猫のイラスト
rakurakutown.com旅の楽々タウン
雨の横断歩道の雑踏

温泉旅館物語

「天城越え」というが、天城山という単独の山はない。天城山とは、天城連山(天城山脈)の総称で、伊豆半島を東と西にわけている。伊豆の山々に降った雨は、やがて、幾筋もの清流となって山ひだをかけおりる。東に流れたものは相模灘に、西側は駿河湾にそそぐ。

熱川温泉街の中心部を流れる濁川の河口付近
熱川温泉の中心街を流れる「濁川」

ここ熱川温泉は大雨が降ると、街なかを流れる清流はあっという間に恐ろしいような激流となり海に注ぎ込み、たちまちのうちに河口を黄土色に変色させてしまう。熱川の温泉街の中心を流れる川の名は、熱川ではなく濁川という。

熱川温泉

熱川という名の由来は、昔、この地にあたたかな川が流れていたからだという。今では湧出する温泉のほとんどが旅館などで有効利用されているが、かっては、自噴するままに川に流れ込んでいた。

伊豆熱川駅に降り立ち、目の前の噴泉塔(源泉櫓)や、眼下のあちこちからからモクモクく立ち上る湯けむりを見れば、川の流れが暖かそうなのは、あなたも感じるでしょう。ちなみに自噴する源泉の温度は、ほぼ100度です。

昭和40年代の熱川温泉の風景
昭和40年代の伊豆熱川駅からの風景

さて、天城山系の襞の一つに開けた熱川温泉が、まだ、伊豆の秘湯といわれていたころは、静かな農村であり村人たちは、日当たりのよい東向きの地形を生かして「きぬさやえんどう豆」を栽培していた。この温暖な地で収穫される「きぬさやえんどう豆」は、いち早く市場に出荷できたので高値がついた。おかげで村人達はおおいに潤い、このさや豆を「成金豆」と呼んだ。

温泉旅館 青雲閣

昭和40年代の熱川温泉の風景
昭和40年代の熱川温泉街の風景

1968年(昭和43年)初夏、26才のオレ・湯の街ネヲンは、下田市の職安の職員のすすめるがままに、熱川温泉の旅館の「青雲閣」で働くことになった。これまでの陸上自衛隊の無線通信隊員から温泉旅館の番頭さんへと転身した。世の中は、三種の神器がカラーテレビ、クーラー、カーの3Cへと移行しつつあった時代である。

当時は、日本国中が青春時代だった…。どこもかしこも若者で溢れかえっていた。ここ熱川温泉も例外ではなかった。

職安で手渡された紹介状を頼りに熱川の旅館を訪ねると、そこには、温泉街のメインストリートに面した、立派な唐破風の玄関がある和風旅館の青雲閣があった。右隣りには古びたみやげ物店を併設していた。温泉場の昼時は深閑としている。オレは、3段ほどの石段の上に建つ青雲閣を見上げながら、こんな温泉場のこんな旅館で、蒲団敷き、風呂掃除、庭木の手入れ、そして、休日には温泉三昧、海辺で読書と…。そんな世捨て人のような人生でもいいか、と思った。

が、この時のオレは、この青雲閣には海辺に建つ「ホテル アタガワ」という新館があることを知らなかった。前年には国道135号線のバイパスが稲取まで開通し、熱川海岸の堤防が完成し、ホテルの大型化がはじまり、このあと温泉旅館が高度成長の波に飲み込まれ大発展するなんて、無論、知る由もかった。

まわりに人影はない。静かである。オレ一人の世界であった。

わずかな時間で今後の人生を決めたオレは、石段を登り玄関に入った。初夏の日差しが強かったぶん館内はうす暗かった。そして、帳場にむかって大きな声で「こんにちは」と呼び掛けた。やや間をおいて「はい!」といって、オレと同年代の女性が無表情で出てきた。職安の紹介状を手に来意を告げると、彼女は紹介状を持ったまま無言で帳場の奥に消えた。

そして彼女は、たった今、オレが思い描いた未来とは全く違った行先への切符をもって戻ってきた。新館・ホテル アタガワへの略図がかかれたメモ用紙を手渡しながら、ここで社長が面接をするからこのまま行ってくれといった。

時代は順風

自衛隊員は、私物の歯ブラシが1本と、パンツが1枚あればなんの不自由もなく日々の業務や生活が送れた。親方日の丸で、仕事及び生活必需品を現物支給してくれたからだ。さらに、月給は7,500円であった。ラーメンが180円の時代である。思えば、温泉旅館も衣食住の心配なく生きていける世界であった。

