エンジェルフォール
この物語は、まだ大学生だった与田さんが、当時、ホームステイ先のカナダで、英会話のマスターができずにもがき苦しんだ時代のほろにがい紀行記である。今となっては楽しい想い出だ!
- 前編
- 後編
1. 与田さんがやってきた
昨年は東日本大震災をはじめとして、わが国は多くの不幸に見舞われた。そのせいか、2012年は年が明けてもなかなか春がやって来なかった。
春とは、新しい芽吹きや蕾をそこここに見つけるたびに暖かさを感じるものである。春とは、一枚また一枚と衣装を脱ぎ捨てていくたびに、心の軽やかさも感じ取るものである。
しかし、今年の春は、いつものような心がうきうきする華やぎがなかった。
そんな年のゴールデンウィークあけに「湯の街ネヲン」の総案事務所に、お隣りの県で、旅行会社を営む「与田さん」が、遊びに来た。
ここは、湯の街ネヲンの事務所が入る○○ビルの一室で、緑の公園に面したとても静かなところである。
現在は旅行業界全体が受難の時代である。なのに、旅行業者の与田さん、晴れ晴れとした顔をしていた。
「ねぇ、与田さん、あなたのその元気はどこから…?」と、湯の街ネヲンがたずねると、
「僕は、学生時代に苦難の乗り越え方を、この身をもって体験したからです」と、こともなげな顔で答えた。
ネヲン「え、その若さで苦境脱出法を悟ったというのかい?」
「ええ、なんとなくですけどね…」と、与田さんが答えた。
ネヲンは「うぅ~ん…」と感嘆の声を漏らしつつ腕組みをしながらしばし考えた。そして、ここは一番、与田さんにいろいろなことを教えてもらうことに決めた。
そうなると、なんでも知りたがりの湯の街ネヲンは、相手の年齢などにはお構いなく、なんでもズケズケと言ったり聞いたりできるタイプであった。
「その学生時代の体験談とやらは後で聞かせてもらうとして、最初に、現在のこの旅行業界の困った状況に対する与田さんの考えを聞かせてくれる」とズバリと切り込んだ。
与田さん、単純で明快な意見を述べた。
まずは、今日までの旅行業界のビジネスモデルが終わったということをはっきりと自覚することです。
終わってしまったことにいつまでも未練たらしくしがみ付こうとして、この状況を小手先で回避しようなどというさもしい根性が先を見る目を曇らせるのです。
だから、すべてを一からやり直す気概をもって真正面から堂々とこの現状に向き合えばいいのです。そうすれば、この業界の問題点がはっきりと浮かび上がってきます。
相手の正体さえみえれば、答えは自然と出ます。
世の中に永遠の既得権なんてありません。これまで旅行業で飯を食ってきたから、これからも…、なんて考えは通用しません。
考え方を変えて、新たな気持ちで努力したもののみに生きる権利を与えられます。
旅行業界の人達の次の一手は、もう見えています。パソコンをいかに活用するかです。これしかありません!
この現実に目を背け、パソコンなんて嫌だとウダウダと理屈をこねている人は死(廃業)あるのみだ、と与田さんはキッパリと言い切った。
「やっぱり、パソコンか…、オレもそう思う」と、湯ノ街ネヲンも同調し続けた。
「ところで与田さん、パソコンの具体的な活用とは…?」
「決まっているじゃないですか、ホームページですよ、ホームページ!」
そして、さらに続けていった。「だから僕は今、ホーペジビルダーのソフトとワードプレスの本を買って猛勉強しています」
ネヲン「だったら、ホームページ制作会社に作らせたほうが早いんじゃない」と、余計な一言をいった。
与田さんは、一瞬、バカかオマエはという眼をして、「魚屋や八百屋(HP制作会社の意味)が作ったホームページで、旅行会社が戦えるわけがないでしょう!」、と与田さんが応じた。
そして続けた。「旅行会社のホームページは旅行のプロが作ってはじめて使えるんです」
剣豪の宮本武蔵でさえ、愛用の刀を携えていたでしょう。刀ななら、なんでもよかったなんて話を聞いたことがありますか?
