エンジェルフォール
この物語は、まだ大学生だった与田さんが、当時、ホームステイ先のカナダで、英会話のマスターができずにもがき苦しんだ時代のほろにがい紀行記である。今となっては楽しい想い出だが・・・。

- 前編
- 後編
登場人物
「湯の街ネヲン」
自衛隊を経て風光明媚で温暖な伊豆熱川温泉の海辺の旅館に就職。その後、生まれ故郷の埼玉県で総案を起業する。
「与田泰和」
さいたま市内で旅行業を営む。実家は栃木県で裕福な農家の長男である。年齢は40才そこそこで独身である。性格は良く頭もよかった。
前篇・目次
- 1. カナダでの苦い思い出
- 2. スケールの大きな気分転換
- 3. シモン・ボリバル国際空港にて
- 4. カナイマ湖畔にて
- 5. いざ、エンジェルフォールへ
1. カナダでの苦い思い出
昨年は東日本大震災をはじめとして、わが国は多くの不幸に見舞われた。そのせいか、2012年は年が明けてもなかなか春がやって来なかった。人々は春のうららかな日射しを感じとることが出来なかったが、それでも時は流れサクラが咲きゴールデンウィークへと移っていったが、多くの人達は身も心も真冬の身支度のままであった。
春とは、新しい芽吹きをそこここに見つけるたびに暖かさを感じるのである。春とは、一枚また一枚と衣装を脱ぎ捨てていくたびに、心の軽やかさを感じ取るのである。今年の春には、そんな華やぎがなかった。
そんな年のゴールデンウィークも過ぎ去ったある日、湯の街ネヲンの事務所に旅行業者の与田さんが遊びに来た。
人々が、酒やビールを飲まなくなったわけではない。
人々が、ジュースやコーラを飲まなくなったわけではない。
なのに、街中から酒屋さんが消えていった。
今は、家食回帰だというが人々は家の中に閉じこもったままではない。今は、温泉旅館業界が不況にあえいでいるが旅行をする人々がいなくなったわけではない。なのに、街中からは個人の旅行業者のみならず、大手旅行会社でさえもあいついで店舗を閉鎖をしている。
現在は旅行業者の受難の時代である。
なのに、与田さん、晴れ晴れとした顔をしていた。
「ねぇ与田さん、あなたのその元気はどこから…?」
と、湯の街ネヲンがたずねると、
「僕は、学生時代に苦難の乗り越え方を、この身をもって体験したからです」
と、こともなげな顔で答えた。
「え、その若さで苦境脱出法を悟ったというのかい?」
「ええ、なんとなくですけどね…」
湯の街ネヲンは「うぅ~ん…」と感嘆の声を漏らしつつ腕組みをしながらしばし考えた。そして、ここは一番、与田さんにいろいろなことを教えてもらうことに決めた。そうなると、なんでも知りたがりの湯の街ネヲンは、相手の年齢などにはお構いなく、なんでもズケズケと言ったり聞いたりできるタイプであった。
「その学生時代の体験談とやらは後で聞かせてもらうとして、最初に、現在のこの旅行業界の困った状況に対する与田さんの考えを聞かせてくれる」とズバリと切り込んだ。
与田さんの単純で明快な意見を聞こう。
まずは、今日までの旅行業界のビジネスモデルが終わったということをはっきりと自覚することです。終わってしまったことにいつまでも未練たらしくしがみ付こうとして、この状況を小手先で回避しようなどというさもしい根性が先を見る目を曇らせるのです。
だから、すべてを一からやり直す気概をもって真正面から堂々とこの現状に向き合えばいいのです。そうすれば、この業界の問題点がはっきりと浮かび上がってきます。相手の正体さえみえれば、答えは自然と出ます。世の中に永遠の既得権なんてありません。これまで旅行業で飯を食ってきたから、これからも…、なんて考えは通用しません。
考え方を変えて、新たな気持ちで努力したもののみが生きる権利を与えられます。この業界の人達の次の一手は、もう見えています。パソコンをいかに活用するかです。これしかありません。この現実にウダウダと理屈をこねている人は死(廃業)あるのみです。と与田さんはキッパリと言った。
「やっぱり、パソコンか…、オレもそう思う」と、湯ノ街ネヲンも同調した。
「ところで与田さん、パソコンの具体的な活用とは…?」
「決まっているじゃないですか、ホームページですよ、ホームページ」
