り手振りで夢中になって話し合っているところに、相変わらず陽気な人達を引き連れてガイドさん一行が現れた。

やっと、のんびり組みのツアーの仲間たちも晴れの舞台に登場した。

そこで我々三人組みは、いまの相談ごとを早速ガイドさんにぶつけてみた。

するとガイドさんは、眼下の激流を指差しながら説明をした。

「あの川を渡らなければ滝へは行けない。見たとおり水量が多いいから、渡河はとても不可能だ!」、と我々にノーの判定を下した。

そして、水量が多いのは今が雨季だからで、乾季の12月か1月になれば、ここから40分もあれば滝壺まで行けるから、その時期にまたおいでと続けた。

9. 南米式ホテルと宴会

離れがたい場所であったが、去らねばならぬ時刻になった。帰路は来た道を真っ直ぐ戻るだけであった。

今度もやっぱり、オランダ人とイスラエル人がいち早く行動を起こした。

僕も負けじと続いた。

が、途中でたまらなく尿意がもよおしてきた。我慢の限界を感じた僕は、立小便をするために覚悟を決めてジャングルの中へわけ入った。

結果報告です。

ジャングルの中で不用意な姿をさらけ出しても害虫に襲われることはなかった。お陰でとても快適に小用を足せました。

帰り道とは、とても早く感じる。コレって世界中どこにいても同じ感覚だと思った。

出発点の船着場の戻った。ここは、エンジェルフォールへの上陸点でもあり、今夜の宿泊地(キャンプ場)でもあった。

いち早くエンジェルフォールをあとにしたオランダ人は、たぶん、後続を気にしながら歩いていたのだろう。

その彼が、僕を見つけるとビックリした様子で「速かったね!」、と西洋人特有のおおげさな身振り手振りを交えながら言った。

背の高い彼から見れば小人のようにみえる僕が、彼と同じ位のスピードで後を追って来たということが、信じられないといった顔つきであった。

僕たち先着の三人は、川で水遊びをしながらみんなを待った。

魚影を追ったり、小石で水切りなどをして無心で遊んでいたら、いつしか三人は幼なじみのような気持ちになった。

よく小さな子供達は、人種・国籍に関係なく、すぐにうち解けて遊びはじめるという。

大の大人も純真な心さえもてば、誰とでも、いつでも、どこでも友達になれるということを知った。

我々が川遊びにも飽き、ぼぉ~っとしていると、やっとガイドさんが皆を引き連れて戻ってきた。

ガイドさんは我々を見つけると開口一番「今夜の宿泊場所は、ここから約50メートルほど下ったところだ」と、説明した。

僕たち一行が、川の中をジャブジャブと歩きながら宿泊場所にむかっていると、なんと、いく手で手を振って、お出迎えをしてれるような仕草の女性達の姿が見えた。

さては…、日本の温泉旅館の「おもてなしの心」が、こんなところにまで及んでいたのかと僕はビックリ仰天であった。

しかし、この驚きもすぐに消え失せた。

僕たちを小高い台上で出迎えてくれたのは、ホテルの社員達ではなかった。何と、ここまで一緒に来た女性達のうちの4~5人でした。

そうです! 彼女達はエンジェルフォールまで行かなかったのです。

コレって…、日本人の僕にはとても凄いことだと思った。しかし、この驚きもまたすぐに消えた。

それは、まじまじと彼女達の立派な体格を見て別のことを思ったからだ。本当は彼女たち、エンジェルフォールまで歩けなかったんだと…。

彼女達はラテン系であった。出産後に、アッという間にあの素晴らしいプロポーションから相撲取りのような体型に変身したらしい。

さて、彼女たちが待つ小高い丘は、川辺から10メートルぐらい登ったところで、そこは、ほぼ平坦になっていて今夜の宿泊施設があった。

そこは、エンジェルフォールの絶好のビューポイントであった。

そして、この宿泊施設は、別名、ハンモックホテルと呼ばれている。

南米のホテル
南米のホテル

ホテルとは名ばかりで柱の上に屋根が乗っているだけの感じで、ハッキリ言えば掘っ建て小屋であった。

正面からは、周囲の木立が丸見えであった。側面は20メートル位の長さがあったが、腰ぐらいまでの高さの板が打ち付けられているだけであった。

謂わば、本物のオープン住宅というものであった。

ガイドさんに案内されてホテルに入ると、ハンモックが腰板にそって両サイドに、ずっらと天井からぶら下がっていた。その数、50~60個はあるようだった。

僕は見たこともないホテルにビックリして目を丸くして立ち尽くしていたら、ガイドさんが、今宵の睡眠場所だといって、すでに柱と柱の間にぶら下がっているハンモックをツアー客一人一人に割り振ってくれた。ハンモックには蚊帳もついていた。