見事に一本取られたが、そんなことに動じる湯の街ネヲンではない。むしろ、コイツ、若いのになかなかやるなと感心した。
ネヲン、聞くは一生の得、聞かぬは一生の損、という思考回路の持ち主であった。
2. カナダでの苦い思い出
話は戻るが、先ほどの「苦難の乗り越え方とやらを教えて」と、オレは興味津々で身を乗り出した。
「苦難の乗り越え方、そんなの簡単ですよ、絶望の中に希望を見つければいいのさ」と、与田さんはあっさりと言った。
「そんなこと言ったって、簡単には…」と、湯の街ネヲンがモゴモゴと言っていると…、
「まあ、口で言うほど簡単ではないが、自分のまわりにある数々の暗雲を一つ一つ取り除く努力をすれば、その先には、きっと希望の光が見える」ということだ、と与田さんは続けた。
「じゃあ、その学生時代の体験談をぜひ聞かせて」とオレは話の続きをお願いした。
与田さんは、今となっては楽しい想い出だが、当時は、たった一人でもがき苦しみ続けたという学生時代のにがい体験話をしてくれた。
「じつは僕、学生時代に英語の勉強をしようと、カナダでホームステイをしたことがあるんだ」というところから、その話は始まった。
カナダに渡って当初の3ヶ月は寝る間も惜しんで勉強した。朝は5時に起きて予習をし、学校での授業が終わると、もう一つの学校へも行きました。
そこで、なおも2時間も勉強をした。二校での勉強が終り、下宿に戻るとさらに復習や宿題にと精を出した。
僕のそんな努力が実りクラスの最優秀賞を貰った。ここまでは順調だったが、この後すぐに、どうしても乗り越えることの出来ない大きな壁にぶち当たってしまった。
その壁とは、ペーパーテストの成績はよかったが、話すこと(会話)が全く進歩しなかったことだ…。僕はかなり落ち込んだ。
だからといってカナダまで来て弱気になんかなっていられない。気を取り直し、二つ目の学校では先生を変えたりしてなお一層頑張った。が、なかなか成果が現れなかった。
特に、月に一度受けるトーイック(TOE I C)の点数が全く伸びなかった。先生に相談してみたが、先生も首をかしげるだけだった。
トーイックとは、国際コミュニケーション英語能力テストのことで、英語を母語としない人を対象としたもので、主催は ETS(米国の民間の教育研究機関)です。
同じ時期にホームステイしたほとんどの生徒たちが、長くても3ヶ月ぐらいで学校を変えたり、働きだしたりしていくの見ていて、僕も環境を変え気分を一新し再度やり直そうと考え、再挑戦のプランを練った。
そんな時、相談した先生の「頭を少し休めたら…」とのアドバイスを思い出した。そうだ、それが正解かもと思った。
そして、ここは一番、勉強以外のことにおもいきり羽根を伸ばしてみようと決めた。
タイミングも丁度よかった。カナダでは夏になると先生達もひと月の休暇をとったからだ。
そんな訳で、当初はカナダ中を旅行するかアメリカにでも行ってみようかと考えていた。
そんな折、以前クラスメートだった韓国人と街なかでバッタリと出会った。その彼が自慢げに南米旅行の話をした。
彼の話を聞くまでは南米なんて思いもよらなかったが、話を聞くうちに南米のことで頭の中が一杯になった。
そうだ、頭を休めるのには英語圏じゃない方がいい。また、今後こんなチャンスは二度とないだろうから、と自分で自分を納得させて、とにかく行けるだけ行ってみようと、無謀にも南米行きの行動を開始した。
そのときの僕の南米に対する知識は、本やテレビで見たエンジェルフォールとか、ガラパゴスやマチュピチュだけであった。
3. スケールの大きな気分転換
実は僕…。当時はだいぶ意気消沈していたうえに異国での一人旅、ただもう無我夢中で細かいことに気が回らなかった。おかげで大チョンボをやらかしてしまった。
たぶん、出入国のどさくさのさなかだと思うけどカメラを紛失してしまった。
南米へ出国する際のカナダのトロント・ピアソン国際空港で紛失したのか、ベネズエラのカラカスのシモン・ボリバル国際空港で盗難にあったのだと思う。