そして、さらに続けていった。
「だから私は今、ホーペジビルダーのソフトとワードプレスの本を買って猛勉強しています」
「だったら、ホームページ制作会社に作らせたほうが早いんじゃない」と、余計な一言をいった湯の街ネヲンに対して、一瞬、バカかオマエはという眼をして与田さんが言った。
「魚屋や八百屋(HP制作会社の意味)が作ったホームページで、旅行会社が戦えるわけがないでしょう!」、と…。そして続けた。「旅行会社のホームページは旅行のプロが作ってはじめて使えるんです。剣豪の宮本武蔵でさえ、愛用の刀を携えていたでしょう。刀ななら、なんでもよかったなんて話聞いたことがありますか?」
見事に一本取られた湯の街ネヲンであるが、そんなことには動じない。むしろ、コイツ、若いのになかなかやるなと思った。聞くは一生の得、聞かぬは一生の損、という思考回路の持ち主であった。
その苦難の乗り越え方とやらを教えて」と、オレは興味深げに身を乗り出した。
「苦難の乗り越え方、そんなの簡単さ、絶望の中に希望を見つければいいのさ」と、与田さんはあっさりと言った。
「そんなこと言ったって、簡単には…」と、湯の街ネヲンがモゴモゴと言っていると「まあ、口で言うほど簡単ではないが、自分のまわりにある数々の暗雲を一つ一つ取り除く努力をすれば、その先には、きっと希望の光が見える」ということだ、と与田さんは続けた。
「じゃあ、その学生時代の体験談をぜひ聞かせて」とオレは話の続きをお願いした。与田さんは、今となっては楽しい想い出だが、当時は、たった一人でもがき苦しみ続けたという学生時代のにがい体験話をしてくれた。

その話は…、じつは僕、学生時代に英語の勉強をしようと、カナダでホームステイをしたことがあるんだ、というところから始まった。
カナダに渡ってはじめの3ヶ月はそれこそ寝る間も惜しんで勉強をした。朝は5時に起きて予習をしてから学校に行った。ここでの授業が終わると更にもう一つの学校へ行った。そこでも二時間の勉強をした。二校での勉強が終り下宿先に戻ると、こんどは復習や宿題にと精を出した。そんな努力の甲斐があってクラスでは最優秀賞みたいなものを貰った。
ここまでは順調だったが、この後すぐに、どうしても乗り越えることの出来ない大きな壁にぶち当たってしまった。その壁とは、ペーパーテストの成績はよかったが、話すこと(会話)が全く進歩しなかったことだ…。僕はかなり落ち込んだ。だからといってカナダまで来て弱気になんかいられない。気を取り直し、二つ目の学校では先生を変えたりしてなお一層頑張った。が、なかなか成果が現れなかった。
特に、月に一度受けるトーイック(TOE I C)の点数が全く伸びなかった。先生に相談してみたが、先生も首をかしげるだけだった。👉トーイックとは、国際コミュニケーション英語能力テストのことで、英語を母語としない人を対象としたものです。主催は ETS(米国の民間の教育研究機関)です。
同じ時期にホームステイしたほとんどの生徒たちが、長くても3ヶ月ぐらいで学校を変えたり、働きだしたりしていくの見ていて、僕も環境を変え気分を一新し再度やり直そうと考え、再挑戦のプランを練っていたら、相談した先生の「頭を少し休めたら…」とのアドバイスを思い出した。そうだ、それが正解かもと思った。そして、ここは一番、勉強以外のことにおもいきり羽根を伸ばしてみようと決めた。タイミングも丁度よかった。カナダでは夏になると先生達もひと月の休暇をとったからだ。
そんな訳で、当初はカナダ中を旅行するかアメリカにでも行ってみようかと考えていた。そんな折、以前クラスメートだった韓国人と街なかでバッタリと出会った。その彼が自慢げに南米旅行の話をした。彼の話を聞くまでは南米なんて思いもよらなかったが、話を聞くうちに南米のことで頭の中が一杯になった。
そうだ、頭を休めるのには英語圏じゃない方がいい。また、今後こんなチャンスは二度とないだろうから、と自分で自分を納得させて、とにかく行けるだけ行ってみようと、南米行きの行動を開始した。そのときの僕の南米に対する知識は、本やテレビで見たエンジェルフォールとか、ガラパゴスやマチュピチュだけだった。今思うと随分と乱暴な行動であった。
