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夕焼け空と鳥

春よ来い、花よ咲け!

この物語は「湯ノ街ネヲン」が伊豆熱川温泉で15年間の旅館勤めを終えて「総案」を起業するところからはじまります。起業といっても温泉旅館から総案へと舞台が変わるだけで同じ観光業界での仕事です。その長い観光業界生活で出会った仲間たちと共に歩んだ楽しい物語です。

第一章 今は昔

ここは伊豆熱川温泉

相模灘に浮かぶ伊豆大島
伊豆大島

今は昔、昭和57年(1982年)の春「湯ノ街ネヲン」は39歳になった。ここは伊豆熱川の海沿の温泉旅館「ホテルオ-トモ」である。ある日、湯ノ街ネヲンは「総案」を起業したいと「大友社長」に退職のお願いをした。

「総案」とは、温泉旅館と旅行業者を結ぶ「ホテル旅館総合案内所」の略称で、総案の表立っての仕事は、旅行会社に対する旅館営業の代行です。実質的には旅行会社と旅館の間の事務的(予約・変更・取り消しなど)な流れを円滑に執り行う仲介業です。

総案の成り立ち

「総案」とは、高度成長期を迎え好景気を背景におこった旅行ブームの初期に、人材が乏しく未成熟な温泉旅館と規模が小さく情報量の乏しい街の旅行会社との間に咲き始めた徒花である。

昭和40年代に入ると温泉旅館は大型化にむけて突き進んだ。その結果、大きな旅館はより多くのお客さんを求めて、東京なのどの大都会に直営の営業拠点を設けるようになった。

この時、資金力の乏しい若い旅館経営者たちは知恵を出した。各温泉地から競合しない仲間を募って協同組合形式の営業所を開設した。これが総案の原型です。

そこからもっと知恵を出したヤツがいた。営業所で力を蓄えた所長が、なんと今度は自らが代表となり旅館やドライブイン、観光施設などを集めて私的な営業所を開設したのである。これが、いわゆる「総案」のはじまりとなった。

この総案という職業が花開いたのは、自分たちの意思では旅行ができずに旅行会社を頼った団体客と自力で集客できない旅館がたくさんあったからだ。

退職のお願い

ホテルオ-トモは、大友社長の強いオーナーシップによる経営体制が整っており人間関係がとても濃密であったから、簡単に退職しますなどと言える雰囲気はなかった。この会社で辞めるとは、親子の縁を切るぐらいの覚悟が必要であった。

実はネヲン、夢と希望に燃えて「総案」の起業を志したわけではない。

退職の一番の理由は、温泉旅館での仕事に飽きが来ていたからだ。

ネヲン、男ばかりの自衛隊の除隊をひかえふらりと立ち寄った下田の職安のすすめでこの旅館に就職した。何も知らずに飛び込んだ水商売の世界、そこは若い娘たちがたくさん働くとても新鮮な世界であった。すべてが手作業・手仕事というあたたかな職場でもあった。

家業から企業へとの成長過程にあった温泉旅館には、面白い仕事がたくさんあった。新しいもの好きなネヲンは、あらゆる分野に顔を出し日々楽しく仕事をした。そんなネヲンに人使いの上手な社長も、目の前にニンジンをぶら下げて食いつかせいろいろな仕事をさせた。

楽しさはそれだけではなかった。実利的な裏付けもあった。入社時の年収18万円(月給15,000円)が、15年後にはなんと500万円を超えるまでになった。これは、ネヲンの頑張りもあったが、社長が世間並みの大卒の給料体系を加味してくれたからだ。

半年ごとの大幅な昇給は、ネヲンの頭から貯蓄という考えをマヒさせた。入ってきお金は次の月末までにはすべて消えていた。あのお金はどこへ飛んで行ったんだろう。

しかし、ここは小さな温泉旅館である。やがて、ネヲンにとって新鮮さを感じる仕事がなくなり同じことの繰り返しの日々になってしまった。

まだ若かったネヲン、そんなマンネリ生活がイヤでイヤでたまらなくなった。目の前の伊豆大島がだらしなく寝そべっているヤツにみえたり、繰り返す波の音は進歩のないヤツの声に聞こえたりする日々になってしまったのだ。

世代交代

桜の花と若葉
桜の花と若葉

もう一つ、ネヲンには退職を考える事由があった。

ホテルオ-トモは、三代目へと代替りの時期にさしかかっていた。歴史好きのネヲン、現城主が退くときはのちのち新・旧の間でゴタゴタが起きないように、その家臣も城主とともに退くべきだという説をよしとしていたので、それを退職理由の一つにこじつけたのた。

さらに、さらに、もう一つ大きな理由があった。

この旅館には女将制度がなかった。それに代わるものとして、大友社長は各女中さんが小さな女将さんになれるようにとの教育に力をそそいでいた。

そして、館内外の運営は社長と支配人のキャッチボール形式でおこなっていた。この運営形態を大友社長は、三代目とネヲンに置き換えようとしていた。

この策にネヲンが拒絶反応を示したのだ。それは、ネヲンが自分の性格が華やかな旅館の表舞台で活躍するタイプではなく内向的であることを知っていたからだ。

さらに、それを強烈に自覚させる人物がすぐ近くにいた。ピカピカに光り輝く支配人である。この人の代役などは絶対に務まらないと思った。ならば、逃げ出すしかないのである。

光り輝く支配人

現在のJRがまだ国鉄といわれた時代は、観光地への足として各地区の観光業界に大きな影響力を持っていた。伊豆地区は熱海駅を窓口として東京南鉄道管理局の管理下にあった。

ある年、伊豆の旅館では中レベルの当館に支配人が東京南鉄道管理局の重要な会議を誘致してきた。これだけでもすごい話である。

当日、伊豆熱川駅から送迎用のバスで国鉄のお偉いさんが到着した。支配人は「いらっしゃいませ」の挨拶と共に明るく元気に出迎えた。ネヲン、次のシーンは、胸を張って下車する東大出のお役人とペコペコと頭をさげる支配人の姿だと想像しながら冷ややかに見ていた。

しかし、なんと次の場面は、初対面だというのに十年来の知己の再会を喜び合うような二人の姿であった。そして、客室へ案内する女中さんが待つエレベーターの前に立つまでには、お互いに肩をたたきあわんばかりの情景であった。

いわゆる「持ってる人」は、同類を瞬時に嗅ぎ分けるのだ。

ネヲン、カウンターの前でただニコニコとしながら立っている社長と支配人を交互に見比べた。同時に、あんなヤツを使いこなしている社長はスゲェーと思った。

ギンギンギラギラ

夕日と棒人間
夕日が沈む

さて、今夜はホテルオートモの社員(70数人)忘年会である。例年は、社長の挨拶とおはこの「まっくろけ節」で始まり、あとは社員たちに引き継がれるのだが、今年は支配人が余興を披露することになった。仮設の小さな舞台に立った支配人に拍手喝采であった。

支配人は舞台の上で、お相撲さんのような蹲踞(そんきょ)の姿勢から両手を左右に広げて「ちり」を切り、その手をゆっくりと真上に挙げで両の手のひらをいっぱいに開いた。ネヲンをはじめ全員が興味津々で身を乗り出した。

支配人、腰を落としつつ両手の平をひらひらさせながら大きな夕日が沈みゆく所作をしつつ、一語一語ゆっくりと「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む」と歌いだした。

全員が息を止め見まもったので会場からは人が消えたかのようになった。ネヲンも目ん玉とノドチンコが飛び出すかと思った。そして、支配人がかってオレは一晩酒を酌み交わせば誰でも落として見せるといった言葉が真実味をおびた。