ベネズエラのホテルに着いて、一日の慌ただしさから解放され、ふと我にかえり荷物を探ったときには、すでに、カメラはなかったのです。
日本にいては、たかがカメラと思うでしょうが、未開の地ではインスタントカメラしか買えないのです。
おかげで、折角の大冒険をしたというのに記録の映像がほんの少ししか残っていません。残念なことです…。
与田さんは、数少ない写真の一枚を見せながら話を進めた。
このエンジェルフォールは、チョット見には「日光の華厳の滝か勝浦の那智の滝」のように見えますが、そのスケールたるや桁違いに大きいんです。
僕はギアナ高地の、979mの高さから流れ落ちるエンジェルフォールは「見に行く」というよりは「探検に出掛ける」と言った方が適切だと思った。
それほどこの旅は、日本人が持つ物見遊山の旅のイメージとはおおきく異なってた。
エンジェルフォールへの旅(探検)をするには、まず、その前衛基地となるカナイマという村に行かなくてはならない。
ここで体勢を整えて目的地へ向かうのです。
カナイマまでは、プエルト オルダス空港から四人乗りのセスナ機で1時間20分はどかけて行った。なにしろ道路が無いので飛行機で行くしかないからだ。
セスナ機からの視界は、上空の青空と眼下の延々と広がった緑のジャングルの二色の世界になってしまった。
青と緑の世界は、日本の白と黒の墨絵のような雪景色とおなじで、口では言い表せない、緑と青の素晴らしいコントラストの世界でした。
乗客は、僕とイギリス人の新婚さんだった。だから、当然、僕はパイロットの横の席であった。
思い出はそれともう一つ、この新婚さんがまたとても格好良かった。インディージョーンズみたいな、サファリスタイルのペアルックでさ…。
カナイマの空港に着陸してビックリした。なんと、そこの滑走路は山奥の道路みたいにただ土をならしただけであった。
ここに着いてはじめてセスナ機に乗った意味が解りましたよ。
飛行機が止まると現地の人達が数人集まってきた。尋ねられるままに名前を言うと、僕とイギリス人の新婚さんは、二組(?)に分けられた。なんと同じセスナ機で来たのに…。
そのことを知ったのは、ガイドさんが別々に歩きはじめたからである。
この三人でずっと行動を共にするものと思っていた僕はチョット違和感を感じた。
ガイドに、空港から歩いて5分位のところにあるホテルに連れて行かれた。
ここでは、信じられないことの連続であった。
まず、部屋には窓がなかった。電気をつけないと真っ暗である。ただの、コンクリートで囲っただけという感じで、部屋というよりは牢屋ではないかと思った。そしたら、急に不安が募ってきた。
でも、シーツやタオルが清潔だったのを見てホッとした。その不安が少し和らいだ。
3. シモン・ボリバル国際空港
「チョ、チョット待ってよ、与田さん!」現地の怪しげなホテルにチェックインというところまで、話が一気に進んでしまったけど、面白そうな話なので先へ進む前にいくつか教えてもらいことがる。と言ってオレは与田さんの話しを遮った。
「まず、カナダからセスナに乗るところまでは、どうやって移動したの?」
「あ、ごめん。すこしはしょりすぎたね」と言って与田さんは、行程を少しまきもどしてくれた。
カナダからエンジェルフォールに行くには、まず、カナダ最大の空港、トロント・ピアソン国際空港へ行きます。
そこから、5時間20分ほどフライト時間をかけて、ベネズエラの首都・カラカスにあるシモン・ボリバル国際空港へと移動するんです。
予約した切符を見ると、カラカスへは夜中の到着となるのがわかったので、ホテルの予約はもちろんのこと、ホテルまでのピックアップ(迎えの車)も手配した。
ピックアップまで予約したのは、話しによるとカラカスは世界でも名高い危険な都市だったからです。
噂話どうりというか、到着が真夜中であったというせいか、空港に降り立つとそこには危険な匂が漂っていた。本能的に身がひきしまった。