オレは、オープンしたばかりのホテル アタガワの小さな社長室で面接をした。結論は、オレの都合がつき次第いつでも来いということで、給料は前職の2倍の15,000円を出すということであった。

このときのオレは、なんの考えもなく温泉旅館に就職たが、時代の流れというものは凄まじく、スタート時の年収が180,000円だったオレの給料は、14年後(40才)の退職時の年収は、なんと5,000,000円にもなっていた。もちろん、それなりにオレも頑張ったけど…。

ボンネットバス
伊豆半島をぐるっとめぐる定期観光バス

さて、東海バスの社史によれば、1967年(昭和42年)の3月28日には、なんと、1,400組もの新婚さんが伊豆半島をぐるっとめぐる定期観光バスに乗車したとある。ちなみに、車中での新婚さんたちのようすを聞かれたバスガイドさんたちは一様に答えたという。皆さんよく寝ていましたと…。

湯の街ネヲンは、新婚旅行ブームの真っ最中の伊豆熱川の旅館に就職したのであった。給料が、倍増したと素直に喜んでいた。

サラリーマンのいいところは、自分や同僚が貰う給料の額には敏感であるが、社長さんの儲け中身は詮索しないところである。当時の新婚さんの宿泊料金は、一人一泊二食5,000円だった。ホテル アタガワには客室が50室もあり、連日ほぼ満館であった。湯の街ネヲンの月給が15,000円であったということは、社長さんのフトコロにはどれほどのお金がころがりこんだのであろうか。

温泉旅館生活のはじまり

9月のはじめ、オレ・湯の街ネヲンは有限会社 青雲閣、通称 ホテル アタガワの社員となった。経理係として採用されたオレの仕事は、お客さんから宿泊料や飲料代を頂くための請求書を書く「お会計」係であった。

当時は温泉旅館に泊まったり、レストランで食事をすることが贅沢な行為とされていたので、温泉旅館等は都道府県の首長から料理飲食等消費税なるものを特別徴収せよと命じられていた。これって税金を扱うことなので、しち面倒くさい計算をして公給領収書(請求書)を作成しなければならなかった。その公給領収書の記載はすべて手書きであった。さらに厄介なのは、すべての計算がソロバン一本だったのでかなり大変な作業であった。

初出勤の朝、仕事の先生である真知子先輩を待った。なんと、先生はあの時の女性であった。気位が高いわけではないが、ツンとした感じの色白の美人であった。オレ、内心でヤッター! であった。

しかし、そんな高揚感もすぐに吹っ飛んだ。朝の仕事が一段落した時に、真知子先輩が言った。「もう私、明後日から来ないから」と…。

後日、この真知子先輩が、静岡県を代表する伊豆下田の名門女子高の出身だと知った。それで、あの日の職安でのナゾが解けた気がした。

職安の歴史ある木造の階段を登った二階の求人室にあった求人票は、ほぼすべてが温泉旅館の女中さんであった。男といえば、造船所の職工ぐらいしかなかった。こりゃあダメだとあきらめて帰りかけようとしたとき、暇そうにしていた高齢の職員が声をかけてくれた。運命のひと声であった。

下田市職業安定所
下田市職業安定所

「かくかくしかじか」と求職の意思を告げると、その職員は「会計事務所が、いちげんのどこの馬の骨ともわからないヤツを採用するはずがないだろう」と、口悪くいいながら席を立ち、奥の部屋から持ってきた一枚の求人票を差し出した。

その求人票には熱川温泉の青雲閣とあった。ここの職安の管轄は下田市と賀茂郡である。市内の下田温泉をはじめとして、東伊豆には熱川、稲取温泉、西伊豆には土肥、堂ヶ島などの温泉地があり、そこには温泉旅館が星の数ほどあるのに、なぜ「ここへ行け」と言ったのか今でも疑問だ。

当時の温泉旅館は、働き手は必要であったが、人材云々というレベルにまではいっていなかった。

そういえば、ここの社長は、東北の国立大学で農業を学んだという業界では異色の人であった。いち早く人材の重要性に気がついて、いろいろと手をまわしていたのだろう。参考までに、こんな落ちこぼれのオレでも業界によっては、人材という網に引っかかるものだと知った。スッキリ!