さらにネヲンが、些細なことでお客さんに怒られたことをぼやいていたら、支配人は、オレならお客さんにスリッパで横っ面をひっぱたかれても我慢出来るぞとも言ったことも思い出し、支配人はお化けだ、人間ではないと思った。

退職が決まった

社長はネヲンを次の世代の重要な駒だと考えていたのであの手この手で引き留め策を講じたが、ネヲンの逃げ出したい気持ちの方が勝って退職が正式に許可された。

ネヲンの退職が決まると社長は今までとは違うことを言った。

これまでは、事あるごとに「寄らば大樹の陰」であったが、独立まじかのネヲンに「鶏口牛後」だと言った。男と生まれたからには、大会社の歯車になって末端で働くよりも、小さな会社でも方針を決定するような立場に立ち、一国一城の城主を目指さなければウソ(正しくない)だと言った。

ではなぜ、みんなが一国一城の主を目指さないかというと、起業してそれを軌道にのせるまでには膨大なエネルギーがいる。多くの人たちはそのエネルギーがないからだと続けた。

三つの戒め

三本の指
三本の指

大友社長は、40歳で独立を目指すネヲンに「お前にはもう年齢的に後が無いのだから失敗は許されないぞ」といって三つの戒めをあげた。普通は、退職する者の将来などは、後は野となれ山となれであるが、先の先まで心配してくれるのがこの社長のいいところである。

 1,闇金に手を出すな

 2,浮かれて万歳をするな

 3,金を残そうと思うな、の三つであった。

それを聞いてネヲン、社長に1番目は分かりますが、2番目と、3番目の意味が分からないと答えた。社員時代の先生(社長)と生徒(ネヲン)の会話に戻っていた。

社長が諭すように言った。

「万歳をするな」というのは、人間は少し成功するとすぐに歓びはしゃぐ。なかには浮かれて踊り出す馬鹿もいる。みてみろ、ここ熱川温泉でも大店のおやじ(社長)が町長や県会議員になっただろう。結果はどうだ。社員に金をごまかされたり火事を出したりして二軒とも傾いちゃっただろう。

経営者というのは、社内のことにはつねに細かいことにまで目を配り、時の流れにはいつも敏感でなくてはならない。だから万歳をしている暇なんかないのだぞ、と厳しく言った。

ネヲン、三つ目の「金を残すな」というのは貯金をするなということですかとつまらんことを言ってしまった。

社長はバカとひとこと言って続けた。チョット儲けたぐらいで、欲をかいて株を買ったり不動産投資などをするなということだ。金は魔物だ。儲けたものはそっと手元に置いておけ。そして、会社をたたんだ時に残ったものが本当の儲けだといった。

社長は、ネヲンの将来がそうとうあやういと感じていたのだろう、最後に、お前は事務タイプだから総案を始めたら営業に専念し、事務所にはお前の机を置くな、そして、決してソロバンを持つななどいう細かな指導までしてくれた。

この話には続きがある。ネヲンが起業してすぐに、ネヲンに起業をすすめた友人が言った。いまならまだ遅くないから直ぐに会社をたためと・・・。

退職間近

ツワブキの花
つわぶきの花

退職のための大きな難関をパスしたネヲンは退職の日をむかえるだけとなった。15年も見続けてきた伊豆の海と空がとてもすがすがしく見え、目の前の伊豆大島が古くからの友人のようであった。海沿いの崖下に咲くツワブキの黄色い花がやけに輝いてみえた。

ネヲン、起業後を見越してをあたりをキョロキョロと見回していた。

ネヲンが起業する「総案」の大切なお客さんは旅行業者である。現在、この旅館に送客してくれている旅行業者の中から将来パートナーになりそうな人たちを物色していたのだ。

山内さん

ある日、ネヲンが手ぐすねを引いて待つホテルオークラに、群馬県の高崎市から「山内さん」が、薄茶色のトヨタ・コースターに、15人ほどのお客さんをのせてやってきた。

バスのお客さん
バスのお客さん

ネヲン、この山内さんのことは事前の予約電話でやり取りをしていたので、おおよその予備知識はあった。現在は大手製紙会社を退職し旅行会社の登録申請中で免許がおりるのを待っているといった。根っから旅行業が好きみたいで電話の声が弾んでいた。

この旅行は地元の有志をのせての伊豆一周二泊三日の旅だといった。西伊豆は大学生時代にアルバイトをしていた土肥温泉の旅館で即決できたが、二泊目の東伊豆の旅館探しで迷っていたら、土肥の旅館の社長がここを紹介してくれたといった。

少々横道にそれるが、昭和46年(1971年)の夏と翌年の夏、山内さんがアルバイトしていた時代のわずか3~4年であるが、海辺の温泉旅館が女子大生の夏季アルバイト先として大人気になった。今の感覚でいえばハワイのホテルでアルバイトという感じであろう。

このほんの僅かな3~4年間の夏休み期間だけであったが旅館は人手不足が解消され館内に華やかさが戻った。そして、週刊誌に求人広告の掲載勧誘の電話がひっきりなしに鳴った。

さて、山内さんと顔を合わせるのは今回が初めてである。思っていたよりも若そうで10歳ぐらい下のようだ。人生とは面白いもので、この時の出会いがその後の長いお付き合いの始まりとなった。

宴会が終わってひと息ついたあと山内さんが、クラブで飲みながら面白い話をした。

山内さんが旅館のアルバイ時代の思い出を話した。一つは、誰もいなくなった調理場にもぐり込み冷蔵庫をそっと開けて食材をつまみ食いしたこと。もう一つは、お座敷ストリップの照明係をしたことであった。

踊子さんが着物の裾をまくったときにチラリと見えた黒いものに、お客さんが大喜びをしていた光景が忘れられないという。そして、赤いセロファンを貼った投光器でタイミングよく踊子さんに光くを当てないとお客さんに怒鳴られたことなどなど。

ネヲン、山内さんが同じ時代に同じようなことをしていたのかと思ったら近親感が増した。

山内さんが旅行業に興味を持ったのは、国鉄の駅長だった親父の影響だといった。その話を聞いてネヲン、一瞬「?」となった。だって普通は鉄道員のカッコいい制服姿をみて鉄道マンにあこがれるだろうと思ったからだ。

山内さん、ネヲンの思いを無視して続けた。親父が駅主催の団体募集旅行をやっていて、お客さんをゾロゾロと引き連れて行く姿にあこがれたといった。

土手沿いの散歩みち
土手沿いの散歩みち

山内さんは、昭和49年(1974年)大学卒業後、地元の大手製紙会社に営業として入社したが旅行業への夢が捨てきれず、昭和56年(1981年)の春、とうとう仕事中に河原の散歩みちに車を止め昼休みを勝手に長くとって旅行業者になるための資格、旅行業務取扱管理者の受験勉強を始め、その年の秋の試験に見事に合格したと言った。

明るいスタート

熊谷駅前・熊谷直実の騎馬像
熊谷駅前・熊谷直実の騎馬像

この出会いのあと、ネヲン(昭和58年6月)と山内さん(昭和58年2月)は、ほぼ同時期にそれぞれが総案と旅行業者として開業した。が、二人のスタートダッシュには大きな違いがあった。