超、簡単な部屋割りであった。

ともかく今夜の寝場所が確保できた僕は、早速、濡れた衣類を脱ぎ乾いた夜間用の衣類に着替えた。

濡れた衣類や靴や海パンは屋根をささえる梁に吊して干した。

ハンモックを広げて寝ごこちを確かめてみた。

ハンモックに目印を置いたりして就寝の準備を整えました。オランウータンになったような気分であった。

さて、余裕の出来た僕は、敷地内の諸施設をチェックすることにした。

トイレはホテル(小屋)を出て下流の方向にあった。

建物内に入ると、なかには3~4ヶ所の個室があったが、日本の公衆便所のように男女の区別はなかった。

そして、便器はもちろん洋便器であったが、日本のそれのようにかわいらしいものではない。頑丈そうでとてもデカイものであった。

また、日本人の神経ではとても座って用を足せるものではなかった。

ハッキリ言えば、とても汚かったのである。が、よその国の人達は全く平気みたいであった。日本人は桁外れの潔癖症である。

次にホテルの上流方向に足を向けてみた。

そこには、日本のキャンプ場でよく眼にするような、向かい合って20~30人が座れるような木製のテーブルがあった。

多分ここが今夜のレストラン会場だろうと想像した。

その先には、二畳ほどのスペースの厨房(正確には、炊事場)があった。そこではコックさんが大量の鳥をさばいていました。

そこからジャングル側に目を向けると、大量のマキを燃やしている人達が見えた。

そこは、煮炊きをする場所らしかった。きっと、さっきの鳥をここで丸焼にするんだなと思った。

その場に近づくとコックさんが上空を指さした。

エンジェルフォールの天辺
エンジェルフォールの天辺

コックさんに言われるままにその先を見やると、なんとエンジェルフォールの天辺がくっきりと見えた。

この地に立って目をこらし、エンジェルフォールをよくよく眺めると、確かに流れだしは滝だった。大量の水が落ちていく様子がよく見えた。

ところが、どの位いの距離を落下してからそうなるのかは見当がつきませんが、大量の水が、いつのまにか霧に変化してしまいます。

そして、一瞬でも目を離すとすべてが霧につつまれ、滝自体が消えてしまい、なんにも見えなくなるという不思議な光景が見られた。

しかし、しばらく待っていると、突然、霧が晴れて青空の中に、また、はっきりと滝が浮かび上がります。こんな景色の変化がゆったりと繰り返されています。

みんながそれぞれ写真を撮ったり景色を楽しんでいる間に、先ほどの煮炊き場では、マキを燃やして作った熾(おき)が積み上がり、真っ赤な炭の山になっていた。

コックさんがそのまわりに手際よく串刺しにした鳥肉を並べて立てていった。囲炉裏での鮎の塩焼きの超巨大版である。

あたりが薄暗くなってくるとランプに灯がともされた。

そんな時刻になった頃、別のツアーの一行が到着しました。

その中に日本人のように見える青年が一人混じっていました。

彼も僕のことを驚きの目で見ていました。そのとき僕は、彼がすごいカメラを持っているのを見て日本人に間違いないと思った。

ついに、あたりは真っ暗になりました。いよいよディナータイムの始まりです。

このディナー会場には、先ほどチェックした大きなテーブルが一つ設置されているだけであった。なのに、ゲストの数はテーブル席に比べてどう見ても多かった。

その理由は、いつのまにかもう一つのツアー客が合流して、みんなで三団体になっていたからだ。

僕は宴席のことでチョット不安な気持になった。僕たちは席にも付けず立ったままで待たされていたからだ。

そんな僕の気持ちを察したかのように、ガイドさんは、手際よく僕たちのグループを優先的に着席させてくれた。

残りの席には、どういう仕訳方かは解らないが他のグループの人達が座った。でも、まだ席を確保出来ない人達もいた。

どうやらここでは夕食が二回転で行われるらしい。

おあずけをくらった組ではなかったので、たいして気にはならなかったが、せっかちな日本人には考えられないディーナ会場の風景であった。

料理が並べられた。

先ほど見た鳥の丸焼きが一人半羽で味付けは塩のみであった。それと、ポテトのゆでたのとパンだけであった。

しかし、料理は質素だがここでのディーナは最高であった。それは「腹ペコ」という副食が盛り込まれていたからだ。

座席は一番端がガイドさんで隣が僕。向かい側にはあのメキシコ人夫婦とオランダ人とイスラエル人が並んで座っていた。

鶏肉をかじりビールを飲みながら、それぞれが、おしゃべりしながらの賑やかな食事が進むと、例のメキシコ人がガイドさんに合図をした。

ガイドさんは、こっそりとウイスキーを取り出しショットグラスに注いだ。

メキシコ人は、先の密約どおり僕やオランダ人にそれを勧めた。

ところが、ここでオランダ人は「オレやっぱりウイスキーはいらない」と、信じられないことを言った。

僕は「へー…」と、あいた口がふさがらなかった。

世界中で一番ケチと言われているのがヨーロッパ人達で、その中でも観光客としての嫌われ者はオランダ人であると、何かの本で読んだことがある。

こんな噂話には、チョットした根拠があることを知った。

それでも、そんなことには構わず気分も害せず宴を続けるメキシコ人は、根っから陽気な人達だと思った。

ここでは、ビールはコーラと同じカテゴリーに入るようだが、ウイスキーはやはり禁止らしくて、メキシコ人とガイドは、ほかのガイド等の目を気にしていた。

そして、席を次の人達に譲る時間となった。席は立ったが、みんなビール片手に立ったままで宴の続きを楽しんでいた。

すると、先ほどの日本人らしい彼が話しかけてきた。

酒が飲めるとはいいもので、僕がビールを勧めると彼はにこやかに今日ここまでのいきさつを話し始めた。

彼は今朝早くカラカスに着き、そこでエンジェルフォール行きのツアーに参加して、そのままカナイマから僕たちと同じようにボートに乗ってこのキャンプに来たのだと言った。

だから、エンジェルフォールには明日行くことになる。

ここでの行程はたったの一泊二日だけだが世界は大きい、これだけでも日本からだと一週間はゆうにかかる。

仕事を休めるのは、これが限度だからエンジェルフォールをみたらすぐに飛行機を乗り継ぎ、急いでとんぼ返りをするのだと彼は言った。

10. また、旅に出た

エンジェルフォール紀行の貴重な体験談を語ってくれた与田さんは、このあと自らの仕事をほっぽり出して、また、ふらりと旅に出てしまった。

今度はどこへ行ったのやら…。寅さんみたいな人である。

経済的に余裕のある人の特権である。でもそのうち、また、アッと驚くようなみやげ話をもって現れるだろう。その日を楽しみに気長に待つことにしよう。

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