2. スケールの大きな気分転換
先走って悪いけど、と前置きをしてオレは、「ところで与田さんは、英語はペラペラになったの?」と聞いた。すると与田さんは、一瞬、くもった表情をしたが元気に「語学習得の道、未だ成功に至らず…」とニヤリとして答えた。語学習得を止めさえしなければ、それは失敗とはいえないとも言った。
与田さんは心の一端を吐露したせいか、晴れ晴れとした顔でカナダや南米で過ごした日々の続きを話してくれた。
実は僕…。当時はだいぶ意気消沈していたうえに異国での一人旅、ただもう無我夢中で細かいことに気が回らなかった。おかげで大チョンボをやらかしてしまった。たぶん、出入国のどさくさのさなかだと思うけどカメラを紛失してしまった。南米へ出国する際のカナダのトロント・ピアソン国際空港で紛失したのか、ベネズエラのカラカスのシモン・ボリバル国際空港で盗難にあったのだと思う。
ベネズエラのホテルに着いて、一日の慌ただしさから解放され、ふと我にかえり荷物を探ったときには、すでに、カメラはなかったのです。日本にいては、たかがカメラと思うでしょうが、未開の地ではインスタントカメラしか買えないのです。おかげで、折角の大冒険をしたというのに記録の映像がほんの少ししか残っていません。残念なことです…。
与田さんは、数少ない写真の一枚を見せながら話を進めた。

このエンジェルフォール、チョット見には日光の華厳の滝か勝浦の那智の滝のようにみえるでしょう。那智の滝は関東からは簡単には行けないが、華厳の滝なら浅草から電車に乗れば日帰りが出来る。このとき僕は世界ってとてつもなく広いと思った。日本での滝見見物とは違って、このエンジェルフォールを見るには、それこそ命がけで見に行かなければならなかった。
ギアナ高地の、979mの高さから流れ落ちる世界一の滝・エンジェルフォールは「見に行く」というよりは「探検に出掛ける」と言った方が適切であると思った。それほど、日本人が持つ旅のイメージとは異なった。
エンジェルフォールへの旅(探検)をするには、まず、その前衛基地となるカナイマという村に行かなくてはならない。ここで体勢を整えて目的地へ向かうのである。
カナイマまでは、プエルト オルダス空港から四人乗りのセスナ機で1時間20分はどかけて行った。なにしろ道路が無いので飛行機で行くしかないからだ。
セスナ機からの視界は、延々と広がった緑のジャングルと、真っ青な空だけだった。上空の青空と眼下の緑のたった二色の世界になってしまった。日本の、白と黒の墨絵のような雪景色とおなじで、それは、口では言い表せない、緑と青の素晴らしいコントラストの世界でした。
乗客は、僕とイギリス人の新婚さんだった。だから、当然、僕はパイロットの横の席であった。お蔭で、ベネズエラの国旗の様なすてきなコントラストの世界を堪能できました。

思い出はそれともう一つ、この新婚さんがまたとても格好良かった。インディージョーンズみたいな、サファリスタイルのペアルックでさ…。
カナイマの空港に着陸してビックリした。なんと、そこの滑走路は山奥の道路みたいにただ土をならしただけであった。ここに着いてはじめてセスナ機に乗った意味が解った。
飛行機が止まると現地の人達が数人集まってきた。尋ねられるままに名前を言うと、僕とイギリス人の新婚さんは、なんと同じセスナ機で来たのに二組(?)に分けられた。それを知ったのは、ガイドさんが別々に歩きはじめたからである。この三人でずっと行動を共にするものと思っていた僕はチョット違和感を感じた。
ガイドに、空港から歩いて5分位のところにあるホテルに連れて行かれた。ここでは、信じられないことの連続であった。まず、部屋には窓がなかった。電気をつけないと真っ暗であった。ただ、コンクリートで囲っただけという感じであった。部屋というよりは牢屋ではないかと思った。そしたら、急に不安が募ってきた。でも、シーツやタオルが清潔だったのを見てホッとした。その不安が少し和らいだ。
3. シモン・ボリバル国際空港
「チョ、チョット待ってよ、与田さん…」、現地の怪しげなホテルにチェックインというところまで、話が一気に進んでしまったけど、面白そうな話なので先へ進む前にいくつか教えてもらいことがる。と言ってオレは与田さんの話しを遮った。