営業タイプの山内さんは、旅行会社を立ち上げるや次々と団体客を獲得し順調に業績を伸ばした。前途洋々たる快調なスタートであった。

注目すべきは、開業時の準備・行動力である。

山内さんは、事業の成功が親の七光りだと言われるのを嫌い奥さんと3人の子供をひき連れてお隣の埼玉県熊谷市のマンションに移り住んで開業した。これは、高崎市の郊外より熊谷市の方が都会であり会社の数が圧倒的に多いということからであった。

さて、人生って面白いもので、この時期、のちのちにネヲンや山内さんと関わりを持つ「天城さん」が、大手生命保険会社の熊谷営業所の所長として赴任してきていた。三人が同じお天道様のもとで仕事をしていたのである。

新店舗

新規開店イメージのイラスト
新店舗

山内さんは、順調にお客さんを獲得し業績を伸ばした。仕事に手ごたえを感じて、開業して間もない昭和60年(1985年)の秋に、地元に戻り、高崎駅のお隣の小さな駅の駅前通りに旅行会社を開店させた。早くも地元で錦を飾った。

お店の立地は良かったが、まだ娯楽観光型の団体旅行が主流だったので、お客さんが頻繁に訪れるわけではなかったが、自分の城を地元の人たちに披露した。

暗い船出

ゆず
毛呂山町の特産・ゆず

一方のネヲンは子供に「父さん、うちは貧乏なの?」と言われるほど追い詰められていた。

その原因は、ネヲンが「鶏口牛後」の本当の意味、すなわち、牛の尻尾(サラリーマン)と鶏の頭(経営者)では考え方が根本的に違うということが理解できていなかったからだ。

松下幸之助と同じ側の経営者なったというのに、ネヲンは、サラリーマ根性のまま仕事はみな同じだとたかをくくってスタートしてしまったのである。

ちなみにネヲン、独立にあたり貯金はゼロ、新築した家は全額ローンであった。が、退職金200万円と、これまでの給料の2倍の収入先を確保していたので、これでひと安心とのんびりしていて緊張感がなかった。

そして、考えの浅いネヲンは埼玉県西部のゆずの里・毛呂山町の自宅で起業してしまった。それは、田舎だけど総案は営業が主体なので、30分早く家を出れば川越市に事務所を持ったのと同じだと考えたからだ。

しかし、世間の見る目は田舎の総案である。これが原因で、旅行業者に並び総案のもう一方の収入源である旅館の加入が全く増えず売り上げが伸びなかった。

幸いなことは、車一台と電話一本で出来る仕事だったので、致命傷とまではいかなかった。

追い詰められネヲンは、大友社長のもとへお金を借りに行った。社長、うちも今は大変な時だからといって100万円を限度として用だてを承知してくれた。当日50万円、後日20万円と計70万円もお世話になった。

この時、お金を借りる分際でありながら不届き者のネヲンはとんでもないことに、3億円もの売り上げがあって、たったの100万円かよと思ったのである。未熟者であった。

かって、大友社長が言ったようにお金は魔物である。お金の流れが細くなるとまわりの人たちは、お金の蛇口をギュッと閉る。しかも余計に力を入れて。

この窮地を救ってくれたのが家内である。それと大きな声では言えないが旅館勤務時代を反省して起業と共にサイフを家内に渡したネヲンの決断である。

家内は毎朝、営業に出るネヲンに一日の走行分のガソリン代3000円(150円x20ℓ)と昼飯代の500円を「頑張ってね」といって渡してくれた。自分は100円の化粧品を使いながら。

もしこの時、ネヲンが相変わらずサイフを握っていたら、我が家の預貯金残高(貯金ゼロ)におびえて営業には出なかっただろうと思う。家内が我が家の救世主であった。

この時代の唯一の楽しみは旅館の営業さんが来所することであった。昼飯代を負担してくれることと寒いときには暖かい缶コーヒーを夏にはガリガリ君を買ってくれたからである。

世間には先の見える人がいて「仕事って休まずに頑張っていれば、ある日突然春が来る」といったが、当時のネヲンには、そんな言葉が信じられなかった。このまま野垂れ死にしてしまうのではないかという気持ちの方が強かったからだ。

遅い春

麦畑
麦畑

ネヲンは営業が得意ではなった。いつまでたっても怖そうな旅行業者さんと話すとワキ汗が流れた。出来ることなら営業は挨拶程度で終わらせたかった。おおくの旅行業者からは、あいつのは営業じゃない飛脚だと揶揄された。でも、続けるしか生きる道はなかった。

県内じゅうをただ黙々と巡り歩く日々が2年、3年と続いた。人っておもしろい。何度も顔合わせていると、可哀そうだからとか、しょうがね~なあとか、頑張ってるねなどと言ってポツリポツリとお客さんをくれるようになった。

そして、社長への月々2万円の返済が苦にならなくなったころ、ネヲンはある気持ちの変化に気が付いた。ただ毎日が同じことの繰り返しであったが、なぜか、精神的に余裕を感じるようになった。遅かった春がやっとめぐって来たのである。

冷たく厳しい赤城下ろしが吹きぬけ砂埃が舞い上がるだけの台地だと思っていたら、いつの間にか若芽がいちめんをおおう青々とした麦畑になっていた。

同行営業

同行セールスのイメージ
同行セールス

「同行営業」とは、総案が旅館の営業さんを同伴し一体となって、旅行業者にセールスをかけることです。しかし、その成り立ちは現在と異なり、逆に、優秀な旅館の営業マンが総案を引きまわしていた。

温泉旅館の規模拡大に伴って、わずか10数年前に生まれた総案。誕生時の総案は吹けば飛ぶような存在であった。そこで優秀な総案の先人たちが、自分たちの存在を旅館の主人たちに認めさせるために編み出したのが同行営業というセールス形態である。

この時代は、まだ健全に発展してきた温泉旅館時代の名残りがあって、各旅館にはそれぞれ名の売れた看板営業マンがいた。

そこで、総案の先人たちは、それぞれの看板営業マンたちに当地方での営業の際は、あなたの手足となって働きますので、ぜひ、当総案にお立ち寄りくださいとアタックした。

この効果は絶大で、旅館の営業マンが総案を旅行業者に紹介しながら、以後、当地での我が旅館の出先機関となりますのでよろしくといえば信用力もアップした。

そして、ネヲンたちの総案時代になると、世代交代がおこったり旅館業界の人手不足により優秀な旅館営業さんが少なくなって、ほぼ、総案が主導権を握って同行営業をするようになった。

日航ジャンボ機墜落事故

夏の風のイメージ
うすい西日と秩父おろし

さあ明日からは盆休みだ。17時もまわり軽やかな気分で事務所の窓を開けはなった。うすい西日と秩父の山々から吹きおろす爽やかな風が室内をサッととおり抜けた。クーラーよりも数倍心地いい。

この直後、日航ジャンボ機が迷走飛行の末に御巣鷹の尾根に墜落したという衝撃的なニュースが飛び込んできた。まだ暮れきらない昭和60年(1985年)8月12日(月曜日)の19時少し前であった。

案内所会議

営業会議
営業会議

旅館と総案業界でいう「案内所会議」とは、旅館が主催して各地の総案を集めて催す営業会議のことです。営業会議という名目ですが、実際には慰労会といった方が適切です。

ネヲンの総案もやっと世間に認知され案内所会議にも呼ばれるようになった。

ある時、三重県の鳥羽の旅館で案内所会議があった。そこの若社長がネヲンに「あなたは土日も営業をしているそうですね」と言われ、ネヲンはこんな遠くにまでオレの営業努力が伝わっているのかと思ったら鼻がヒクヒクとした。