でも、トロントからカラカスへの移動は、たったの5時間余りだったし、おまけに時差もなかったので、空の旅はとっても快適だったよ。
先ほども話したが、デジカメの紛失に気が付いたのは、カラカスのホテルにチェックインして、荷物を開けた時のことでした。
ベットの上にすべて荷物をひろげ、思い違いであるようにと祈る気持ちで、一つ一つの入れ物をすべてチェックした。どこで失くしたのかを思いめぐらしながら…。
そんなとき、ふと思い当たることが浮かんだ。カナダのトロントにあるピアソン国際空港での出来事です。
それは、テロ騒動以来、液体類は機内に持ち込めないということを、すっかり忘れてしまい、カナダで買ったアイスワインのセットを機内に持ち込もうとしたときのことでした。
禁止事項に気が付いたときは、すでに、荷物を預けてしまった後なので慌てふためいてしまった。
たぶん真っ青な顔をしていたのだと思う。そんな僕の様子に気がついたのか、とても親切な係員がいて、特別に段ボールを用意してワインセットを預かってくれることになった。
有難かった。まさに地獄で仏であった。
その時、あせる気持ちがいっぱいで荷物の入れ替えをした。パスポートやチケットなどの大事なもののほうにばかり気がいって、カメラを置き忘れたことに気がつかなかったのだと思う。
ベットの上で暫く思いをめぐらしていたが、残念ながら諦めざるを得なかった。
明日はここから、プエルト・オルダス空港を経由してギアナ高地への拠点、カナイマまで移動しなければならない。
気持ちを切り替えてはやばやと寝た。
翌早朝、迎えの車に乗って、シモン・ボリバル国際空港にむかった。空港までの移動中に見たカラカスの街並みは、昨夜の印象とはまったく違った。
とても爽やかで、世界一のヤバイ国という印象はない。いい旅になることの前兆であるような気がした。
ネヲンさん、ここからは、当時の僕が、ただ単に無気力なって現実逃避の生活をしていたのではない、ということを証明する話しだからよく聞いていてね。
と与田さんがことわりを入れ、シモン・ボリバル国際空港での出来事を話しはじめた。
僕はプエルト・オルダス空港行きのチェックインをしようと空港のカウンターに並んだ。その場の雰囲気が、何となく変化したことに気付いた。
変化の原因がナニが何なのかは、まわりの人たちの会話がスペイン語なので、僕には全く理解出来なかった。
その異様なものの正体を探るべく、僕は本能のアンテナを全開にした。
そうこうしているうちに、僕の前に並んでいた数人の人達が係員と話しながらどこかへ移動しようとするそぶりを示した。
それに気づいた僕はとっさの行動に出た。
移動を始めようとする人達のなかのひとり、大柄な男性の袖を引っ張って僕のチケットを見せた。
すると、その大柄の男性は、空港の係員にむかって何やら大声でワアワアと喋った。
僕にはなにがなにやらチンプンカンプンであった。そして、その大男は僕にも付いてくるようにと身振りで示した。
事の顛末は、僕の予約していた便が欠航であったのだ。
親切な外国人(僕から見て)のお蔭で僕は、同じ時間帯の他社の飛行機、それも、たった5人分の空席しか残っていなかった飛行機に乗ることが出来た。
これは、言葉が全く解らないという緊張感からか、五感が異常に研ぎ澄まされていた結果だと思った。本当にラッキーでした。
「無気力って、五感が働かない状態だよね。そうだよね、ネヲンさん!」と、与田さんが念を押した。
4. カナイマ湖畔にて
話は怪しげなホテルに投宿し不安に駆られてしまった、というところへ戻ります。
僕はカナイマ湖畔の怪しげなホテルに連れ込まれてしまったのでは、という不安から握ったこぶしに力が入った。そこが、あまりにも日本のホテルの様式とはかけ離れていたからだ。
少し経って解ったことだが、ここらのホテルは、どこも、これがごくあたりまえのスタイルのようだった。
日本の観光地とは全く趣が違ったので不安に駆られたが、ここは、れっきとしたギアナ高地観光の中心となる場所でした。