まず、カナダからセスナに乗るところまでは、どうやって移動したの?。
「あ、ごめん。すこしはしょりすぎたね」と言って与田さんは、行程を少しまきもどしてくれた。カナダからエンジェルフォールに行くには、まず、カナダのトロント・ピアソン国際空港からベネズエラの首都・カラカスのシモン・ボリバル国際空港へと飛行機で移動しなければならない。
予約した切符を見ると、カラカスへは夜中の到着となるのがわかったので、ホテルの予約はもちろんのこと、ホテルまでのピックアップ(迎えの車)も手配した。ピックアップまで予約したのは、話しによるとカラカスは世界でも名高い危険な都市だったからです。噂話どうりというか、到着が真夜中であったというせいか、空港に降り立つとそこには危険な匂が漂っていた。本能的に身がひきしまった。
でも、トロントからカラカスへの移動は、たったの5時間余りだったし、おまけに時差もなかったので、空の旅はとっても快適だったよ。
先ほども話したが、デジカメの紛失に気が付いたのは、カラカスのホテルにチェックインして、荷物を開けた時のことでした。ベットの上にすべて荷物をひろげ、思い違いであるようにと祈る気持ちで、一つ一つの入れ物をすべてチェックした。どこで失くしたのかを思いめぐらしながら…。

そんなとき、ふと思い当たることが浮かんできました。カナダのトロントにあるピアソン国際空港での出来事である…。それは、テロ騒動以来、液体類は機内に持ち込めないということを、すっかり忘れてしまい、カナダで買ったアイスワインのセットを機内に持ち込もうとしたときのことでした。
禁止事項に気が付いたときは、すでに、荷物を預けてしまった後なので慌てふためいてしまった。たぶん真っ青な顔をしていたのだと思う。そのとき、それに気がついたのか、とても親切な係員がいて、特別に段ボールを用意してワインセットを預かってくれることになった。有難かった。まさに地獄で仏であった。
その時、あせる気持ちがいっぱいで荷物の入れ替えをした。パスポートやチケットなどの大事なもののほうにばかり気がいって、カメラを置き忘れたことに気がつかなかったのだと思う。ベットの上で暫く思いをめぐらしていたが、残念ながら諦めざるを得なかった
明日はここから、プエルト・オルダス空港を経由してギアナ高地への拠点、カナイマまで移動しなければならない。気持ちを切り替えてはやばやと寝た。
翌早朝、迎えの車(ピックアップ)に乗って、シモン・ボリバル国際空港に行った。空港までの移動中の車内から見たカラカスの街並みは、昨夜の印象とはまったく違って、とても爽やかであった。

ネヲンさん、ここからは、当時の僕が、ただ単に無気力なって現実逃避の生活をしていたのではないということを証明する話しだからよく聞いていてね。とシモン・ボリバル国際空港での出来事を話しはじめる前に、与田さんがことわりを入れた。

僕がシモン・ボリバル国際空港のカウンターで、プエルト・オルダス空港行きのチェックインをしようと並んでいたら、そのうち、何となく様子が変であることに気が付いた。その場の空気の変化が何なのかは、会話を交わす人達の言語がすべてスペイン語なので全く理解出来なかったが、僕は異様なものの正体を探るべく本能のアンテナを全開にしました。
そうこうしているうちに、僕の前に並んでいた数人の人達が係員と話しながらどこかへ移動しようとするそぶりを示した。それに気づいた僕はとっさの行動に出た。移動を始めようとする人達のうちの一人の大柄な男性の袖を引っ張って僕のチケットを見せた。すると、その大柄の男性は、空港の係員にむかって何やら大声でワアワアと喋った。僕にはなにがなにやらチンプンカンプンであった。そして、その大男は僕にも付いてくるようにと身振りで示した。
事の顛末は、僕の予約していた便が欠航であったのだ。
親切な外国人(僕から見て)のお蔭で僕は、同じ時間帯の他社の飛行機に乗ることが出来ました。幸運はそれだけではなかった。その飛行機の空席は5人分だけであった。これは、言葉が全く解らないという緊張感からか、五感が異常に研ぎ澄まされていた結果だと思った。本当にラッキーでした。