しかしこのころ、凡人のネヲンは起業がひとやま超えた安ど感と虚脱感におそわれていた。

現在は青・黄・赤と変わる信号機と乾いたアスファルト道路の先を見つめながら、県内の旅行業者をへ巡り歩くだけで楽に飯が食えるようになったが、同時に日々道路の上を走るだけでオレの人生が終わるのかと思うと仕事にむなしさを感じるようになっていた。

もし、ネヲンに才能が有ったならば、よし! これを足場に次の階段を登ろうと考えたであろう。同じことでも優秀な人はポジティブに、凡人はネガティブにとらえる。

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第二章 時代が変わった

平成の時代

平成元号の発表
平成元号の発表

第124代天皇の昭和天皇が昭和64年(1989年)1月7日に崩御した。当日、新元号を「平成」と小渕恵三官房長官が発表し、翌日の1月8日から昭和から平成へと元号がかわった。

この時の発表で、小渕さんは有名になり子供からも「平成おじさん」と親しまれるようになった。このとき、消費税の導入などで不人気だった竹下総理は、この小渕人気を見て、あれほど人気がでるなら自分がやればよかったと愚痴ったそうだ。

戊辰戦争

鶴ヶ城
鶴ヶ城

同行営業中の車中のラジオから、昭和天皇が崩御し、平成元年2月24日(金)に、大喪の礼が新宿御苑において行われると流れた。

すると隣席の、会津東山温泉のホテル天鶴の若い営業さんが、手拍子をとりながら「あ~めでたい、めでたい、こりゃめでたいと」と、歌うようにいった。

ネヲン、えっ?という顔で「なにそれ!?」と思わず口にした。

それに答えて会津の営業さんは、にっくき(憎き)敵の親玉の葬式だ! こんなめでたいことはないと真顔で答えたが、そのあとは多くを語らなかった。

ネヲン、戊辰戦争なんて遠い昔の話だと思っていたが、会津の人たちの心の中では今でも戦争が続いているのかと思ったらとても複雑な気持ちになった。

北越戊辰戦争

河井継之助の墓
河井継之助の墓

戊辰戦争といえば、山内さんは河井継之助の熱烈なファンである。

河井継之助は、サムライの美学を貫いた最後のサムライとして称賛される一方、長岡を焼土と化した戦犯として、継之助の墓石が何度も倒されたとも伝わる。戦いの最中には戦争に反対する農民が一揆をおこし、少なからぬ藩士が新政府軍に投降もしていた。

越後長岡藩の中堅どころの家に生まれた河井継之助は、北越戊辰戦争開戦時は家老上席で軍事総督であったから、相当優秀な人物であったのだろう。

継之助には商才もあり、たかだか7万5千石の小藩でありながら西洋の最新式の銃やガトリング砲などの兵器を買い込み、当初は、平和を護らんがために、スイスのような「武装中立国家」の実現を目指していたという。

ここからは、会津の営業さんと接し、上に立つ者は下位者を守るのが努めだと考えるネヲンの独善的なお話しです。ネヲン、継之助は完全に時代を読み違えた指導者だと思っている。

まず継之助の、誰のために戦う、なんのために戦う、という大義がみえない。敵は、領土の拡張を目的に攻め入ろうとする侵略軍ではない。この後、明治政府を作り上げた人たちの軍隊である。

この敵に「皇国の興廃この一戦にあり」と、女、子供までが武器をとって戦ったというなら、ネヲン何も言うことはない。また、継之助がたった一人でガトリング砲を撃ち続けて果てたというなら、サムライの美学と言えないこともないと思う。

さて、継之助は、旧江戸幕府軍勢力制圧のために、新政府が東征大総督府を設置し東征軍を進撃させたことをどのようにとらえていたのだろうか?

この時代の僅か20数年前には、イギリスが中国に侵略したアヘン戦争があった。その後、わが国にも列強諸国の強大さを知らしめた薩英戦争や下関戦争があった。

この時代、新政府の首脳が一番恐れたのは、この混乱に乗じた列強諸国の介入であろう。秀吉が天下統一めざし四国・九州へ平定の軍を送った時代の国内事情とは訳が違う。

例えば、長岡藩にはその気がなくとも、新式の銃を買い集め軍備を拡充する行為は、新政府にとっては反逆の兆候アリと映るであろう。そして、フランスなどから助言・指導を受けることは、列強諸国の軍事介入の口実のもとになると危惧するであろう。

また、継之助が唱えたスイスのような武装中立国家という考え方は、互いが牽制しあい戦力が拮抗した群雄割拠の時代ならば成り立つであろうが、錦の御旗を掲げる政府軍のまえには通用しない。秀吉が小田原の北条一族を制圧してのを見ればわかる。

また権力者は、いつの時代でも、どんな社会でも異端の者を排除しようとする。 古くは、坂上田村麻呂に蝦夷の阿弖流為(アテルイ)は征討された。奥州藤原氏は源頼朝に攻められて滅亡しいる。さらに、平将門や藤原純友なども政府軍に鎮圧されている。

そして旅行業界でも、無登録業者やレンタ、白バスを目の敵にした。

小千谷談判

船岡山慈眼寺
小千谷談判の地 船岡山慈眼寺

小千谷談判でも継之助は、相手(新政府)のことを完全に読み違えた交渉をしている。この時の新政府軍は既にゴジラ(巨大)になっているのだから、長岡藩はいかに踏みつぶされないような方策、たとえば、3万両を2万両に減額させるような交渉すべきであった。

のちに政府軍は、継之助に戦をあきらめるように説得ができる大物を対応させるべきだったと悔やんだが、岩村のような小僧に席を立たせるような談判をした継之助にも問題があったのだろう。

中立論をたてに、ゴジラと対等な交渉をしようなんて言うのは論外である。西郷隆盛と会談をして無血で江戸城明け渡しをした勝海舟を腰抜けだなんていう人はいない。

ある時、継之助は同胞に、たった一つだけ戦を回避する方法がある「俺の首をとり3万両を添えて西軍に届けよ」と言ったという。もし、継之助がこれを実行していたら、田中角栄以上に立派な銅像が長岡市内に建っていただろう。

戦後、長岡の危機から再興を目指し尽力したのが、継之助の幼馴染だった二人でした。一人は三島億二郎。もう一人は「米百俵」で長岡の人材育成に努めた小林虎三郎です。

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第三章 山内さんが変身

店舗移転

新店舗
新店舗

今も昔、平成4年(1992年)である。ネヲンと山内さんが起業して10年が過ぎた。

山内さんは、JTBなどの大手旅行会社の企画商品をきれいに並べて販売する商店街通り型の店舗をたたんで、自社開発の企画商品を販売するために事務所型の広い店舗に移った。

山内さんは、現在の飲んで歌ってチョイヤサ! の宴会主体の団体旅行はいずれいきつくと考えた。そこには、旅行本来の目的や意義が全くないからである。もっと楽しく面白い旅が提供できる方法ないかと考え始めたからである。

閃く

折込チラシ
折込チラシ

山内さん、ある朝、たくさんの新聞折込みチラシが気になった。特に読売旅行やタビックス、クラブツーリズムなどのツアー募集のチラシが多くなったからである。

山内さん、大手旅行会社のチラシと三日三晩にらめっこをした。午前中はお店で、午後はかって旅行業の勉強をした河原で、夜はお酒を飲みながら、そして、司馬遼太郎の「坂の上の雲」や「峠」を読み返しながら…。

これらのチラシを眺めていたら、これからは「個人参加型の団体旅行」の時代だと閃いた。これで思い通りの旅が作れると山内さんガッツポーズであった。胸の内にたまっていたモヤモヤが消し飛んだ。