カナイマ村はエンジェルフォールへの玄関口で、エンジェルフォールへ行くには、ここカナイマに集結します。
エンジェルフォールへは、ここから水路を遡っていくしか方法がないからで、しかも、水量の豊富な雨季しか行くことができないからです。
僕たち日本人は、旅行とは必ず添乗員さんが寄り添ってくれて、道みち手取り足取り面倒を見てくれるものだと思い込んでいる。
さらに、旅行とは添乗員さんやバスガイドさんの指示に従っていれば、気楽で安心安全な旅が保証されると信じ切っていた。
僕は日本でのそんな旅行に慣れきっていたので、今回のように、すべてが自己責任という旅に面食らっていた。
道中幾つかの苦難に出会ったが、そのたびに歯をくいしばって頑張れたのは、目的地のホテルにたどり着きさえすれば…、という淡い期待があったからだ。
なのに、やっとこさカナイマにたどり着いたというのに、そこには、日本の旅館のように待っていてくれるはずの暖かさや安心感がまったくなかった。
見ず知らずの土地にたった一人で放り出されてしまったような気がして、余計に不安感に襲われた。
異国でしみじみと思った。日本の温泉旅館って、いいな~って。
ホテルの前で、別れ際にガイドが言った。「午後からは、ここカナイマ湖からカラオ川をボートで30分ぐらい下ったところにある、ユリの滝を見学に行くので、お昼なったら○○レストランに来い」と…。
神経が研ぎ澄まされてきた僕は、その言葉にすぐに反応して、腕時計の針の位置を確認した。そして、すかさず聞き返した。「その時刻まで、どこでなにをしてればいいのか?」と、
ガイドは、あっさりと答えた。「その辺で、ぶらぶらしていろ」と、異国に地でたった一人にされてしまった。
多くの人々は口々に自由を求めるが、本当の自由とは恐ろしいものだとおもった。
我々が求めている自由とは、しがらみだとか煩わしさの中での解放感であるとおもった。複雑な人間関係が急に懐かしくなった。
孤独な時間がゆるゆると過ぎて、やっと、指定されたレストランへ出向く時刻となった。
レストランへ入って一人ポツンとしていると驚くことがおこった。一気に孤独から開放された。
どこにいたのか、色とりどりの格好をした大柄で陽気そうな南米人らしき一団と白人らしき人が二人…、ざっと見渡したところ15~6人の異国人がぞろぞろと入ってきた。
このグループの人達と明らかに外見が違ったのは、僕とオランダ人とイスラエル人の男性の三人であった。
もちろん、彼等がオランダ人とイスラエル人であるということを知ったのはツアーの途中でのことです。
僕はこの場の雰囲気からして、この人達と一緒にエンジェルフォールへ行くのでは…、ということを察した。
南米の人達のグループに入り込む余地はなかった。
ならばと、僕は勇気を出して二人の白人にカタコトの英語で話しかけた。同じ環境下に置かれていたせか二人はすぐにうちとけてくれた。
異国でたった一人というのは案外厳しいものがある。そんな時、話し相手が出来たということはラッキーであり本当に心強かった。助かった。緊張感がほぐれた。
そのときの昼飯でナニを食べたのかは思い出せない。ただ、日本のレストランでとる食事とは大きくイメージが違っていた、という記憶しかない。
ボリュームはタップリであったが全体的な感じはごく質素だった気がする。
食事の内容の記憶がないのは、たぶんの周りの人達に気を取られていたからだろう。
手と口は食事を摂ることに使い、目と耳と脳はあたりの人達を観察するために動かしていたのだろう。
ほとんどの人達がスペイン語で陽気に会話をしていた。もちろん、僕はこのときスペイン語なんては解っていなかった。南米という土地柄と風体から、彼らたちのおしゃべりをそのように想像したのだ。
レストランでの昼食時間が過ぎると、思ったとおりここに集まった人達が一団となってツアーが開始された。
この日は、この近くにある「三つの滝めぐり」へと出かけました。
まずレストランの裏手から5分ほど歩いてカナイマ湖にむかった。湖はさすが南米だけあってとほうもなく大きく感じた。