「無気力って、五感が働かない状態だよね。そうだよね、ネヲンさん!」と、与田さんが念を押した。
4. カナイマ湖畔にて
話は怪しげなホテルに投宿し不安に駆られてしまった、というところへ戻ります。僕はカナイマ湖畔の怪しげなホテルに連れ込まれてしまったのでは、という不安から握ったこぶしに力が入った。そこが、あまりにも日本のホテルの様式とはかけ離れていたからだ。少し経って解ったことだが、ここらのホテルは、どこも、これがごくあたりまえのスタイルのようだった。日本の観光地とは全く趣が違ったので不安に駆られたが、ここは、れっきとしたギアナ高地観光の中心となる場所でした。
カナイマ村はエンジェルフォールへの玄関口です。
エンジェルフォールへ行くには、一旦、カナイマに集結しなくてはなりません。それは、エンジェルフォールへの道は、ここから水路を遡っていくしか方法がないからです。しかも、水量の豊富な雨季しか行くことができません。
僕たち日本人は、旅行とは必ず添乗員さんが寄り添ってくれて、道みち手取り足取り面倒を見てくれるものだと思い込んでいる。さらに、旅行とは添乗員さんやバスガイドさんの指示に従っていれば、気楽で安心安全な旅が保証されているものと信じ込んでいる。僕は日本でのそんな旅行に慣れきっていたので、今回のように、すべてが自己責任という旅に面食らっていた。
道中幾つかの苦難に出会ったが、そのたびに歯をくいしばって頑張れたのは、目的地のホテルにたどり着きさえすれば…、という淡い期待があったからだ。なのに、やっとこさカナイマにたどり着いたというのに、そこには、待っていてくれるはずの暖かさや安心感がまったくなかった。見ず知らずの土地にたった一人で放り出されてしまったような気がして、余計に不安感に襲われたようだった。
異国でしみじみと思った。
日本の温泉旅館って、いいな~って。
ホテルの前で、別れ際にガイドが言った。「午後からは、ここカナイマ湖からカラオ川をボートで30分ぐらい下ったところにある、ユリの滝を見学に行くので、お昼なったら○○レストランに来い」と…。神経が研ぎ澄まされてきた僕は、その言葉にすぐに反応して、腕時計の針の位置を確認した。そして、すかさず聞き返した。「その時刻まで、どこでなにをしてればいいのか?」と、
ガイドは、あっさりと答えた。「その辺で、ぶらぶらしていろ」と、異国に地でたった一人にされてしまった。多くの人々は口々に自由を求めるが、本当の自由とは恐ろしいものだとおもった。我々が求めている自由とは、しがらみだとか煩わしさの中での解放感であるとおもった。複雑な人間関係が急に懐かしくなった。
孤独な時間がゆるゆると過ぎて、やっと、指定されたレストランへ出向く時刻となった。レストランへ入って一人ポツンとしていると驚くことがおこった。一気に孤独から開放された。どこにいたのか、色とりどりの格好をした大柄で陽気そうな南米人らしき一団と白人らしき人が二人…、ざっと見渡したところ15~6人の異国人がぞろぞろと入ってきた。
そのときの昼飯でナニを食べたのかは思い出せない。ただ、日本のレストランでとる食事とは大きくイメージが違っていたという記憶しかない。ボリュームはタップリであったが全体的な感じはごく質素だった気がする。
食事の内容の記憶がないのは、たぶんの周りの人達に気を取られていたからだろう。手と口は食事を摂ることに使い、目と脳はあたりの人達を観察するために動かしていたのだろう。ほとんどの人達がスペイン語で陽気に会話をしていた。もちろん、僕はこのときスペイン語が解っていたのではない。南米という土地柄と風体からそのように想像したのだ。
このグループの人達と明らかに外見が違ったのは、僕とオランダ人とイスラエル人の男性の三人であった。もちろん、彼等がオランダ人とイスラエル人であるということを知ったのはツアーの途中でのことです。
僕はこの場の雰囲気からして、この人達と一緒にエンジェルフォールへ行くのでは…、ということを察した。