大手旅行会社の多色刷りのチラシを見ると、たしかに旅はいいな~という気分になる。が、どこに行こうかという段階になるとその先の情報があまりにも少ない。限られた紙面でより多くの人たちにより多くの情報を提供しようとする表記法の弱点である。

敵の弱点は己の強みだ。山内さんは敵の弱点を「大雑把」だとし「繊細」で対抗すれば勝てると踏んだ。ますは、新聞折込などのテレビコマーシャル的な宣伝方法ではなく、ダイレクトメールで直接個人にアピールする方法を選んだ。

具体的には A4の用紙に一つの旅だけを記載して、この旅の目的と楽しさをより分かりやすく書いて、さらに、発着時間や行程等も詳しく書くことにした。

ゴロゴロツアー

ゴロゴロツアー
ゴロゴロツアー

そしてすぐに山内さんは、主力商品となる「ゴロゴロツアー」を誕生させた。余談だが、この時のヒラメキと上州名物の雷が重なってツアー名が決まった。

大手旅行会社の立派なチラシを前にした山内さんには、ゴロゴロツアーなんて旅のチラシを作ってもどうせ大手の旅行会社には敵いっこないなんていうマイナス思考はなかった。

並の旅行業者は、大変なことや出来ないことを指折り数えて戦う前にギブアップする。

山内さんは、大きな会社には人材も金もあるので出来ることが沢山あるが無敵ではない。逆に会社が大きいからこそ制約されることも沢山あると考えたのである。素晴らしい!

次はそのチラシの作成手段である。印刷会社に頼むことは最初から頭になかった。悩んだすえに印刷機を買う事にした。印刷機にはコピー機に比べ設置コストが高いのと印刷時の騒音という欠点があったが、印刷スピードと印刷コスパが決め手となった。

早速、チラシ作りを始めた。印刷機は一色刷りなので見栄えはあまりよくなかったが、そこは山内さんが知恵を絞って考えた企画である。すぐにお客さんの旅心をくすぐった。

そして、一色刷りの味気なさは色付きの用紙も使うことで華やかさを補った。

さらに、大手旅行会社との差別化を図るために旅先での車内のムード作りにも気を配った。

例えば、青森港から津軽海峡フェリーにのって函館港についた。フェリーが接岸すると船首からバウランプが降りて揚陸がはじまる。バスが動きはじめてバウランプと岸壁とのわずかなスキ間の通過するとガタンと音がする。その振動をのがさずカセットをボリュームいっぱいにしてONにする。

はるばるきたぜ函館♪…と、サブちゃんの歌声が響く。拍手喝采!

ひらめきを見逃した

旅するシニア
お客さん

地域密着型のツアーなので、参加者のみなさんと顔なじみになると一人一人の日常生活のことまでが気になった。ツアーに参加する朝、子や孫の眠りを妨げないよに気を使いながら慌ただしくお出かけの準備をするお客さんの姿が目に浮かんだ。

何か手助けができないかと考えた山内さんは、朝食用のおにぎりを提供することとした。おにぎりはコンビニで簡単に用意ができたし、出発前の慌ただしさから解放されたと、お客さんにも喜ばれた。これ、大手ツアー会社には真似のできないことであった。

山内さんは、車中で楽しそうにおしゃべりをしているお客さんたちを見て、どうです皆さん最高の旅でしょう! と自慢したかったが、ふと頭をよぎるものがあった。

山内さんに第二の閃きがあったが瞬間である。

このお客さんたちの多くは戦後の貧しく厳しい時代を必死に生き抜いてきた人たちである。もしかしたら、かっては夢にも思っていなかった旅行が楽しめるようになった今の幸せにひたっているのではないかと…。

残念ながら山内さんは、このお客さんたちのこの楽しそうなこの顔は、このオレの企画力の勝利だとして舞い降りた幸運を打ち消してしまった。もしかしたら、このお客さんたちと、子や孫の代まで親戚付き合いができる方法を編み出せたかも…、である。

ネヲンに風が吹く

そよ風が吹くイメージのイラスト
そよ風が吹く

ネヲンは営業が主な業務の総案をおこして10年以上も過ぎたというのに、恐そう(自信たっぷり)な旅行業者を前にするといまだにワキ汗が流れた。

ある日、ワキ汗の横綱みたいな旅行業者から起業以来初めての電話が鳴った。

「今、病院のベッドのうえから電話をしているんだ」と断りを入れて「おまえと、付き合うことにしたからタリフとパンフレットをもって店に来い 」と用件だけを言って切った。

タリフとは、A3サイズの厚紙に総案名と住所などと共に販売契約のある旅館やドライブイン等の一覧を印刷したものです。

翌朝一番にタリフとパンフを届けた。

事務所は暗くカラであったが、隣接する母屋で親父似の大柄な青年が乳飲み子を抱いてやさしそうな笑顔で迎えてくれた。「あとを継ぐことになりました」といって軽く頭をさげた。そばには、母親と嫁さんと無邪気にはしゃぐ3歳ぐらいの男の子がいた。

ネヲンはすべてが分かった。

ネヲンを見ても洟も引っ掛けなかった親父が電話をしてきた理由が。そして、もう一つ、あの大友社長が凄腕の支配人ではなく息子のパートナーにネヲンを据えようとしたのが…。

かって、いかがわしい不動産屋の営業をしていたヤツが「貧乏人の友達はみんな貧乏だ」と言った。ただ者ではないヤツの友達はみんなただ者ではないということである。

親とすれば、かわいい息子が、ただ者ではないヤツにいいように扱われるのが忍びないのだろう。人畜無害なネヲンならそんなことはないと思ったのだろう。

このワキ汗の横綱のこと以来、かわいい後継者を持つワキ汗の旅行業者さんたちが次々にネヲンを贔屓にしてくれるようになった。ヘボな営業でも続けていればいいこともある。おかげでネヲンはワキ汗から解放されたしお客さんも増えた。営業は売るだけではない。

ただし、その逆もあることを忘れてはいけない。

ネヲンと付き合いの深い旅行業者の息子たちは、その成長に合わせてネヲンから距離を置くようになる。息子たちにしてみれば、ほかにいい総案が沢山あるのに、なんでこんなヘボと付き合っているのかと思うのだろう。

世紀末

この10年の終盤、1998年3月には衝撃的な場面がテレビに映し出された。顔をくしゃくしゃにして鼻水を垂らし男泣きしながら「社員は悪くありませんから!」といい山一証券の野沢社長が自主廃業の発表をした。

世紀末ムードが漂った1999年はなにごともなく無事に通過した。

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第四章 今も昔

タマちゃん

タマちゃん
タマちゃん

今も昔、平成14年(2002年)である。あれから20年が過ぎた。この年の夏、アゴヒゲアザラシのこどもが多摩川の丸子橋付近に突然現れ「タマちゃんフィーバー」をまきおこし、新語・流行語大賞の年間大賞に選出された。

荒川さんの祝賀会

パーティー会場
創立15周年記念パーティー

ここは、かって織物、材木といった地場産業で栄えた埼玉県の南西部に位置する自然豊かな住環境と広大な森林に囲まれた飯能市である。

ここは、市街地の中心にある由緒ある老舗旅館である。今日は「荒川さん」が経営する旅行会社の創立15周年記念パーティーが催されている。ネヲンと山内さんも招待されていた。