この湖を一目見たときは水面が真茶色で、汚く濁っているのかと思った。まるで湖が紅茶かアメリカンコーヒーで出来ているかのような印象だった。
しかし、手の届くところでみるとすっごく透明であった。湖畔では透明な水が静かに波打っていた。浜辺の砂は淡いピンク色をしていた。
ガイドの説明によると、生い茂るジャングルの木々からタンニンという物質がが溶け出して、このような茶色になるとのことでした。
そこで、我々の一行は二組みに分かれて木製のボートに乗り対岸へ行った。30分はゆうにかかった。途中、大きな滝から大量の水が湖に流れ込んでいるのが見えた。
ボートを降りるとしばらく平らな道を歩かされた。やがてその道は細くなり山道とになった。山道を登りきるとそこは薄暗く轟音に包まれたジメジメとした大空間だった。
右手は断崖絶壁であり、左側は轟音と共に大量の水が落下していた。そこは、大きな大きなサポ(かえる)の滝の裏側でした。
水のカーテンなどという生やさしいものではない。想像を絶する水しぶきを浴びながら黙々と歩いた。
やっと滝の裏側を抜けだすと、そこには、かって見たこともない壮大で素晴らしい南米の景色が広がっていた。
大自然って広大でとっても凄いと思った。日本では大自然は美しいという表現をするが、それとは全く印象が違う。
帰路は、湖の岸辺にそっての歩きであった。
先ほどの裏見の滝から眺めた広大な自然のなかに溶け込むかのように歩き続けると、三つの滝のうちの一番おだやかなユリの滝の前に出た。
われわれ一行はその滝のおおきな滝つぼで子供のようにはしゃぎまわって遊んだ。大自然のなかで童心にかえることは、年齢や男女、人種を問わずみんな同じであった。
たっぷり遊んだあとの爽快な気分で一行は歩を進めた。このツアーは驚きの連続である。
歩くことしばし、今度はなんと往路、湖上から眺めたアチャの滝の上にでた。湖上からの景色とは真逆である。
今度は、滝の気持ちになって湖上をながめた。絶景かな! 絶景かな! であった。
そして最後は、ツアー会社が用意したホテルでの夕食をすませた後、それぞれが明日はいよいよエンジェルフォールだ、との想いを胸に各自の投宿先へ散っていった。
僕は一日の締めくくりとして湖のほとりに建つとあるホテルのバーに繰り出した。二人の若いバーテンを相手に一杯やってから、監獄のような部屋に戻り眠りにつきました。
一杯やったホテルは、僕が泊まるホテルより数ランク上でたぶんカナイマで一番であろうと思われた。それでも、日本の民宿かコテージのレベルです。
ホテルのバーテンの話だと日本人のツアー客もよく来るとのことでした。
でも、僕のいまの心境は、観光での心地よい疲れとアルコールの入った気分のよさで、眠れさえすればそんなことはどうでもよいことであった。
5. いざ、エンジェルフォールへ
「与田さん、眠りにつく前に教えてもらいたいことがある」とまたしても知りたがりの湯の街ネヲンが話しの腰を折った。
与田さんは、未開のジャングルみたいな所へ踏み入ったわけだよね。ところで、そこには蚊や虻、ヒルなどの毒虫がいっぱいいたんじゃないの。
そいつらに刺されたり食いつかれたりはしなかったの? と、聞いてさらに続けた。
それからさ、大きな滝の裏側をくぐり抜けたり、滝つぼではウォータースライダーみたいなことをやって遊んだんでしょう。
一日中そんなことをやっていたら大量の水をあびて、服や靴はもちろん、シャツやパンツまでグチョグチョになってしまったでしょう。
熱帯のジャングルは湿気も多そうだし気持ち悪くなかったの? と、ネヲンは現地での様子に興味津々であった。
「あ、ゴメンネ!」なにしろ話すことが一杯あって、ついついはしょってしまった。
で、疑問があったらその都度なんでも聞いてと、与田さんは快く応じながら話しを続けてくれた。
現地では、ガイドさんから特別な防虫予防の指示があったわけでもないし、また、僕自身もこれといった虫除け対策に気を使ったことは一度もなかった。