南米の人達のグループに入り込む余地はなかった。ならばと、僕は勇気を出して二人の白人にカタコトの英語で話しかけた。同じ環境下に置かれていたせか二人はすぐにうちとけてくれた。異国でたった一人というのは案外厳しいものがある。そんな時、話し相手が出来たということはラッキーであり本当に心強かった。助かった。緊張感がほぐれた。
レストランでの昼食時間が過ぎると、想像したとおりここに集まった人達が一団となってツアーが開始された。
この日は、この近くにある「ユリの滝」へ出かけました。
まずレストランの裏手から5分ほど歩いたところにあるカナイマ湖にむかった。湖はさすが南米だけあってとほうもなく大きく感じた。そこで、我々の一行は二組みに分かれて木製のボートに乗り対岸へ行きました。30分はゆうにかかった。途中、大きな滝から大量の水が湖に流れ込んでいるのが見えた。

この湖は一目見たときは水面が真茶色であり、汚く濁っているのかと思った。しかし、手の届くところでみると以外にもすっごく透明であった。まるで湖が紅茶かアメリカンコーヒーで出来ているかのような印象でした。ガイドの説明によると、生い茂るジャングルの木々からタンニンという物質がが溶け出して、このような茶色になるとのことでした。湖畔では透明な水が静かに波打っていた。浜辺の砂は淡いピンク色をしていた。
ボートを降りるとしばらく平らな道を歩かされた。やがてその道は細くなり山道とになった。山道を登りきるとそこは薄暗く轟音に包まれたジメジメとした大空間だった。右手は断崖絶壁であり、左側は轟音と共に大量の水が落下していた。大きな大きな滝の裏側でした。水のカーテンなどという生やさしいものではない。想像を絶する水しぶきを浴びながら黙々と歩いた。やっと滝の裏側を抜けだすと、そこには、かって見たこともない壮大で素晴らしい南米の景色が広がっていた。
大自然って広大でとっても凄いと思った。日本では大自然は美しいという表現をするが、それとは全く印象が違う。
帰路は、湖の岸辺にそっての歩きであった。
先ほどの裏見の滝から眺めた広大な自然のなかに溶け込むかのように歩き続けると、また、別の滝のまえに出た。一行はその滝のおおきな滝つぼで子供のようにはしゃぎまわって遊んだ。大自然のなかで童心にかえることは、年齢や男女、人種を問わずみんな同じであった。
たっぷり遊んだあとの爽快な気分で一行は歩を進めた。このツアーは驚きの連続である。歩くことしばし、今度はなんと往路、湖上から眺めた滝の上にでた。湖上からの景色とは真逆である。今度は、滝の気持ちになって湖上をながめた。絶景かな! 絶景かな! であった。
そして最後は、ツアー会社が用意したホテルでの夕食をすませたあと我々は解散した。みんながそれぞれ明日はいよいよエンジェルフォールだ、との想いを胸に秘めて各自の投宿先へ散っていった。
僕は一日の締めくくりとして湖のほとりに建つとあるホテルのバー繰り出した。二人の若いバーテンを相手に一杯やってから、監獄のような部屋に戻り眠りにつきました。
一杯やったホテルは、僕が泊まるホテルより数ランク上でたぶんカナイマで一番であろうと思われた。でも、日本の民宿かコテージのレベルです。ホテルのバーテンの話だと日本人のツアー客もよく来るとのことでした。でも、僕のいまの心境は、観光での心地よい疲れとアルコールの入った気分のよさで、眠れさえすればそんなことはどうでもよいことであった。
5. いざ、エンジェルフォールへ
「与田さん、眠りにつく前に教えてもらいたいことがある」とまたしても知りたがりの湯の街ネヲンが話しの腰を折った。
「ところで与田さんは、未開のジャングルみたいな所へ踏み入ったわけだよね。で、そこには蚊や虻、ヒルなどの毒虫がいっぱいいたんじゃないの。そいつらに刺されたり食いつかれたりはしなかったの?」と、聞いてさらに続けて
「それからさ、大きな滝の裏側をくぐり抜けたり、滝つぼではウォータースライダーみたいなことをやって遊んだんでしょう。一日中そんなことをやっていたら大量の水をあびて、服や靴はもちろん、シャツやパンツまでグチョグチョになってしまったでしょう。熱帯のジャングルは湿気も多そうだし気持ち悪くなかったの…?」と、オレは、現地での様子に興味津々であった。