荒川さんは、ネヲンとはホテルオートモ以来の付き合いであり、同年代の山内さんとともに旅を話題に時々飲み会をもつ間柄であった。

ネヲンは、いつもの旅行業界特有の顧客の招待というパーティーとは違って、雰囲気に緊張感があったので荒川さんに尋ねると、出席者80人ぐらいのうち三分の二は地元の商工業者から税理士、建築士、コンサルタントなどなどの若手経営者たちだと言った。

聞くところによると、荒川さんは、地域を盛り上げるために若手経営者が月一の会合をもってそれぞれの立場で将来のを語り合う未来志向のグループだと胸を張って力強く言った。

ネヲン、温泉旅館や旅行業者はどちらかというと日陰の仕事だと思っていたが、いまや世間並みの職業として扱われていることが嬉しくなった。

同時に大友社長が「浮かれて万歳をするな」といったことを思い浮かべていた。

すると、隣席の山内さんが突然「オレもこんなパーティーをしたい」といった。

それが大友社長の言葉とかさなってネヲンは「馬鹿なことを言うんじゃないよ」ときつい言葉を返してしまった。

ネヲン、ハッとしたが山内さんは「じゃあ止す」と、あっさりと引き下がった。それを聞いてネヲンはホッとすると同時に肩の力が抜けるのを感じた。

山内さんが踊り始めた

阿波踊り
阿波踊り

平成20年(2006年)2月に行われた冬季五輪トリノ大会のフィギュアスケート女子で「イナバウアー」を決めた荒川選手が金メダルを獲得した。

そしてこの年、仕事一筋に燃えていたあの山内さんが踊りを舞いはじめてしまった。

オリンピックの興奮もさめ葉桜の時期になったある日、山内さんがあっけらかんと「県の旅行業協会の会長になったよ」とネヲンにいった。ネヲンは「エッ!?」という驚きと大友社長の「浮かれて万歳をするな」が、また脳裏をよぎった。

旅行業界に団体旅行時代の終わりの風が赤城下ろしのように厳しく吹きはじめると、まちの旅行業者たちはほぼ壊滅状態になった。娯楽型の団体旅行をひかえるという風潮がおこると世間の人たちは我も我もとその流れを加速させたからだ。

先見の明があった山内さんは、いち早く個人参加型ツアーにシフトしていたので世間の風に負けず元気だった。その元気にあやかろうとする仲間たちの懇願より会長になったという。

ネヲンは、山内さんのことだから当然一期でやめるだろうと高を括っていたら、疲弊している仲間たちの力になるんだと張り切って、二期、三期と続けた。

そして、山内さんは旅行業協会長として「白バス」(道路運送法違反)の摘発と「無登録業者」(旅行業法違反)の撲滅運動にまじめに取り組んだ。

白バスだとか無登録業者の不正行為というは、白バスの乗ったら屋根に穴があいていて雨漏りがしたとか、無登録業者に手配してもらって旅館に行ったら部屋が無かったというものではない。無理を承知でいえば旅行業界全体の信用低下を著しく招くものではない。

白バスを摘発したり、無登録業者を追放したからといって協会員にどれ程のメリットがあるのかは疑問である。だが、日本は法治国家だから悪いことは絶対にイカンのだ。だったら法に触れることはお巡りさんに任せておけばいいじゃないかとネヲンは思った。

さらにさらに

不正行為撲滅運動で成果をあげ、業界の仕事にやりがいを見つけた山内さんは、近ごろとんでもないことを言いだした。協会からの日当や役員報酬がいつもポケットにあって、小遣いには困らないと真面目な顔でいった。上機嫌であった。

ネヲンは、あ~あ! はした金で本業の仕事時間の半分のを売り渡してしまったと思った。

幸いだったことは、会社の規模が社員まかせで会長職に専念できるほど大きくなかったことだ。ツアーの企画は山内さんにしかできなかったし、あとは経理の奥さんと添乗メイン女性社員との三人だけだったから、会社のことを顧みずにというわけにはいかなかったからだ。

魅力あるツアーさえ提供し続ければゴロゴロツアーは安泰であるという考えに陥ってしまった山内さん、たぐいまれなる才能も善し悪しである。販売努力や次の時代を予測する時間を無駄に使ってしまった。能力はむしろほどほどがいい。

もしここで本業に専念していたら、なぜ社員旅行や娯楽宴会型の団体旅行が少なくなったのか? とか、なぜどのツアー会社にも客があるのかと? と考えたであろう。さらに、ゴロゴロツアーはオレの企画力がすべてだ! との考えにも疑問を持ったであろう。

花ちゃん - 登場

大男のイラスト

山内さんが旅行業協会の仕事に現を抜かしている頃、ネヲンの事務所に伊豆長岡温泉の旅館の営業マンで通称「花ちゃん」というネヲンの子供位の若者が顔を出すようになった。

身長180㎝、体重100㎏をともに超えた巨漢であったが、色白でやさしそうな顔をしていたので圧迫感はなかった。本人曰く、体重も100kgを越えたら気にならなくなったそうだ。

花ちゃんは来所すると間もなく、力づくでネヲンにパソコンを導入させた。

ネヲン、老眼と固くなった頭をたたきながら創業時のように頑張った。花ちゃんは次に来た時「何をやってんですか」と本気で怒るからである。どこの親も子には弱い。

そして、ネヲンは自力でホームページ(HP)が作れるようになった。ただし、HPが作れるようになったのは花ちゃんではなく「トーマス先生」の指導のおかげであった。

トーマス先生が凄いのは、HPを作るのにホームページビルダーというソフトを使うのではなく、紙に鉛筆で書くように、無地のテキストファイルにHTMLとCSSを書き込むだけで出来上がる本格的な制作方法を教えてくれたことです。

もっと凄いのは、ネヲンのなぜ? どうして? なんで? 分からない! といったメールの問いに、なんと3年以上も適切で分かりやすい返事を毎回くれたことです。

なお、知ったふりをして胸を張っているヤツには注意が必要だ。3回も質問をすると「うるさい!」といって怒り出す。これって、本当に頭のいい人を見分ける極意です。

人って普通は、なぜ? という疑問を持つとそのあと答えを探す努力をいろいろとする。

ネヲンには、「なぜ?」と疑問を持ったあとの答えを自分で探すという発想が無い。そう、三歳児のようにすぐに周りの人に「どうして?」と教えを乞うタイプである。

人間っておもしろい。花ちゃん先生は、HP制作でネヲンに追い越されるとHP作りを辞めてしまった。ジジイに負けたことが悔しかったのかな?

ホームページ

ある時ネヲンは、いつまでも会長職にとどまっている山内さんをみかねて、このままでは将来的に禍根を残すよ、だからホームページを作ったらと強くすすめた。

山内さんはネヲンのきつい口調と自分でも近ごろ見聞きするホームページのことが気になったのか、すぐに反応して近所の業者に簡単なHPを作らせた。

しかし、HPはすぐに結果が出ないのと会長職のほうに気がいっていたので、HPの件は女子社員に丸投げしてしまった。彼女は優秀であったが添乗業務に忙殺されてHP作りには身が入らなかった。残念!

花ちゃん - もう一つの顔

花ちゃんのもう一つの顔は、通称【FF11】というオンラインゲームの世界で活躍する【ヴァナ芸人Yukihide】として超有名人であったが、ネヲンは詳しいことは分からなかった。

インベーダーゲームぐらいしか知らないネヲンに、その凄さの証明としてゲームへのアクセスカウンターを見せてくれた。表示された数字が目の前で、スロットのリールのように高速で回転していた。スゲー!