なのに、日本の夏ように蚊やハエなどに悩まされたという記憶は全くない。今思うと、とっても不思議な気がします。と与田さんが答えた。
熱帯のジャングルというと日本人は、うだるような蒸し暑い日々と、蚊などの害虫に悩まされる日本の夏を思い浮かべ、それ以上に苛酷な世界だろうと想像するだろうが、旅行中の現地では、そんなことをちっとも感じさせない日々だった。
ちなみに、湖の水は酸性なので蚊は湧かないそうです。
虫の心配よりも、多くの観光客は日焼けに悩まされていた。日本人の僕はへっちゃらだったが、白人なんかすぐに真っ赤になってとても痛々しかったよ。
そして、服と履き物の件だけどと、話し始めて与田さんは、その前にネヲンさん、僕が体験したこの旅行は、日本のツァー会社が募集する安直なインスタントのツァーとはまったく趣が違うものだから、しっかり頭を切り換えて聞いてね、とことわりを入れた。
まず履き物ですが…、
水遊びといえばビーチサンダルですよね。だからといってネヲンさん、ひと夏限りの安物のスポンジ製のビーチサンダルを想像してはダメですよ。
あんなものは大自然のなかでは使い物になりません。代表的なやつはアメリカのクロックスブランドの合成樹脂製サンダルですよ!
ただ、僕が履いていたのはイタリア製でしたが、底が頑丈で足首とつま先が固定できたのでとても便利でしたよ。
また履き物といえば、ここのホテルでは、日本の旅館・ホテルのように館内ではスリッパ、外出時は下駄というように、いちいち履き替える必要がないのでとても快適だった。
だって、床が汚れていても気にならず、シャワーを浴びるのもサンダル履きのままでOKなんだもの…。
それと、旅行中に身につけていたのは、おもにTシャツと海水パンツでした。なにしろ熱帯ですからね。あっ、もちろん、海水パンツはロングのヤツでしたよ。
若いということは素晴らしい。ベッドにもぐり込んだと思ったら、あっという間に朝が来た。
いよいよエンジェルフォールにむかう日が来た。
出発の際にガイドから指示があった。帰りは明日になるが、最終的にはまたここへ戻るので、貴重品と余分な荷物の類は、すべてフロントに預けて置くようにと…。
そんな訳で、身なりは相変わらずTシャツにロングの海パンという気軽なスタイルでした。
いくら熱帯のジャングルの旅とはいえ、そこはそれ一泊のツァーなので、夜の備えを怠ってはいけないので、長ズボンと長そでシャツ、それと、防寒用のジャンパーなどをザックに詰め込み背負った。
身の回りの手荷物はこれだけであった。
やがて、まるでオランウータンかチンパンジーの集団かとみまちがうような我々ツァー客たちは、旅の第一歩を踏み出した。
エンジェルフォール行きの舟(木造なので船ではない)に乗るために、きのう遊んだ滝のところにある船着場へむかった。道のりは20分ほどである。
ホテルを出るとすぐにガイドは、これから皆さんをパラダイスにご案内しますといった。
それを聞いた僕は、極彩色の蝶や小鳥が飛び交い原色の花々が咲き乱れる熱帯のジャングル園を想像した。
しかし、案内されたところは、僕がきのう泊まったホテルのすぐ裏手にあるごく普通の小屋で、裏手には現地人の小屋が幾つか建ち並んでいるぞと思って見ていたうちの一軒だった。
外見はただの小屋でしたが、実は、そこは売店だったのです。
ガイドに案内されるままに立ち入ると、屋内(おくない)はとても薄暗かったが、ややして目が慣れると、そこにはさまざまな生活雑貨や食料品が無造作に並べられていた。
僕は、なんでここがパラダイスなんだと、いぶかしんだ。「ネヲンさんだってそう思うでしょう」だってこの建物ですよと写真を指差した。
しばらくして僕は、ガイドが言ったパラダイスの言葉の意味がようやく解った。
実は、ここは国立公園内なので、法律により、ホテルの館内以外でのアルコール類の販売は一切禁じられていたのだ。
だから僕は、エンジェルホールツァー中の二日間は禁酒を覚悟していました。
が、ここで買えたのです。ビールが!!!