「あ、ゴメンネ!」なにしろ話すことが一杯あって、ついついはしょってしまった。で、疑問があったらその都度なんでも聞いてと、与田さんは快く応じながら話しを続けてくれた。
現地では、ガイドさんから特別な防虫予防の指示があったわけでもないし、また、僕自身もこれといった虫除け対策に気を使ったことは一度もなかった。なのに、日本の夏ように蚊やハエなどに悩まされたという記憶は全くない。今思うと、とっても不思議な気がします。
熱帯のジャングルというと日本人は、うだるような蒸し暑い日々と蚊に悩まされる日本の夏を思い浮かべ、それ以上に苛酷な世界だろうと想像するだろうが、旅行中の現地では、そんなことをちっとも感じさせない日々だった。ちなみに、湖の水は酸性なので蚊は湧かないそうです。
虫の心配よりも、多くの観光客は日焼けに悩まされていた。日本人の僕はへっちゃらだったが、白人なんかすぐに真っ赤になってとても痛々しかったよ。
そして、服と履き物の件だけどと、話し始めて与田さんは、その前にネヲンさん、僕が体験したこの旅行は、日本のツァー会社が募集する安直なインスタントのツァーとはまったく趣が違うものだから、しっかり頭を切り換えて聞いてね、とことわりを入れた。
まず履き物ですが…、
水遊びといえばビーチサンダルですよね。だからといってネヲンさん、ひと夏限りの安物のスポンジ製のビーチサンダルを想像してはダメですよ。あんなものは大自然のなかでは使い物になりません。クロックスのゴム草履ですよ!
ただ僕が履いていたのはイタリア製で、底が頑丈で足首とつま先が固定できたのでとても便利でした。また履き物といえば、ここのホテルでは、日本の旅館・ホテルのように館内ではスリッパ、外出時は下駄というように、いちいち履き替える必要がないのでとても快適だった。だって、床が汚れていても気にならず、シャワーを浴びるのもサンダル履きのままでOKなんだもの…。
それと、旅行中に身につけていたのは、おもにTシャツと海水パンツでした。なにしろ熱帯ですからね。あっ、もちろん、海水パンツはロングのヤツでしたよ。
若いということは素晴らしい。ベッドにもぐり込んだと思ったら、あっという間に朝が来た。
いよいよエンジェルフォールにむかう日が来た。
出発の際にガイドから指示があった。帰りは明日になるが、最終的にはまたここへ戻るので、貴重品と余分な荷物の類は、すべてフロントに預けて置くようにと…。そんな訳で、身なりは相変わらずTシャツにロングの海パンという気軽なスタイルでした。いくら熱帯のジャングルの旅とはいえ、そこはそれ一泊のツァーなので、夜の備えを怠ってはいけないので、長ズボンと長そでシャツ、それと、防寒用のジャンパーなどをザックに詰め込み背負った。身の回りの手荷物はこれだけであった。
やがて、まるでオランウータンかチンパンジーの集団かとみまちがうような我々ツァー客たちは、旅の第一歩を踏み出した。エンジェルフォール行きの舟(木造なので船ではない)に乗るために、きのう遊んだ滝のところにある船着場へむかった。道のりは20分ほどである。
ホテルを出るとすぐにガイドは、これから皆さんをパラダイスにご案内しますといった。

それを聞いた僕は、極彩色の蝶や小鳥が飛び交い原色の花々が咲き乱れる熱帯のジャングル園を想像した。しかし、案内されたところは、僕がきのう泊まったホテルのすぐ裏手にあったごく普通の小屋でした。僕は投宿以来、ホテルの裏手には現地人の住む小屋が幾つか建ち並んでいるぞ…、と思って見ていたうちの一軒でした。
外見はただの小屋でしたが、実は、そこは売店だったのです。ガイドに案内されるままに立ち入ると、屋内(おくない)はとても薄暗かったが、ややして目が慣れると、そこにはさまざまな生活雑貨や食料品が無造作に並べられていた。
僕は、なんでここがパラダイスなんだと、いぶかしんだ。「ネヲンさんだってそう思うでしょう」だってこの建物ですよと写真を指差した。
しばらくして僕は、ガイドが言ったパラダイスの言葉の意味がようやく解った。実は、ここは国立公園内なので、法律により、ホテルの館内以外でのアルコール類の販売は一切禁じられていたのです。だから僕は、エンジェルホールツァー中の二日間は禁酒を覚悟していた。
が、ここで買えたのです。ビールが!!!