そんな花ちゃんが、これからは画像の時代だと言った。

文庫本育ちのネヲンはそんな時代になるわけがないだろうと反発した。だって、画像を何枚も並べたって思いは伝わらない、文章があってこその意思の疎通だろうと、同行セールス中の車内ではいつも親子喧嘩みたいだった。

そして、これからはユーチューブの時代だから取り組めとも言った。YouTubeはお金になると言った。具体的にはワンクリックで広告料が0.1円になるそうだ。

ネヲンは頭のなかで、1000クリックで100円かと計算して、すぐに、ダメ、ダメだと花ちゃんの提案を拒否した。

拒否の理由は、以前花ちゃんが、ブログをやれと言ってヤプログを開設してくれた。これに答えて関東の88ヶ所のお寺さんをまわって「東国へんろ」としてアップした。3年ぐらいかけてアップし続けたが読者はわずかに20人足らずであったからだ。

3年も努力した東国へんろの結果を見れば、ユーチューブをやってもクリックしてくれる人はいないと思った。ユーチューブとは、といことを知らないネヲンの結論であった。

なお、先ほどの花ちゃんのオンラインゲームの世界では、広告的なものをアップするとすぐにボイコットされたそうです。時代が早すぎたのである。

小さな野望

花ちゃんが来所すると、昼飯時をねらって県境の神流川を渡って必ず山内さんのところ二人して営業に行った。これにはネヲンの胸に秘めた小さな野望があったからだ。

山内さん訪問の目的は、ネヲンが山内さんと花ちゃんの三人でネット旅行会社の設立を目論んでいたからだ。そのために山内さんと花ちゃんを近づけようと昼飯時をねらったのだ。

この夢ははかなく消えた。山内さんがいっこうに興味を示さなかったからだ。

この結果の良し悪しの判定は難しい。大友社長の三つの教えの補足として「共同事業はするな」というのがあったからである。

株価が大暴落

舞い散る紙
舞い散る紙

平成20年(2008年)は、東京株式市場で株価が大暴落して、日経平均株価は、終値ではバブル後最安値となる7162円90銭まで下落した。

かって、創立15周年記念パーティを催した「荒川さん」が、最近、まちの旅行業者には不似合いなビジネスだとか商取引などという言葉を口にするようになった。

まちの旅行会社の営業は、顧客↔旅行業者↔旅館と濃密な人間関係で成り立っているのに、人間関係を排除するような言いようにネヲンはチョット違和感を覚えた。

そして、まちの旅行業者と旅館の間のには、宿泊料金の決済方法として怪しげなクーポン券制度があった。「怪しげ」というのは、大手旅行会社のクーポン券は、すぐに現金化できる金券であったが、まちの旅行業者のクーポン券には法的にはなんの保証もないただの紙切れをクーポン券と称していたからである。

このような、まちの旅行会社と温泉旅館との間に生まれた怪しげな宿泊料金の決済方法が、のちのちあちこちでトラブルや悲劇をもたらした。

自己破産

荒川さんが不動産投資の失敗でお店をたたむことになった。

倒産の影響は、ごくわずかであるがネヲンにも及んだ。あの時の荒川さんの言葉のおくには、我々の取引は相互信頼のうえに立つものではなく、機械的、すなわちドライなビジネス的な取引と思うことで、少しでも気持ちを楽にしたかったのだろう。

荒川さんは、山内さんと同じくネヲンの熱川温泉時代からの長い付き合いだった。城ヶ崎海岸の吊橋が大のお気に入りでによくホテルオートモに団体さんを連れて来ていた。

倒産の原因は、大友社長が言った「金を残そうと思うな」であった。地元の商工会仲間の税理士を信用しすぎてしまったのである。

まちの旅行業者(荒川さん)には、あやしげなクーポン券制度のせいで預金通帳にはいつもおおきな預金残高があった。お客さんから預かった宿泊料金の日にちと旅館に支払う日にちの間に大きな期間的なずれがあったからだ。景気のよい時代はその金額が膨大であった。

それを目にした税理士が、膨大な預金残高が宿泊料の預り金であることを知ってか知らずか、物知り顔で荒川さんに不動産投資をすすめたのである。旅行業者の売り上げは預り金の15%が最大であった。

不動産投資の話を小耳に挟んだネヲンは大友社長の話をしたが、荒川さんは、カネの専門家が言うのだから間違いないと聞き入れてくれなかった。残念!

税理士って、お金の専門家?

お金の専門家?
お金の専門家?

実はネヲン、学生時代に税理士をめざし村田簿記学校の夜間部に入学した。が、入学初日の担当教師の話を聞いて一日でやめてしまった。

先生曰く、人差し指をまるめながら税理士をめざす奴は、尻の穴が小さくなければ駄目だといった。借方貸方の合計が1円でも合わないと夜も寝られない仕事だから、1円、2円ぐらいでグズグズ言うなという性格のヤツはダメだと。さらに、尻の穴が小さいヤツは博才もないとも言った。

それを聞いたネヲン、博才はないがオレは性格がいい加減だからこれはダメだと思ったからである。

それでも旅館では経理係だったネヲンは、年度末になると大友社長と決算のことで会計事務所へ同行した。そこでの社長と元税務署所長だった所長との会話を、こんなことが許されるのだろうかとの思いでの目を丸くして聞いていた。

大友社長は、今期は利益が出すぎたから30%ぐらい圧縮しろといった。元税務署所長の所長は「そんなことは無理ですよ社長さん」と抵抗したが、大友社長は「税務の後始末をするのがあなたの仕事だろう」黙ってやれと突っぱねた。社長も所長もすごい人だと思った。

この話のシリはネヲンにまわってきた。所長の指示で在庫調整などの書類の書き換えをしなければならなかったからだ。辻褄を合わすることは結構大変なことだった。

税理士はお金の専門家ではない。税務の後始末屋である。税理士にすすめられて東京のマンションを買って大損をしたという旅館の社長もいるが、経営は自己責任である。

いい税理士もいる。ネヲンの同窓会も60歳を過ぎると元気になったおばさんがたくさんいた。税理士君を取り囲んで儲かる株を教えろと迫っていた。税理士君、オレはそんな柄じゃないと逃げ回っていた。えらいぞ税理士君! 税理士は税金のスペシャリストなのだ。

平成23年(2011年)3月11日14時46分頃に東日本大震災が発生した。

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第五章 今も昔

閉める

閂(かんぬき)
閂(かんぬき)

今も昔、平成24年(2012年)である。5月22日には、既存の電波塔・東京タワーにかわる世界一高い新タワー・東京スカイツリーが開業した。これは観光業界にとっては大きな観光資源となったが、業界全体にその効果が波及するほどには至らなかった。

ネヲンと山内さんが起業して30年が経った。前年の東日本大震災以降、観光業界は一段と厳しさを増した。特に宿泊を伴う娯楽宴会型の団体旅行は無きに等しくなった。

平成26年(2014年)2月には、クリミア半島にロシアが軍事介入しウクライナ危機がおこり冷戦後の国際秩序が大きく揺らいだ。

ネヲン、総案を廃業

東日本大震災とかウクライナ危機の影響ではないだろうが、ネヲンの事務所では電話が日に数回しか鳴らなくなった。開業時は電話が鳴るのを熱き心で待ち続けられたが、今では電話が鳴るのを待ついうことが拷問に等しくなっていた。