嬉しさがこみあげてきて、さらに気分はウキウキとなりました。あっ、ネヲンさん、僕はアル中ではないので心配は無用ですよ。
これに応じて湯ノ街ネヲンが聞いた。
「貴重品はすべてフロントに預けたのでは?」と、
「その通りです!」と言って、与田さんが話を続けた。ガイドの指示があって、お金は、すべてホテルに預けました。だから僕は、本当に一銭も持っていませんでした。
が、店内に入るとガイドが言った。ここでの買い物の代金は、すべてガイドが立て替えますと…。勿論、僕だけでなく誰にでも貸してあげると言った。
狭い店内は昨日のツァーで顔見知りになった人達で溢れかえった。それぞれが夢中になって買物していた。
そのときふと僕は、店の片隅でなにやらひそひそ話をしている、身体の大きなメキシコ人の夫婦とガイドのことが気になった。
なにやらコソコソと悪だくみをしている雰囲気だったからである。
声は聞こえてくるが、もちろん僕には、話の内容は全く解りません。その会話がスペイン語で交わされているからです。
余談ですが、南米の国々の人達の日常生活は、スペイン語で成り立っています。
そして、これらの国々の人達は、英語を理解しようという考えは全くないそうです。だから、このメキシコ人夫婦が喋っているは、間違いなくスペイン語なのです。
英語がやっとの僕には解らなくて当たり前です。だけど僕には、密談という雰囲気が伝わってきたので、そしらぬ顔で様子を窺っていた。
そのうちガイドが、店の人に何かを告げた。
すると、なんと、なんと!!!
いったん店の奥に消えた店主が、さりげなくウィスキーをぶら下げて再びあらわれたではないか。
これで商談成立かと思いきや、ウイスキーを目のまえにしてメキシコ人の態度がちょっとおかしかった。
その様子から察するに、ウィスキーの値段を聞いて買うかどうかで迷っているようだった。
このとき、酒好きの僕のカンが働いた。その一角にそっと近寄った。
そして、「オレもウィスキーが飲みたい!」と、単刀直入にガイドにせまった。
ガイドは慌てる様子もなく、僕のこの要望を店主とメキシコ人とに通訳をした。
するとそこへ、オランダ人も寄ってきて、オレも飲みたいと言って参加を求めてきた。
酒飲み同士、相通じるモノがあるらしい。結局、3人の割勘でウィスキーを買うことにした。
お金をホテルに預けてしまった僕とオランダ人はそれぞれ持ち合わせがなかった。
それを知ったメキシコ人は、なんと、リュックの中からごそっとキャッシュの束を取り出して、二人分を立替えて代表でウィスキーを買った。
その代金は、エンジェルフォールから戻ってから、それぞれが、メキシコ人に払うということで決着した。国際的な闇取引が成立した瞬間である。
ちなみに、この時の様子から、このメキシコ人夫婦は相当なお金持ちらしかった。
もう一つおまけに、このウイスキーの値段は、日本円で千円ちょいだった。僕はこのとき、日本人はとっても凄いと思った。