嬉しさがこみあげてきて、さらに気分はウキウキとなりました。ネヲンさん、僕はアル中ではないので心配は無用ですよ。
これに応じて湯ノ街ネヲンが聞いた。「貴重品はすべてフロントに預けたのでは?」と、「その通りです!」と言って、与田さんが話を続けた。ガイドの指示があって、お金は、すべてホテルに預けました。だから僕は、本当に一銭も持っていませんでした。が、店内に入るとガイドが言った。ここでの買い物の代金は、すべてガイドが立て替えますと…。勿論、僕だけでなく誰にでも貸してあげると言った。
狭い店内は昨日のツァーで顔見知りになった人達で溢れかえった。それぞれが夢中になって買物していた。そのときフト僕は、店の片隅でなにやらひそひそ話をしている、身体の大きなメキシコ人の夫婦とガイドのことが気になった。なにやらコソコソと悪だくみをしている雰囲気だったからである。
声は聞こえてくるが、もちろん僕には、話の内容は全く解りません。その会話がスペイン語で交わされているからです。余談ですが、南米の国々の人達の日常生活は、スペイン語で成り立っています。そして、これらの国々の人達は、英語を理解しようという考えは全くないそうです。だから、このメキシコ人夫婦が喋っているは、間違いなくスペイン語なのです。
英語がやっとの僕には解らなくて当たり前です。だけど僕には、密談という雰囲気が伝わってきたので、そしらぬ顔で様子を窺っていた。そのうちガイドが、店の人に何かを告げた。
すると、なんと、なんと…!!!
いったん店の奥に消えた店主が、さりげなくウィスキーをぶら下げて再びあらわれたではないか。これで商談成立かと思いきや、ウイスキーを目のまえにしてメキシコ人の態度がちょっとおかしかった。その様子から察するに、ウィスキーの値段を聞いて買うかどうかで迷っているようだった。
このとき、酒好きの僕のカンが働いた。その一角にそっと近寄った。そして、「オレもウィスキーが飲みたい!」と、単刀直入にガイドにせまった。ガイドは慌てる様子もなく、僕のこの要望を店主とメキシコ人とに通訳をした。するとそこへ、オランダ人も寄ってきて、オレも飲みたいと言って参加を求めてきた。酒飲み同士、相通じるモノがあるらしい。結局、3人の割勘でウィスキーを買うことにした。
お金をホテルに預けてしまった僕とオランダ人はそれぞれ持ち合わせがなかった。それを知ったメキシコ人は、なんと、リュックの中からごそっとキャッシュの束を取り出して、二人分を立替えて代表でウィスキーを買った。
その代金は、エンジェルフォールから戻ってから、それぞれが、メキシコ人に払うということで決着した。国際的な闇取引が成立した瞬間である。ちなみに、この時の様子から、このメキシコ人夫婦は相当のお金持ちらしかった。もう一つおまけに、このウイスキーの値段は、日本円で千円ちょいだった。僕はこのとき、日本人はとっても凄いと思った。