「携帯があるじゃない」という声が聞こえそうだが、速い、正確、丁寧がモットーの総案業務では「後ほどお電話します」というは通用しないから辛いのである。

真夏の強い日差しが照りつける平成27年(2015年)のある日、電話係り謙経理係りの家内が「もう仕事をやめたら」といった。

創業時の貧乏に耐え抜いた家内のその言葉に、老後の年金生活にも目処(目途)が立っていそうだし、ネヲンの後期高齢者入りもまじかだったので、あっさりと廃業を決めた。

ネヲンは思い起こした。退職時に大友社長がいった「総案は虚業だぞ、どうせなら、旅行業者になれ」との忠告を受けた。そのときのネヲンは、自分は旅行業者になれるほどタフではないと思っていたので社長のアドバイスは聞き流した。

やはり社長の言葉通り虚業の総案は弱かった。観光業界(街の旅行業者や温泉旅館)の終末を告げる風が一番初めに吹きつけた。ネヲンは社長のアドバイスを無視したことを悔いているのではない。自分の実力相応に鶏の頭として精一杯生きてきたことに誇りに思っている。

うれしい便り

桜の花
桜の花

自己破産した荒川さんが復権に向けて動き始めていた。狭い田舎のことなので地域の皆さんとの信用回復を一番に努めているという。とは言っても、一度失った信用を回復することは並大抵ではない。まずは黙って、5年、10年と地道に働く覚悟だと言ってきた。

平成27年(2015年)は、家電やブランド品などを大量に購入する「爆買い」が流行語大賞に選ばれたほどに外国人観光客が激増した。

花ちゃん - 3

大男のイラスト

この年、花ちゃんが結婚して東京都下に転居した。花ちゃんは身体がでかく重そうであったが思考力は柔軟であった。奥さんの生活スタイルを優先して、伊豆長岡温泉の旅館を退職して現住所に移ったのである。本人は、近くの小さな観光バス会社に就職した。

花ちゃんの担当は旅行部門のチーフであった。新しい仕事の話を聞てネヲンは、なんでいまさらそんな厳し仕事をと、ジイさん特有のつまらぬ心配をした。

OTA

OTAとは、Online Travel Agentの略で、インターネット専業旅行会社のことです。一休.com や 楽天トラベルなどがその代表です。

ネット販促

さて、団体旅行とは、旅行業者が会社などを訪問し旅行の勧誘するところからじまると、昭和生まれのネヲンをはじめ、この年代の街の旅行業者や温泉旅館の人たちは思っている。なおかつ、この流れ以外には絶対にありえないとさえ信じ込んでいる。

ある日ネヲンは、花ちゃんの仕事場をのぞいた。花ちゃんは営業にも出ずまっ昼間だというのにパソコンをいじっていた。ネヲンいらぬ心配をし、まわりをそっと見まわし小声で「おまえ、営業にでないのか」というと「これが営業です」という返事が返ってきた。

ネヲンには「これが営業です」という花ちゃんの言葉がにわかには信じられなかった。

しかし、花ちゃんがネヲンのほうにパソコンを向け、指でさし示すネット上には、IT業界を中心として大小の団体さんがウジャウジャといた。歴史の浅いIT業界内では融和を目的とした職場旅行は依然として有効な福利厚生の一環なのだろう。

花ちゃんの説明によると、対人関係で成り立つリアルな旅行業界に『お客さん→旅行業者→旅館』という流れがあるように、ネットの世界にも『お客さん→ネット旅行業者→旅館』という流れがあるという。

ここで花ちゃんが「ネット旅行業界」なるものの一例をあげてくれた。国内旅行 無料一括見積りサイトというキャッチフレーズの「団体旅行ナビ」というホームページがある。お客さんは、このサイトから見積もりの依頼すれば、すぐに、複数の旅行会社から無料でプランを提案してもらえるそうだ。

団体旅行の幹事さんが「団体旅行ナビ」に依頼した情報は、団体旅行ナビと契約を結んだ旅行業者(有料会員)にのみ情報を公開し入札者を募るというシステムになっている。そして、僕は今そのページを見ているのだと花ちゃんが言った。

花ちゃんは続けて、お客さんを獲得するためには、お客さん情報一閲のなかから任意のお客さんを選び見積もりを提出するのだが、そのためには、入札権みたいな意味で応募軒数に応じて別途料金を団体旅行ナビに支払うので、手あたり次第の応募とはいかなかいと言った。

さらに、団体旅行ナビに登録している旅行業者は、JTBをはじめとしてピンからキリまでの旅行業者が名を連ねているので、見積もりの提出先を選ぶのには神経を使うとも言っていた。まあ、ここが僕の腕の見せ所でもあると添えて…。どこでも競争は厳しい。

世の中って、常識を打ち破ったこんな人たちが勝者になる。

その後花ちゃんは、初年度300万円、2年目が500万円、そして、3年目には800万円もの利益を上げて大いに会社に貢献した。

ここで特筆すべきは、慰安型の団体旅行が減少したおかげで、お客さんを確保しさえすれば土曜、日曜に関係なく宿泊先の旅館が確保できたことである。

さらに、さらに「芸は身を助く」というのがある。IT業界には、花里さんがオンラインゲームの【FF11】で活躍した有名人の【ヴァナ芸人Yukihide】というのを知っている人たちが大勢いたのである。その人たちが旅行の幹事の適齢期になっていたのだ。

山内さん、再挑戦!

日はまたのぼる
再挑戦

平成30年(2018年)は、平昌五輪でフィギュア男子の羽生結弦が連覇し、大谷翔平がメジャー新人王に輝いた。確実に新しい時代が到来していた。

山内さんは、ゴロゴロツアーの象徴である初詣ツアーの実績が三分の一になってしまい、さすがに、これはいかんと旅行業協会の会長職も辞し、ゴロゴロツアーの再構築に着手したが、どこをどうすればというのは全く見えず、すべてが手探りであった。

山内さんが再スタートに意欲を燃やすのは、自営業者には、サラリーマンには計り知れないもうひと花咲かそうとする仕事のムシが住み着いていてその虫が動き始めるからだ。

山内さん、よくよく考えたら、近所のヘッポコ業者もゴロゴロツアーの真似事をしてそこそこお客さんを集めていた。ということは、オレの企画にほれ込んでお客さんが集まったというより、戦後育ちの苦労人たちが手ごろな娯楽として群がったということになる。

そして、ゴロゴロツアー衰退は時代の変化によるものだから、解決方法は新しい時代の流れを見つけ出しそれをつかみ取るしか無いという結論は出たが、答えが見つからない。

先を見据えようと「うぅん」と山内さんは首をひねって考えた。ツアー客を増やすには、ゴロゴロツアーの第二世代を獲得するしかない。だがこれは、考えれば考えるほど絶望的である。

答えが出ないのは当然である。「閃き」は、熱き心で仕事に没頭する人の熱量が天の神様に届き、それに神様が報いて投げ返してくれるものだからである。

山内さんは仕事を投げ出して遊んでいたわけではないが、県の旅行業界の会長として、その職に熱を入れすぎ本業がおろそかになってしまって熱量が下がってしまったからだ。

絶やすな! 高崎 絶メシグルメ

絶メシグルメ
絶やすな!

では、どうする!

簡単なのは、長いお付き合いのツアーのお客さんと共に山内さんが消えてなくなることだ。オレ、そんなのイヤだと本気で復活を願うのなら行動あるのみだ。

まちの旅行業者はオワコンである。復活の可能性があるのは、かってネヲンが、ゴキブリのように這いずり回って生き残ったように、山内さんも第二世代の人たちの仲間入りができるように地道な努力をして仕事に対する熱量をあげるしか方法はない。

また、一から始めよう。ファイト!

春よ来い、花よ咲け!

〈完〉

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