青雲閣みやげ物店
青雲閣みやげ物店

もう一つ、真知子先輩の後日談。ここ熱川にきて初めて寒いと感じた冬の日の午後、本館の隣で、熱川橋のたもとの青雲閣みやげ物店内で七輪に手をかざし暖を取っていた真知子先輩を見つけた。退職したものと思い込んでいたオレは、うれしくなってすぐに真知子先輩のそばにいった。仕事場が違っていたのでずっとすれ違いだったのだ。メインストリートに面した北向の店内にはつめたい風が吹き抜けていた。

「先輩、寒くないですか?」

「平気だよ」といって、真知子先輩は両足を七輪の両端の乗せて「おまんたん火鉢をやっているから」といいながら、口を大きく開けて「あはははは…」と笑った。真知子先輩の明るい一面を見た湯の街ネヲンは、なぜかホッとした。

はや半年が過ぎた

東伊豆町の町花 ツワブキ
ツワブキの黄色い花

熱川の海岸沿いの切り立った崖のたもとの陽だまりに、ツワブキの黄色い花が咲くと伊豆にも冬がやってくる。伊豆大島がくっきりと見え、月明かりとイカ釣り船の漁火が幻想的な冬の季節となる。

ツワブキのつややかな葉に黄金色の花は伊豆の海岸によく似合う。

秋が深まった。湯の街ネヲンの旅館生活も三か月が過ぎようとしていた。この頃には、日常のお会計の仕事も大過なくこなせたし、会社の組織のこと、旅館業務の流れの全体もやっと把握できるようになった。

本館の青雲閣は、旅館であり、みやげ物店であり、社員寮や備品の倉庫、洗濯場を兼ねていた。ちなみに洗濯場とは、当時の旅館は浴衣、シーツ、枕カバーなどのリネンを自館で管理、洗濯していたのでその場所や設備のことをいいます。天日干しした浴衣やシーツはお日様の匂いがしバリッとしていて清潔感がありとても気持ちがよかった。

穏やかな秋の空が続くある日、湯の街ネヲンは、昼の休憩に帰る若い女中さんのスヱちゃんと一緒になった。スヱちゃんは、南伊豆町の出で色が白く笑うと目がなくなる可愛い娘で、伊豆の自然のことなどをよく知っていた。ツワブキの花のこともスヱちゃんに教えられた。大田道灌公の碑を右にみて熱川橋につづく川沿いの登り坂にさしかかると「ネヲンさん、この川の名前を知っている?」とスヱちゃんがいった。

穏やかな流れの川面を見ながら「知ってるよ、熱川だろう」と、オレは自信をもって答えた。が、スヱちゃんは「違うよ、本当は濁川っていうんだよ」と、にわかには信じられないことをいった。湯の街ネヲンが、ああ本当に濁川だと実感したのは、それからず~っとあとの大雨が降った日である。黄土色に変色し牙をむいたような激流に変わった流れを見て恐怖を感じたときであった。

どんぶり飯

どんぶり飯にたくあん
どんぶり飯

ネヲンにとって青雲閣には楽しみがあった。鼻の高い魔法使いのような顔をしたご飯炊きのおばあさんが、いつも「さあ、食べな」といって、どんぶり飯にたくわんを二切れのせて手渡してくれるからである。

調理場は昔のままで、薪で炊いたご飯はとても美味かった。白いご飯がご馳走の時代の話しである。この魔法使いのお婆さんの特技は「たくあんの油炒め」で、古いなったたくあんを菜切り包丁で薄く切り、塩抜きをし、大鍋で炒めて甘辛く味付けをしたもである。オレ、たくあんにたくあん以外の食べ方があったと知ったこの時は仰天した。

こんなとき、いつも「ネヲンさん」といって近づいてくる調理補助の女の子がいた。「私、来年は18になるの! そしたら着物を着て女中さんになるんだよ」と、嬉しそうにいっていた。

なんで一杯のどんぶり飯で…、と思う今の人達には想像もつかない世界がそこにあった。ホテル アタガワは三食まかない付きであったが、まともな食事はサバの味噌煮などの一品のおかずが確保される夕食のみで、朝、昼はあるもので済ませなさいということであったが、あるのはご飯と煮詰まったみそ汁だけだった。

最悪なのが昼めしである。食堂とは名のみで、食器の洗い場であり、飲料の保存庫であり、ご飯を炊く炊事場の片隅で、大きな配膳台が食事用のテーブルを兼ねていた。お会計係は仕事がら終わるのが遅かった。だから、昼飯はいつも一番最後である。食堂の電気をつけるとステンレスの配膳台のうえでチャバネゴキブリがウロウロとしていた。そこで、臭くなったご飯の匂いをまぎらわせるために、みそ汁をかけて一気に流し込んだ。

本来ならば涙がこぼれるようなこの話、この時の湯の街ネヲンにはこんなことさえ未知の温泉旅館生活の楽しさの一片になっていた。

▶ 第二章に続く

▲ ページの先頭に戻る